校長室ブログ

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3/13 卒業式が行われました

 1か月ぶりの更新となりましたが、先週の金曜日3月10日に、第68回卒業式を挙行いたしました。

 脱コロナの動きが加速する中、3年ぶりに国家や校歌の斉唱も行われ、卒業生は原則マスクなしの卒業式となりました。しかし3年以上にわたり毎日マスクを着け続けていたため、急にはずすことには抵抗感があるのか、実際にマスクを外して参列した生徒は半分ほどだったような気がします。

 思えば、今年度卒業の諸君は、入学式そのものもコロナ対策のために6月にずれ込み、その後も様々な行事が中止や延期になるなど、高校生活全般にコロナウイルスの影響を受け続けた学年でした。その苦難に耐え、卒業を迎えた諸君には、心からおめでとう言わせてもらいます。

 卒業式の式辞では、卒業生諸君に、「luck favours the daring (幸運は勇気ある者に訪れる)」という言葉を贈りました(下のリンクから式辞本文が読めます)。残念ながら現在の世界は、決して平和で安定した世界ではありません。しかし若い世代の活躍が今後の世界を作り出していくという気概をもっと進んでいってほしいと思います。

第68回卒業式 式次.pdf

 

2/9 春近し & プチ史跡巡り(19)謎の機械

 立春を過ぎ、今週は少し寒さが和らいできました。

 いつも校長室に華道部の皆さんが届けてくれるお花も、今週はいかにも春っぽいチューリップとゼンマイ(?)でした。まっすぐ突き抜けるように伸びるゼンマイの若芽がとても力強くていいですね。

 

 学校の方では先日、学校評議員会・学校評価懇話会がありました。懇話会の席上、生徒代表の生徒会役員の皆さんから、生徒目線での沢山の意見がありました。すぐには実現が難しいこともありますが、取り入れるべきは取り入れ、より良い学校づくりに生かしていきたいと思います。

 さて今回の「プチ史跡巡り」は史跡というよりは「遺物」という感じです。

 先日、身内の法事で出かけた県内某所のお寺の裏手で、謎の機械の残骸を見つけました。

 

 赤さびだらけですが、複雑に組み合わさった歯車に機械らしい魅力を感じます。片方の端にあるラッパ状の部品とそこに何かを流し込むガイドカバーのような部品の形状から想像するに、何かをすりつぶしたり混ぜ合わせたりする機械のようですが、本体真ん中の辺りに木製の風車のような物がついているのが謎です。もしかすると「籾摺り機」かと思うのですが、だとするとラッパ状の部分が小さくてあまり能率がよさそうではありません。どこかに銘板でも残ってないかと思いましたが、それも見当たりません。これが一体何か、すごく気になります。どなたかわかる方がいたら、教えてください。

 

 この機械もかつては農村でありふれたものだったのかもしれません。しかし、こういう何気ないものにまつわる記憶というのは失われやすいものです。

 たとえば、商店街にあったお店が取り壊され別のものに建て替わったとします。半年もすると長年、見慣れた景色だったはずなのに、元は何があったのかというのは意外と思い出せなくなってしまいます。

 とはいえ、古い家は壊さなければボロ屋ばっかりになってしまいますし、古いものを捨てなかったら家の中はガラクタだらけになってしまうので、古いものが新しいものに入れ替わっていくのはやむを得ません。

 しかし、今我々が当たり前だと思っている生活もいつか歴史の一部になります。見慣れた何気ないものやことこそ、意識して記録や記憶を残しておくべきだろうと思います。

1/27 プチ史跡巡り(18)さざれ石とか

 県外シリーズ第2弾といっても前回と同じく東京は虎ノ門界隈ですが…。

 今回は日本の教育行政の総本山、文部科学省に潜入しました。地下鉄銀座線を虎ノ門駅でおりると、地下道を通って文部科学省のすぐ前に出る出口があります。そこを出て直進し突き当りを右に曲がると、中庭のようになっているところがあり、そこに「さざれ石」があります。

 

