校長室ブログ

徒然なる毎日

6/7 三貫清水緑地の「鎌倉街道」(道と史跡10)

 皆さん、休日はどう過ごしていますか。

 私の場合、ごろごろ寝っ転がって過ごすというのが、どうも苦手です。とはいってもどこかへ遊びにいくお金もないので、公営のスポーツセンターへ行ったり、近所を走ったりしています。その成果を発表します。

 このページでは鎌倉街道「羽倉道」について断続的に書いています。今回もその続きです。本校の前から本町通を北上し、6/1の本欄で取り上げた氷川神社から並木南町分岐を右にとって進みます。2~3kmくらい行くと、4/19の本欄で取り上げた櫛引の板碑や日進神社です。さらにこの道を突き進むと日進駅の西側で埼京(川越)線を渡り、17号バイパスも横切って、さいたま市立大宮北高校の近くへ出ます。

 大宮北高校のグランドの南側に「三貫清水緑地」という公園があります。その公園を南北に貫いている道が昔の「鎌倉街道」とされています。台地から鴨川の低地に下る斜面林の中にあり、がけ下にはかつて太田道灌公が激賞した名水が湧出しているという、隠れた名所です。まさに鎌倉街道という風格を感じさせる道で、ご近所の方の絶好の散歩道となっています。

 この道の北側の突き当りは大宮北高校のグラウンドですが、高校敷地の西側に沿ってきれいな水の流れる側溝があり、北西の角に「弁財天」の祠があります。弁財天(弁天様)は元はインドの川の神です。日本では、ほとんどが水辺(有名なところでは江の島や琵琶湖の竹生島、近場では与野公園の天祖神社の池の小島など)に祀られています。ここに弁財天があるということは、この地域に水にまつわる信仰があることを示しています。

 大宮北高校グラウンドの北側の辺から北上する路地を進むと太い道との交差点に古い道標と馬頭観音が立っています。道標には、東は「あげおいわつき道」「ぢおんじ道」、西は「あきば道」、南は「よの道」などど書いてあります。この東西に交差する道も秋葉神社に参詣する人が通った古い道筋です。いやあ風情がありますねぇ。

 

 さて、しかし、ここまで書いておいて何ですが、ここで私は「上に写真を載せた『鎌倉街道』は本当に鎌倉街道なのか?」という疑問を提出したいと思います。

 「さいたま市教育委員会が指定してしているものに文句をつけるなよ!」という声が聞こえてきそうですが、私にも疑問を提出するだけの根拠はあります。

 まず、この道の通っている場所です。昔の街道はたいてい台地の鞍部(一番高いところ)を通っていることが多いものです。その方が水害等に強くなりますし高低差も少なく工事が楽です。三貫清水緑地の「鎌倉街道」は雰囲気は素晴らしいですが、この原則に外れ、斜面林のかなり崖下に近い場所を通っています。これでは鴨川があふれたらすぐに水につかってしまいそうです。

 次に、この「鎌倉街道」は以前紹介した櫛引の板碑と日進神社のあるルートの延長上にありません。下の地図は、左側が例の「明治迅速図」で右が今の地図です。三貫清水緑地の「鎌倉街道」とされているところは地図上に「〇」をつけた場所です。

 ご覧の通り、左の迅速図ではここには道が書いてありません(少なくとも太い道はありません。曲がった細い線は等高線です)。地図上に赤線で書き加えたものが、櫛引の板碑からまっすぐに北上するルートで、三貫緑地公園の「鎌倉街道」より100mくらい東側になります。赤い線の北の突き当たりが先述の道標と馬頭観音になります。この赤い線は今の地図では大宮北高校の敷地で分断され、東寄りに迂回した新しい道が作られていますが、このルートであれば、斜面林を登り切った台地上を通るルートとなり、先ほどの昔の街道の原則も満たします。こちらが本当の鎌倉街道なのではないでしょうか。

 さいたま市教委(旧大宮市教委)は、どのような根拠から三貫緑地公園の中の道を「鎌倉街道」に比定したのでしょうか。発掘調査の結果とかなら文句はありませんが、もともとはただの森の中の間道だったものを、いかにも古道らしい雰囲気に流されて「鎌倉街道である」としてしまった可能性も無きにしも非ずだと思います。私的には、上述のような理由から、この道が鎌倉街道というのは怪しい(本当に素晴らしい散歩道ではあるのですが)と思っているのですが。