 国歌「君が代」の歌詞で「~さざれ石の巌となりて~」と歌われているアレです。さざれ石とは、元々は細かく砕けた石の事ですが、文科省の前の「さざれ石」は、細かい石が、石の間に炭酸カルシウムなどが入り込むことで固まった石灰質角礫岩という堆積岩の一種です。ただ写真でもわかる通り、まだ岩石としての強固さはない感じです。「君が代」の歌詞のとおりに、細かい石が地中に堆積して強固な巌に成長する過程なわけですね。

 この文部科学省前の「さざれ石」は、さざれ石の産地として有名な岐阜県揖斐市産のものであると説明板に書いてありますが、いつ頃、何のためにここに置かれたのかは書いてありません。私としては、むしろそこが知りたいのですが。

 このさざれ石のすぐ近くに、溝の中に降りていく階段があります。階段を下りた溝の側面が、江戸城外堀の石垣の遺構です。石を切り出したノミの跡や、普請を担当した大名家のマークなどを見ることが出来ます。

 

 旧江戸城は明治維新の後、急速に荒廃し(幕末から財政難のため荒れていたという説もありますが)、建物もあらかた取り壊されていまいました。もったいないことをしたものだと思います。われわれは姫路城、熊本城などを見て城郭建築の壮麗さに感動していますが、明治初年に撮られた写真や現存する図面などによると、明治以前の江戸城は、それらとは比べ物にならない広大なものでした。タイムマシンがあったらぜひ見に行きたいですね。

 この2つの史跡は表通りからはちょっと奥まったところにあり、入っていくのがためらわれる感じですが、特に許可などもらわなくても見学できますので、虎ノ門の辺りに御用のある方はついでに寄ってみてはいかがでしょうか。

 

1/10 始業式・プチ史跡巡り(17)金刀比羅宮(虎ノ門)

 今日は三学期の始業式でした。

 感染予防の観点から始業式は放送で行いましたが、好天気だったのでスタジオに使った多目的A教室からは、遥か東京スカイツリーまでが見渡せました。(下の写真の円内。手前は圓乗院の多宝塔)

  

 始業式では、今年の箱根駅伝の駒澤大学優勝の話題から、駒澤大・大八木監督の優勝のために工夫や努力を怠らない「昭和の精神」を見習いたいという話をしました。R4第3学期始業式.pdf

 今回のお題の二つ目「プチ史跡巡り(17)」は、シリーズ初の県外取材、東京は港区虎ノ門にある金刀比羅宮です。

 この神社自体は、江戸時代に讃岐丸亀の藩主だった京極高和が1660年に四国の金刀比羅宮から勧請し、藩邸内に祀ったという由来がはっきりして特に不思議はありません。祭神は大物主と崇徳天皇ですが、大物主の別神格少彦名命が、船に乗って来訪した神ということもあって、海事関係者の尊崇を集める神社です。そのせいでしょうか、現在でも道路反対側には、商船三井ビルが建っています。

 さて、今回、書きたかったのはこの金刀比羅宮に見られる日本的な精神についてです。

 

 上の写真でも分かるように、この神社は都心のビジネスビルに囲まれるようにして建っています。というか境内に虎ノ門琴平タワーというビルが建っていて、写真左側に見える社務所はこのビルの1階、写真から見切れたところにある神楽殿に至っては地下駐車場の入り口をまたいで建っています。

 この都心の超一等地に残された神社に、私はすごく頼もしいものを感じました。

 現在、日本はバブル崩壊以降の経済的な立ち遅れが隠しようもなくなり、すっかり貧しい国になってしまいました。現代においてグローバル化は避けようがありませんが、21世紀になってからの日本は欧米に追従しようとするあまりに、肝心の日本の強みというべきものを捨ててしまったように思います。

 うまく言えませんが、この金刀比羅宮に見られるように、現代的なものをこだわりなく取り入れつつ、日本の伝統を残す。この二つを融合させるという所に、本来の日本の強さや良さがあったのではないでしょうか。

 この神社は先述の通り、かつては京極家の藩邸内だった場所ですが、江戸時代から毎月十日には庶民の参拝を許していました。封建制の身分社会の建前の中でも、きちんと庶民の要望に応えるおおらかさに、かつての武士たちの姿勢の正しさを感じます。

 そんなわけで新年早々、日本の衰退からの復活を祈願してきました。

1/4 今年もよろしくお願いします。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 今年のお正月は天気もうららかで、寒さは厳しいながら「初春」という感じがしました。とはいえ私的には特別なことは何もなく、元日は近所の神社へ初詣、2日、3日は基本的にはこたつ・テレビで箱根駅伝(ときどきちょっと外出)という例年通りの過ごし方でしたが。

 今年は近所の神社も、箱根駅伝の沿道の応援も人出が多く、ようやくコロナ以前に戻りつつあるようです。法的な扱いはともかく、人々の心から過大な怯えがなくなってきたのは良いことです。

 そういった明るい兆候とは別に、不安定さを増す国際情勢や、日本経済の衰退に伴う円安・物価高など内外の情勢は、今年も厳しそうです。

 与野高校の生徒に皆さんには、そういった困難にも明るさと強さを失わずに立ち向かえる人に成長してほしいと思います。またそういった皆さんを支えられる与野高校でありたいと思います。

 

12/26 吹奏楽部クリスマスコンサート、暦について(補足)

  先週の土曜日(24日)に吹奏楽部がイオンモール与野でミニコンサートを行いました。 

 折から年末の買い出しに来ていた多くのお客様が足を止めて聞いてくれました。中にはディズニーメドレーで踊りだすお子さんもいたりして楽しい演奏でした。(別ページにも当日の様子が掲載してありますので、そちらもご覧ください。)

  前回暦の話を書きましたが、その時にウィキペディアで面白い話を見つけたので要約して紹介します。

 英語で12月を表すDecemberが、元々は「10月」という意味だということは、中学・高校の英語の授業で習ったかもしれません。建国されたころのローマの暦は、1年が10か月300日くらいしかない暦だったので、季節とのずれが大きく、不評でした。その後2か月を追加したものの正確な暦がなく、貴族や神官などの有力者が勝手な暦を作成するなどの混乱が続きました。

 そこで共和制末期の分裂と内戦を制した英雄ユリウス・カエサル(Julius Caeser)は、エジプトの太陽暦に学んで正確な暦を作りました。ローマの元老院は彼の功績を記念して(というかおべっかを使って)7月の名称をカエサルの名にちなんだJulyとすることを決定しました。元老院はその後も初代皇帝アウグストゥス(Augustus)の名を8月の名称にします。この時、アウグストゥスは自分の名前が付く8月が、カエサルの名前のついた7月より日数が短いのは気に食わないとして、それまでは交互に並んでいた大の月(1か月が31日)と小の月(1か月が30日)の並び順を変えて、強引に8月を大の月にしてしまいました。これは今もそのままです。

 その後も自分の名前を月の名前にしようとしたローマ皇帝は何人もいたのですが、ほとんど忘れられ現在は7月と8月だけが残っています。(やはりカエサルとアウグストゥスは偉大さが桁違いだからでしょう。わがままもけた違いですが…。)

 この話を読むと権力者のわがままとそれに媚を売る政治家の醜さが目につきますが、第2代の皇帝ティベリウスは自分の名前を月の名にすることを勧める人々に「皇帝が13代以上続いたらどうするのか」といって辞退したそうです。立派な人ですね。

 さて、年内の更新はこれが最後だと思います。みなさまよいお年をお迎えください。

 

 

 

12/23 第2学期終業式、暦について

 今日は2学期の終業式でした。終業式には「校長講話」がつきものですが、「講話」というからには何かためになるお話をしなくてはならないようです。そこで、今回は人生の密度の高いのは若いうちだけなので、新年に向けて目標を立てて頑張ろうという主旨の話をしました。令和4年度2学期終業式.pdf

 私が高校生の頃の校長先生は、15分から20分にもわたり、和漢洋の古典などを引用して格調高い訓話をしたものでした。私はちょっとそういうのは苦手ですので、最長でも5分くらいです。私だってやろうと思えば、多少の古典の引用くらいできます。しかし話のコアとなる部分は、結局一般的な心構えだったり通俗道徳だったりするので、古典の言葉など借りずに、自分の言葉で普通に語れば十分だと思います。