 

 

 

 

 

6/3 体育祭速報(2)

 体育祭午後の部です。心配された天候も持ち、すべてのプログラムを無事終えることが出来ました。

 団対抗は午前中のリードを保ち黄団が優勝しましたが、青団、赤団も頑張り、とても面白い体育祭になりました。

 特に大トリのブロック対抗20人リレーは、男女各10人でトラックを10周もするレースでしたが、どの団も精鋭を集めたのか、1位と2位がほんの1歩差という接戦でした。

 

 【青組ブロック演技】(女子のセーラー服や男子の青いシャツとネクタイはダンス用の衣装です。本校の制服ではありません。念のため…)

 

 【黄団ブロック演技】(男子もいたんですが映ってないですね。すみません。女子だけひいきしているわけでは、決して…おそらく…多分…ないです。)

 

 【赤団ブロック演技】(この黒いセーラー服等もダンス用です。)

 

 【忍者リレー】(前を走るチームの布を踏んでバトンを落とさせることが認められているので、順位が目まぐるしく入れ替わって面白い競技です)

 

 【ブロック対抗20人リレー】(上記の通り、ゴールはこの僅差でした!)

 それにしても、今日の体育祭を見て思ったのは若いって素晴らしい、ということです。地面を力強くけった足がきれいに跳ね上げられ、前にすっと伸びていくのは、年寄りには決してまねのできない美しい光景です。

 本当にいい体育祭だったと思います。

 

6/3 体育祭速報

 今日は体育祭です。天候にも恵まれ朝から熱戦が繰り広げられています。

 団対抗ポイントは黄団が抜け出し、赤団と青団が競り合っている状態で午前を終えました。午後のブロック演技や各種リレーの結果次第で、まだまだ勝敗の行方は分かりません。

男子100m予選

ボール運び

大縄跳び

部活対抗リレー

 

6/2 体育祭予行

 今日は体育祭予行でした。体育祭本番に向けて、団体種目の練習や会場準備を行いました。

 ここのところはっきりしない天気が続いていますが、今の時期、気持ちよく晴れると、熱中症の心配もありますし、今日のようにほどほどの曇りで、熱くもなく寒くもなくという天候がベストだと思います。本番も同じような天気になってくれるとよいのですが。

6/1 もう6月ですか。& 氷川神社探訪(道と史跡9)

 はや6月になりました。

 学校の方は体育祭の準備が本格化していますが、今年度はコロナウイルスの状況に鑑み、保護者の方への公開も行ないませんので、ご理解願います。体育祭当日の様子は、このブログや他のコーナーでもお伝えしていきます。

 さて、昨日の昼休みに上町の氷川神社まで行ってきました。本校から本町通を1kmほど北上したイオンモール与野のすぐ南側の道の屈曲部にあります。昼休みの時間内に足を延ばせるのは、ここら辺が限界でしょうか。

 

 本家本元の大宮の氷川神社ほどではありませんが、なかなか立派な神社です。ここの本殿は300年ほど前の宝永年間に作られたもので、小ぶりですがかっこいい建物です(写真は撮り忘れました (-_-;) )。

 境内にはたくさんの摂社(一緒に祀られている小さい神社)や地元の方が献納した灯篭などがたくさんありますが、その中でも目を引くのが、この庚申塔です。享保4(1719)年とあるのでちょうど300年くらい前のものです。

 

 なぜか境内に立っていますが、庚申塔は道端に道標を兼ねて立てられることが多いのでどこかから移築されてきたものと思われます。両側面を見ると「これより左川越道」「これより右大宮道、奥州道」と道案内が書かれています。

 この「右・左」をさいたま市HPなどでは、この氷川神社の所の分岐であるとしています。だとするとこの庚申塔は鳥居前あたりにあったことになります。ですが、私はこの庚申塔は、本町通を北へ1kmほど行った「並木南町」バス停の近くの分岐に置かれていたものではないかと思います(私の考えすぎで、さいたま市HPの記述には確かな根拠があるのかもしれませんが…)。