 それに、そもそも昔の校長先生はみんな「詩経」とか「易経」とか「春秋左氏伝」とかを読んでいたのでしょうか? 中国文学や中国史の専門家ならともかく、こんなマニアックな古典を読んでいた人が沢山いたとは思えません。校長向けの講話に役立つ古典の言葉をまとめた本から孫引きしていたんじゃないかと疑わざるを得ません。

 さて、今日の2番目のお題「暦について」です。昨日12月22日は冬至でした。今の我々の暦は冬至と年の終わりが1週間ほどずれていますが、私はこれを一致させられないかと考えています。

 おそらく古代において人類が暦を作り始めたころは、昼間が一番短くなる冬至が年の終わり、その翌日の昼間の長さが回復し始める日が、年の初めだったのだろうと思います。一方、月の満ち欠けによって日を数えることも、世界中の多く地域でごく自然行われていました。冬至ー春分ー夏至ー秋分という太陽を基準とした季節の巡りと、月齢による「月」のサイクルにはどうしてもずれがあります。(今年はたまたま冬至の翌日が新月「朔」でしたが…)

 それに加えて、古代国家が成立すると、暦の制定・公布に皇帝やら教皇やらといった権威が絡むようになったため、天象と暦のずれの是正が簡単にできなくなり、現在の暦にもそのずれが引き継がれてしまいました。

 現在、世界でデファクトスタンダートとなっている暦は、16世紀にローマ・カトリック教会が定めたグレゴリウス暦です。ほぼ世界共通といって良い状況ですが、イスラム諸国などでは今でもイスラム暦との併用が行われているようですし、ヨーロッパ諸国でもカトリックではない国々では導入が遅れました。特にロシアなどは20世紀に入ってもロシア正教に基づくロシア暦を使っていました。

 そこで提案なのですが、国連などが提唱して冬至を1年の終わりとする新しい暦に改暦してはどうでしょうか。特定の宗教に偏ることもなく、天文学的に正しい暦であれば、国際的な合意を取り付けることも可能だと思うのですが…。

 暦のずれ、といえば何年か前に「旧暦ブーム」というのがありました。これは生半可な知識に基づく実に間抜けな議論でした。

 「旧暦ブーム」で言われていたことは、概ね「明治時代以前に使っていた旧暦の方が、日本の季節感に合っている。旧暦に従うことで日本の文化的伝統を取り戻し、健康にも良い生活ができる」ということでした。

 毎年微妙に異なりますが、一般に、旧暦の月日は、現在の「新暦」より大体1か月くらい遅くなることが多いのです。そのため、新暦の月日を基準として伝統行事を行うと、多少季節感に合わないことになります。例えば正月です。よく正月を「初春」といいますが、新暦の1月に初春といわれても、全然「春」を感じない、これは事実です。

 しかし、「旧暦」なら季節感と暦が一致するのか、というとそんなことはありません。

 明治以前に使われていた旧暦(太陰太陽暦)は、今でもカレンダーの隅っこに記されていることがあります。この旧暦の仕組みをざっとおさらいします。

 旧暦では月の満ち欠けで1か月を決めるので、新月の日が1日、三日月の日は3日、毎月15日は満月の十五夜になります。月の満ち欠けの周期は約29.5日なので、1か月が29日の小の月と30日の大の月を繰り返し、12カ月は354日となります。イスラム暦などはこれをそのまま1年としています(純粋な太陰暦)が、季節の原因である地球の公転(地球が太陽を回る)周期は約365.25日なので、これだと1年に11日ずつ季節と暦がずれていきます。旧暦ではこれを調整するために19年の間に7回、閏月を入れ13か月ある年を作ります。このように太陰暦に太陽を基準とした修正を加えているので旧暦は「太陰太陽暦」と呼ばれます。しかし、この修正を加えても旧暦においては暦の月日と地球の公転による季節の循環は前後半月ほどずれることがあり、その差は「新暦」よりずっと大きくなります。

 これでは困るので旧暦においては、月日と関係なく、地球の公転周期に基づいた二十四節季という区分を設けて生活サイクルの指標にしていました。今もよく使われる「立春」とか「大寒」とかがそれです。「旧暦ブーム」で主張されていた「季節感との一致」云々は、この二十四節季に従った生活、という意味でしょう。二十四節季は地球から見た太陽の動きによるので、そのサイクルは太陽暦そのものです。だからむしろ今のカレンダーの方が二十四節季と月日のずれは少なくなっています。今の暦で困ることがあるとしたら、日付と月齢が一致していないことくらいですが、街灯のない田舎や山奥にでも行かない限り、夜間の月の明るさを気にすることはないでしょう。

 「旧暦ブーム」を支持していた人たちは、こういった暦の仕組みを全く理解していなかったのだと思います。 

12/12 プチ史跡巡り(16)氷川神社の謎(続)「一宮論争」

 先週の土曜日(12月10日)、大宮の氷川神社では3年ぶりに飲食の屋台をともなう大湯祭が行われたという報道がありました。よいことだと思います。生徒の皆さんは期末テスト期間中でお祭りどころではなかったかもしれませんが…。

 氷川神社の現在の主神「スサノオノミコト」は、メジャーな神様だけあって複雑に習合し無数の神格を持ちますが、その一つが、疫病退散に霊験あらたかとされる牛頭天王や武塔大神です。その神様を祭る氷川神社の大湯祭は1年の穢れを払い、来るべき春に向かって人々の生命力を掻き立てるための祭りです。盛大に行ってコロナ退散を祈るべきでしょう(人が集まるので感染対策は必要だとしても)。

  さて、ようやく今回のお題の「一宮論争」です。

 「謎」というほどではありませんが、武蔵の国一宮である氷川神社に対し、「一宮は小野神社(多摩市)で氷川神社は三宮だ」という議論が近年わりと盛んです。この主張の根拠は鎌倉時代の「吾妻鑑」や南北朝時代の「神道集」の記述、武蔵総社の大國魂神社の六所宮(武蔵国内の各神社の出店のような小さな祠を祭った神社)における順番などです。一方、氷川神社を一宮とする記述は、室町時代以降に現れ、近世、近代を通じて定着し、あまり異論は聞かれませんでした。

 さて、この問題について私見を以下に述べていきます。まず、私は小野神社の「一宮」と氷川神社の「一宮」は別のものだと考えています。理由は後述しますが、こう考えると先の「一宮論争」がよく整理できます。

 先の「一宮=小野神社」の最大の根拠は、「神道集」の記述や大國魂神社の六所宮における順番とのことです。では次にこれらの根拠や由来は何なのか、という事を考えなければなりません。「神道集」はともかく六所宮は古代律令制の国司の神拝に由来することが明らかです。

 国司の神拝とは国司が任地の国の神々を参拝して回る行事です。下の地図は武蔵の国で、国司が参拝する各神社の位置を落とし込んだものです。これをうまく回るにはどのようにしたらよいでしょうか。

 

 武蔵国府は今の府中市です。そこを出てまずは近くの①小野神社(多摩市)へ行き、そこから多摩川沿いにさかのぼって②二宮神社(あきる野市)、今の国道16号線や県道2号線(旧16号)に近いルートで③氷川神社(さいたま市大宮区)、中山道(*1)(国道17号)で熊谷の手前まで行き、荒川をさかのぼるルート(国道140号)で④秩父神社(秩父市)へ、そこから寄居のあたりまで戻って⑤金讃神社(神川町)に行き、東山道武蔵路(今の国道254号に近いルート)経由で国府に戻り、⑥杉山神社(横浜市緑区)へは改めて出かける…。別のルートも考えられなくはない(*2)ですが、これが、一番楽に合理的に参拝を行える順番です。