 理由ですが、まず例の「明治期陸軍迅速測図」でみると、神社の所から右に分かれる道も確かに大宮方面へは行きますが、非常に細く描かれていて街道筋のようではありません。次にこの道だと「大宮道」はともかく「奥州道」への接続があまりきれいに描けません。一方、「並木南町」の分岐点から伸びる道は、はっきり太く描かれているだけでなく、以前紹介した「櫛引の板碑」の場所へつながる旧羽倉道の想定ルートであり、上尾近辺から菖蒲・幸手方面へ抜ける道がたどれます。

 あとこの庚申塔でちょっと謎なのは、「川越道」の面は流麗な行書っぽい書体なのに、反対の「大宮道・奥州道」の面は律儀な楷書体で彫ってあることです。どちらかの面は後から彫り足されたりしたのかもしれません。

 学問的に正しいのかはともかく、こんなことを考えながら歩くと、退屈しません(ブラタモリみたいですね)。

 氷川神社の近くには「出世稲荷」や、「与野聖人」と呼ばれた大学者の西澤曠野先生の墓所などもあります。生徒の皆さんは出世稲荷にお参りしておくとよいかもしれません。

 

5/24 一山行者カムバック!(道と史跡8)

 今日から中間考査です。

 いつも静かな与野高校ですが、試験中は一段と静かでまるで人がいないようです。ただ休み時間になると、緊張から解き放たれるせいか、悲鳴とも雄たけびともつかない声が聞こえてきたりします。

 さて、今回はちょっと妙なタイトルですが、天気も良いので久しぶりの近隣史跡巡りシリーズです。

 いつもおなじみの本町通を本校の位置から200mくらい北上します。ファミリーマートの向かい側に「一山神社」の看板と赤い灯篭が立っています。そこから、石畳の参道を入っていくと、普通の民家の庭先のようなところに入ってしまい一瞬戸惑いますが、そのまま奥に進みます。

 すると突然異次元の世界に入ったかのように、立派な石の鳥居とうっそうたる境内林、立派な社殿を持った神社が現れます。

社殿正面の透かし彫りも見事です。

 表通りからちょっと入っただけでこんな森厳な空間が現れるとは、ちょっとびっくりですが、これが「一山神社」です。

 この神社は何をお祀りしているのかというと、少彦名命、誉田別命、一山大神とのことですが、やはり中心は社名にもなっている一山大神でしょう。この一山大神とは、江戸時代後半に各地に木曽御嶽山の信仰を広めた一山行者を神格化したものです。

 一山行者は相模国(神奈川県)津久井村(相模湖の近く)で生まれ、与野の井原家の婿となりました。しかし、ある時発心して円乗院(本校の南隣のお寺)で僧となり、木曽御嶽山などで修験道を修め行者となりました。各地で尊崇を集め、与野にもたくさんの信者がいました。そして行者が亡くなった後、与野の一山講(信者団体)が、木曽御嶽の神と一山行者を祀るために、元は八幡神社であったところを、一山神社としたとのことです。

 こうしてみるとすっかり与野の人ですが、なぜかネットで一山行者を検索すると、与野の一山神社ではなく、東京都大田区の御嶽神社のHPが最初にヒットします。また2年前に大田区立博物館で特別展「嶺の御嶽山と一山行者」という展覧会も開かれたようです。これらのHPを見ると「一山行者は荏原郷嶺の木曽御嶽を祀る祠を再興して御嶽神社を開き、大いに御嶽信仰を広めた」的なことが書いてあり、与野出身であることにも一応は触れていますが、まるで大田区が一山行者の活動の中心、本場であるかのようです。

 これって、なんとなく「横どられ」感がないですか? 

 あえて平地に乱を起こそうとは思いませんが、せっかくの与野の生んだ歴史上の人物なのに、大田区に取られてしまっているようなのは残念です。与野(中央区)でも、もっと一山行者を顕彰し、郷土の偉人として奪還した方がよいのではと思います。

5/21 科学部の表敬訪問に行ってきました。

 昨日(5/20)、科学研究部(虹班)の諸君と表敬訪問に行ってきました。

 これは、科学研究部の「過剰虹のメカニズム」が、日本学生科学賞の全日本科学教育振興委員会賞を受賞したことによるものです。大野県知事(写真上中央)、木下県議会議長(写真中前列中央)、高田教育長(写真下中央)を訪問し、成果を報告するとともに激励の言葉をいただきました。

 写真(3枚とも)で右側に立っているのが水吉君、左側が村田君です。上の2枚の女子生徒は、本校とともに日本学生科学賞(学校賞・旭化成賞)を受賞した坂戸高校の生徒です。

 私などは、着任したばかりで今回の受賞にあたって何の役にも立っていないのですが、役職上、科学部の諸君のお供をさせていただきました。詳しくは科学研究部のページに乗ると思いますので、まずは速報まで。

 

 

  

  

5/14 身辺雑記

 ここのところ、もう梅雨が来たか? という感じの曇りや雨の日が続いていましたが、今日は気持ちよく晴れています。

 とはいえ、全国のコロナウイルスの陽性者は目立った減少を見せておらず、蔓延防止対策はまだしばらく続きそうです。世界に目を転じれば、パレスティナとイスラエルの紛争が再燃しているという話もあります。新しく買った靴は、かかとのパッドのあたりがきつく、靴擦れをするし…。なぜ、こううまくいかないのかと思うと気が滅入ってくる感はあります。

 そんなときは、気分を変えてくれるような物事を身辺に探すしかありません。

1、バラがきれいです。

 与野というと、与野公園のバラ園が有名ですが、旧与野市時代から「バラの町」づくりに取り組んでいたため、町のあちこちにバラが咲いています。与野本町の駅前広場のバラ園もきれいですし、住宅街の民家にもちょっとしたところにバラが植えてあります。

 現代だと「○○の町」として、町おこしをするのは当たり前になりましたが、旧与野市は半世紀以上前からそれをやっていたわけです。町の特色を強く印象付けるだけでなく、見る人の心を和ませてくれる旧与野市の素晴らしい遺産だと思います。

 

2、こんな神社を見つけました。

 先日、1号棟の廊下から何気なく外を見たところ、本校のすぐ北側に「八雲神社」という看板を発見しました。

 夕方、帰宅のついでに見に行ってみると、仲町公民館と神社を兼ねた建物でした。鳥居もなく、外見も屋根がかまぼこ型をしたちょっとおしゃれな民家といった感じで、一般的な神社のイメージとはだいぶ違います。しかし、本来、そこに神様が祭ってあれば神社なのであって、社殿の有無や建築形式などは些細な問題です。神社の前に、この神社は近隣の方の厚意によって建てられたという石碑がありました。与野というのは、前の「塚巡り」の時も思ったのですが、非常に敬神の念の厚い土地柄のようです。

 しかし、八雲神社とはありがたい(個人の感想です)。

 社号を八雲神社というからには、おそらく京都の八坂神社の末社で、祭神はスサノオノミコトでしょう。スサノオノミコトは垂迹説では「牛頭天王」と同一視されます。牛頭天王とは字の通り牛の頭に人間の体をした古いインド系の神様です。この牛頭天王のまたの姿が「武塔大神(むとうたいしん)」といわれ、疫病退散に霊験があるといわれる神です。

 前任校の近くにも、やはり「八枝神社」という八坂神社の末社がありました。昨年度、前任校で生徒・教職員に何人かコロナ陽性者が続いたことがありましたが、昼休みに八枝神社に行ってお札をいただいて(もちろん公費ではなくポケットマネーで)きたところ、そのあとはなぜかぱったりと陽性者が出なくなりました(因果関係は不明ですが)。というわけで、このコロナのご時世に本校の隣に疫病退散に霊験あらたかな八雲神社があるというのは、大変心強い気がしました(しつこいようですが個人の感想です)。

 

 

 

 

 

5/7 連休の谷間にて

 大型連休と思っていた今年のゴールデンウィークも、残すところ明日、明後日のみとなりました。子供のころから次の休みを指折り数えて待っていたお休み好きの私としては、断腸の思いです。

 私のここまでの連休の過ごし方を振り返ってみると、前半は日曜大工、後半は読書や庭掃除と、中間の5月3日に本校吹奏楽部の定期演奏会を聴きに行ったほかは、あまり外出もせずに過ごしました。

 吹奏楽部の定期演奏会も、通常であればこのページなどでも盛大に告知し、なるべく多くの方に来てもらうところなのですが、今年はコロナのご時世ですので、観客は部員のご家族と教職員だけという、内覧会のような感じで行いました。多くのお客さんに聞いていただけなかったのは、ちょっと残念でしたが、しっかり練習を積んだいい演奏でした。