 この国司の神拝は律令制度が衰えると次第に真面目に行われなくなっていきます。いちいち各地を回るのは面倒なので、国府の近くに各神社のミニチュアをまとめた「総社」を作り、ここにお参りして全部回ったと見なすようになります。これが武蔵国では大國魂神社の六所宮と呼ばれる施設です。国司神拝のまねごとですから、その順番は当然現実のルートを反映したものになります。つまり、六所宮の「一宮」~「六宮」は参拝順を示すだけで、本来の神格とは関係ないと考えられるのです。
 一方、古代の神社の格式については「延喜式神名帳」というものが残っています。先の一宮~六宮までの神社は国司が参拝するだけあって、二宮神社を除いて、この神名帳に載っています(式内社)。中でも氷川神社と金讃神社は名神大社(災害や国難の時に国が祈りをささげる神社)として、別格の地位を持っています。社格的には、古代からこの二つの神社が武蔵国のナンバー1、ナンバー2だったわけです。
 さて中世になると国司制度は有名無実化し国府も廃絶します。そうなると六所宮における巡回順などは忘れられ、本来の神社の社格や神威に則った氷川神社を一宮、金讃神社を二宮とする考えが定着していったのでしょう。これが近世・近代における武蔵「一宮」で民衆の支持や信仰心による自然発生的なものと言えると思います。
 国司神拝の順番の「一宮」と、神格・社格による「一宮」が混在しているのが、「一宮論争」の元です。別に 国司神拝の「一宮」も律令などで定められたり廃止されたりしたわけではなく、神格・社格による「一宮」も正式に朝廷や幕府によって制度化されたものではありません。だから、特にどちらが正しいということはないのだと思います。

 この「一宮論争」において一方の当事者となっているのが小野神社です。小野神社はWEBページに「一之宮とは、中世に全国的に確立した、国内における神格の格付けで、国内第一の鎮守という意味です。」と書き、強く自らが一宮であると主張しています。これを読むと、中世に何らかの権威によって「一之宮」制度が作られたかのような印象を受けますが、これは先に見た通りの理由からあまり正確な記述とは言えないと思います。

 ところが、近年の御朱印ブームなどで神社好きになった人などがこの主張に乗り、それが埼玉をディスる(けなす)のが好きな人々に受けて、「小野神社=一宮」説が、いかにも歴史通、神社通の常識であるかのように喧伝されているのでしょう。

 小野神社が自らの権威を高めるべく小野神社=一宮を主張する気持ちはわかりますし、また一定の根拠もあり間違いではありません。しかし一方で氷川神社=一宮にも歴史的な経緯と十分な正当性があります。

 重ねて言いますが、このことについて私はどちらが正しいとは言いません。しかし前回書いた通り、京都から東京に移られた明治天皇が最初になさったのが氷川神社への行幸だったことからも、近世以降においては氷川神社が武蔵の国において一番の神威・神格を持つ神社と思われていたことは明らかです。

(*1)古代には中山道は官道ではありませんが、浦和の調神社や大宮氷川神社などの所在から、中山道のルートが主要な交通路として存在したと思われます。

(*2)たとえば二宮神社から飯能経由で正丸峠を越えて秩父神社へ行き、金讃神社へ回った後、氷川神社へ行き、そこから国府に戻る、というルートも考えられなくはないでしょう。しかし、大人数で行動する場合、なるべく平坦な道を行きたいでしょうから、この道はちょっと厳しいと思います。

12/5 プチ史跡巡り(16)氷川神社の謎

 早いものでもう12月。すっかり冬ですね。一年で一番日が短くなる冬至ももうすぐです。

 冬至で思いだすのが氷川神社です(なぜ思い出すのかは後で説明します)。氷川神社は埼玉県では最もありふれた神社で、それこそ、そこら中にある感じです。私の地元の上尾市内にも沢山あるのですが、昨日は久しぶりに気持ちの良い天気だったので、ジョギングがてら上尾市二ツ宮の氷川神社へ行ってきました。

 小ぶりながら、精巧な浮彫が施された立派な本殿です。ここの氷川神社は今はお社が一つですが、昔は隣にもう一つお社があり、男体社と女体社の二つのお社があったことから、「二ツ宮」と呼ばれていたそうです。

 さて、氷川神社の本社は言わずと知れた大宮の氷川神社です。祭神は、スサノオノミコト、クシイナダヒメ、オオナムチの出雲神話の主役の三柱とされ、社名のヒカワも出雲の国の斐伊川に由来するという説が一般的です。

 しかし実は氷川神社はそんな簡単な神社ではなく、たくさんの謎を秘めた神社なのです。

 このあたりの話はネットでググるとたくさんヒットしますが、以下にかいつまんで紹介します。

 氷川神社は表向きの祭神とは別に、元々は竜神信仰の神社であったと言われています。かつて埼玉県南部には見沼という大きな湖沼がありましたが、大宮の氷川神社(大宮区高鼻)は見沼区中川の中山神社(中氷川神社)と緑区三室の氷川女体神社と見沼で結ばれた三社一体の神社であったといわれます。また見沼田んぼの山口新田には、古代から中世にかけて数百年もの間、竜神の祭りがおこなわれていた水上祭祀の跡(四本竹遺跡)もあります。

 見沼周辺はこのように水神(竜神)信仰が盛んな土地だったのですが、近世に入り見沼が干拓されたために、水上祭祀は氷川女体神社の神池で行われるようになりました。また伝説では、この時、見沼の竜神は千葉の印旛沼に引っ越したそうです。

 この話からすると氷川神社の祭神は、本来は土着の見沼の竜神(さいたま市のマスコットのあれです)であったようです。また、このことを裏付けるかのように氷川神社の分布はほぼ昔の武蔵国の中に限られています。出雲の斐伊川が名前の由来とされるているのに、出雲には氷川神社はごくわずか(2社くらい)しかありません。現在の三柱の祭神は、氷川神社を記紀神話の体系に取り込むための後付けだった可能性が高いと思います。

 またこのように出自のはっきりしない神であるのに(あるいはそのために)、氷川神社は、古代から天皇家や朝廷にとって非常に重要な神社でした。平安時代の延喜式には「名神大社」(天災などが起きたときに国家が祈願する神社)として記載されています。近現代においても、明治天皇は東京に来て10日目には氷川神社に行幸して祭祀を行っていますし、現在でも宮中の四方拝で遥拝される神社となっています。要するに氷川神社は、マジカルな意味での関東支配の要なのです。

 また一部で有名なのですが、先ほどの氷川神社、中山神社、氷川女体神社の3つの神社は、北西から南東に30度傾いた一直線上にあります。東西方向から30度傾いた線というのは、関東地方くらいの緯度だと、冬至と夏至の日の太陽の方向と一致するいわゆる「レイライン(光の道)」にあたります。

 念のため書いておきますが、私はレイライン系の話はあまり信じないほうです。なぜなら「レイライン」は作ろうと思えば、いくらでも作れるからです。地図上でまず有名な神社や遺跡を一つ選び、そこに物差しを当ててぐるっと回し、東西や南北、30度傾斜などの先にあるめぼしい神社等をもう一個探します。その2点間に直線を引き、さらにその直線の周囲に神社や遺跡を探していけば「レイライン」完成です。世の中には、何でも「レイライン」で結んで、超古代文明みたいな話にしてしまう人がいますが、そういうのはちょっとどうかと思います。

 しかし上で紹介した「氷川レイライン」の話は、かなりよくできています。たしかに3つの神社はほぼ等間隔で一直線に並んでいます。しかも適当に選んだのではなく、これだけ関係の深い神社が直線状にあるのですから、意図的な並び方であるという話にちょっと信ぴょう性が出てきます。方位的にも真ん中の中山神社から見れば冬至の日の出はぴったり氷川女体神社の方向から上り、夏至の太陽は高鼻の氷川神社の方向に沈むはずです。ついでに言うと下山口新田の四本竹遺跡も、ほぼこの「レイライン」を南東に伸ばした線上にあったりします。「これは、もしかして本当かも?」と感じさせられます。

 ただこの説の通りだとすると、3つの神社を直線状にどうやって並べたのかが問題となります。のろしを上げて観測するなどの手段で、冬至や夏至の太陽の方位に合わせて土地を選定するということは不可能ではないとは思います。しかし、いくら人家もビルもない古代でも、視線を遮る森や地形の高低はあったのでそう簡単ではないでしょう。