 それにしても、コロナウイルスの流行も2年目に入りました。もしもう1年今のような状況が続くと、高校にとっては大変な危機になります。現在の3年生は、1年生の時は「コロナ以前」でしたが、いよいよ自分たちが部活や行事の主役になるというときにコロナの流行が始まってしまいました。2年生は1年生の時にまともに部活等が出来ていませんし、1年生は中学校で同じような状況でした。1年後に現3年生が卒業してしまうと、高校には高校の部活や行事をきちんと経験したことのある生徒がいなくなります。様々な伝統や校風、各校独自の文化などの継承が危ぶまれます。1日も早く流行が終息してほしいものです。

 

4/30 与野「塚巡り」の4(道と史跡7)

 さすがに塚巡りは4回で終わりにします。前回、与野高校周辺に密集する塚は「古墳群かも」という説を書きました。この説ははっきり言って全然定説ではありませんが、私自身はそれなりに根拠はあると思っています。

 根拠のひとつ目は分布の様子です。下の地図は、明治10年代後半に陸軍が作成した「迅速測図」の一部です。(画像は埼玉大学の先生が運営する「今昔マップ」というサイトからいただいてきました。)

 この地図上で塚の分布をみてみます。

 まず、今の街並みとの関係をつかんでいただきたいのですが、地図の右の方の建物が立ち並んでいる通りが、今の本町通りです。地図の右下の方に、右から左へ「圓(円)乗院」と書いてあるのが見えます。

 円乗院の左上に鳥居の絵と「天神」とあるのが天祖神社ですが、周囲のケバケバで地面の盛り上がりを表しています。その左にも盛り上がりの描写が二つあり、この3つの盛り上がりを囲むように水を表す水色の線があるのがわかります。これは天祖神社の塚が主墳、横の二つが陪墳でそれを濠で囲んでいるのではと思わせる配置です。

 この3つの塚と道を隔てた北(上)にも鳥居があり「御嶽」と書いてあるのが御嶽塚、その左の地図のほぼ中央にある鳥居が大国社塚です。そして地図の左上角ぎりぎりに見える鳥居が浅間神社塚です。

 こういった密集は行田の「さきたま古墳群」でも見られますし、そのほか全国の古墳群でもよくあります。いかにも古墳群っぽい感じがします。

 二つ目として、これらの塚が、浅間神社、大黒社、天祖社、御岳神社などとして地域の尊崇を集めていた場所であることです。神社や寺が古墳の上や隣に立てられている例は、あちこちにあります。古墳に誰を祀っているのかは忘れ去られても、「何か祀らなくてはならない場所」であるという意識が継承されてきた可能性があります。

 三つ目は地形的な観点です。下の左側の地図で濃い水色の蛇行して描かれているのが、戦国時代ころまでの鴨川(旧入間川)の流路です。地図中の赤い四角で囲ったところが上の明治迅速図と大体同じ範囲で、右の地図はそこだけ拡大したものです。

 薄水色の部分は昔、水田や湖沼だったところですが、この図で見ると、濃い青の部分よりさらに古い時代に川が蛇行していた跡やそこに流れ込む小河川が削った谷のように見えます。

 拡大した右の図で見ると今の御嶽神社のところと、与野公園の3つの塚の間に細い入り江があり、大国社と間にも細い入り江が入り込んでいます。こういった河川や湖沼を見下ろす高台には、遺跡や古墳がよく見られます。実際に濃い水色の鴨川旧河道沿いの段丘上(左の地図で黄色く塗られているところ)には、側ケ谷戸古墳群、白鍬古墳群、大久保古墳群などが分布しています。このような地形面からも本校周辺に古墳群があっても不思議ではない気がします。

 そして、もしこれが古墳群なら、山岳信仰が盛んだから塚をたくさん作ったのではなく、古くから古墳がたくさんあったから、それを近世の山岳信仰の信者が富士塚や御嶽塚として再利用した、という説も成り立つわけです。

 勝手に推測ばかりしていても仕方がないので、この点について、これまでの調査や研究はどうなっていたのかを、少し当たってみました。さいたま市への合併の前に当時の与野市教育委員会が出版した「与野の歴史」(1988年)では「与野市域内に墳丘を持つ古墳は、現在のところ一基も発見されていません」と書いてあります。一方、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)では、浅間神社富士塚、大国社塚、御嶽塚については「古墳」であるとされていますが、出土品は「なし」となっています。