 さらに氷川神社といえば、昨年読んだ「縄文神社」武藤郁子(飛鳥新社)という本には、氷川神社は縄文時代の祭祀跡に建っているという話がのっていました。これが本当なら氷川神社の歴史は数千年から1万年くらいに上ります。

 我々、埼玉県人にとってはすごく身近な氷川神社にこのような謎があるのは、とても楽しいことだと思います。

 

 

 

 

11/16 プチ史跡巡り(15)上尾の胡桃下稲荷

 久しぶりにタイトルにふさわしい史跡巡りです。

 今回訪ねたのは上尾駅東口の少し北側にある笠間(胡桃下)稲荷です。ビルの谷間の小さな社で、「プチ史跡巡り(10)」では紹介した北浦和の豊川稲荷とちょっと似ています。この神社自体は明治時代に茨城の笠間稲荷から勧請して建てられたという来歴がはっきりしており、特に不思議なところはありませんが、本社の笠間稲荷には、別名の「胡桃下(くるみがした)稲荷」も含めて私はちょっと不思議なものを感じています。

 稲荷神社の祭神は一般的にはウカノミタマという食物・穀物の神様であるとされます。この神様は古事記・日本書紀に出てくる豊穣をつかさどる神として尊崇を集め、すべての稲荷の総本社とされる京都の伏見稲荷などは平安時代に正一位の神格を与えられ、明治時代には官幣大社となるなど国家の厚い保護を受けてきました。

 一方、今回取り上げた笠間稲荷です。現在の笠間稲荷は関東を中心にたくさんの末社を持ち、伏見、豊川に次ぐ三大稲荷とまで呼ばれています。しかし、この神社は江戸時代に笠間藩主の牧野家が朝廷に願い出て、伏見稲荷と同じ正一位の神位を得るまではあまりぱっとしなかったようです。また、明治時代になってからも社格は伏見稲荷とは比べ物にならない村社でした。この差はなぜなのでしょうか?

 私は笠間稲荷の神様がもともとはウカノミタマではない、古事記・日本書紀とは関係ない神様だったからではないか、と想像しています。そう考える理由ですが、由来によれば笠間稲荷は「伏見稲荷から勧請したものではない」とされています。勧請というのは本社からお札やご神体を分けてもらって同じ神様を祭る神社をつくることです。日本の稲荷神の総本社とされる伏見稲荷からの勧請ではない、ということは元々は別の神様だった可能性があるということです。また伏見稲荷と同じ神様だったら、江戸時代に神位を願い出るまでもなく正一位だったはずなのに、改めて願い出たということは、江戸時代にも笠間と伏見は別の神様であるという意識があったのではないでしょうか。

 では笠間稲荷の正体は何なのでしょうか。私は,、地元で古くから崇拝されてきた豊穣伸・農業神だったのではないか、と想像しています。笠間稲荷の別名は「胡桃下(くるみがした)稲荷」ですが、なぜそう呼ばれるかというと、昔そこに胡桃の大木があったからだとも、鬱蒼たる胡桃の森があったからともいわれているそうです。胡桃や栗は縄文時代には人々の重要な食糧でした。稲などの栽培が広がる以前から、人為的に栗や胡桃の木を植えて実を収穫するということが行われていたようです。もしかすると笠間稲荷は、縄文時代から地元の人々によって連綿と祭られてきたクルミの神様なのかもしれません…。

 こういった記紀の系譜につながらないローカルな神様というのは昔はたくさんいたようです。たとえば同じ上尾の氷川鍬神社は今は氷川神社の系統になっていますが、元々は江戸時代中期に上尾の宿場に突然現れた「おくわさま」を祭る神社でした。江戸時代末からの神道思想の盛り上がりや明治時代からの国家宗教化のなかで、これらのローカル神はほとんどが似た性格の記紀の神様に統合されました。しかし、いまだに各地の伝承の中には、古い神々の残影が残っているようです。

 以上の考えは、一次文献とか学術論文とかにあたらずに、ネットの記事や神社名から想像しただけです。学術的な価値はないことを念のため申し添えておきます。