 とはいえ、古墳と近世になってから作られた塚の区別は外側からでは困難です。「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」が出土物がないのに、なぜ3つの塚を古墳と判断したのかはよくわかりません。これをはっきりさせるためには、発掘調査や超音波等による地底探査などをしてみるしかありません。もし古墳であれば、副葬品や埴輪の破片等が出土したり、地下に埋葬施設(石室や石棺など)が見つかると思います。さすがに学校のシャベルを借りて勝手に掘るわけにはいきませんので、だれかきちんとした学術調査をしてほしいなと思います。

校長あいさつ

 

 与野高校は昭和3(1928)年に埼玉県与野農学校として開校して以来93年、2万4千人を超える有為な人材を輩出してきた伝統校です。

 現在の与野高校は、「二兎を追い、獲得する」を目指す学校像に掲げ、生徒の一人一人が、勉学と部活動や生徒会活動のどちらにも熱心に取り組み、自らの可能性を最大限引き出せる学校を目指しています。

 本校では、約9割の生徒が大学等の上級学校への進学を希望しており、日々の授業に熱心に取り組んでいます。3年生を中心に自習室や図書館で勉強に励む姿もよく見かけられます。毎年、国公立大学や私立の伝統ある大学に多くの生徒が合格を果たしています。分野別の進路ガイダンスを充実させ、4年制大学だけでなく、短期大学や専門学校への進学、就職を希望する生徒へもきめ細かな指導を行っています。

 放課後のグラウンドや体育館、各教室では運動部・文化部が活動に励む、活気あふれる声が響きます。運動部では全国大会出場のフェンシング部、バトン部、弓道部をはじめ、男女バスケットボール部など多くの部が県大会出場を果たしています。文化部も、吹奏楽部、書道部、美術部などはこれまで多くのコンクールや展覧会で実績を上げています。昨年度は、科学研究部が日本学生科学賞において「過剰虹のメカニズム」で全日本科学教育振興委員会賞を受賞しました。

 在校生の皆さん、そしてこのページをご覧いただいている中学生の皆さん。皆さんには「二兎」と言わず、「三兎でも四兎でも」追ってもらいたいと思います。

 人が自分の器(スケール)を大きく育てられるのは若いうちだけです。スポーツでも勉強でもある程度年齢を重ねると、若いころのレベルを保つことはできても、超えていくのは容易ではありません。高校生という年代は、人としての「育ちどころ」です。興味ある事、やりたい事に思い切りチャレンジして、自分の限界をどんどん押し広げてください。与野高校は、そんな皆さんを応援する学校です。

 在校生の皆さんは頑張ってください。そして中学生の皆さんは、ぜひ本校に来てください。そして自分の可能性を大きく伸ばしてみませんか。

 

二兎を追い獲得するとは

 「二兎(にと)」とは当然「学問(勉強)と部活動・生徒会活動」です。本校では生徒一人ひとりに、高い目標を掲げて、勉強と部活動・生徒会活動に全力を注ぎ、目標を達成することを求めています。
 「学問に王道なし」と言うように、日常の勉強に「王道」はありません。特に高い目標を達成するためには、地道に努力していくしかありません。そのためには、勉強や部活動を日常の習慣にするしかありません。
 本校では、部活動や特別活動をとおして、自主的に考え、自律(立)して行動する力を身につけさせ、朝読書、週末課題、授業によって自立した学習者を育て、学力の向上に繋げていくことを目指しています。
 二兎を追い、勉強と部活動のどちらにも偏らない、バランスのとれた生徒達を育てて行くのが与野高校の教育活動です。生徒達が全力で二兎を追い、獲得することを願っています。

本校の特徴

本校は昭和3年創立の長い歴史と伝統を受け継いできた学校です。

埼京線与野本町駅から徒歩10分という通学の便に恵まれた住宅街の中に位置しています。

HR教室に冷房設備が完備するなど、施設、設備も充実しています。
生徒たちは緑豊かな恵まれた環境の中で、和やかで落ち着いた学校生活を送っています。

文系、理系、私立、国公立などの進路希望に応じ、学びを深めるようカリキュラムを工夫。生徒が努力すればするほど成果が上がる環境を整えています。

また、多くの生徒が部活動で切磋琢磨しています。18の運動部と17の文化部・同好会が活発に活動しています。詳しくは部活動のページをご覧ください。