校長室ブログ

徒然なる毎日

11/28 速報「小高交流」+プチ史跡(27.5)久しぶりです。金次郎様

 まずは速報です。今日は本校とさいたま市立与野本町小学校が「小高交流」を行っています。

 コロナのため4年ぶりの実施となりましたが、本校の生徒有志25名が与野本町小学校を訪問し、授業のアシスタントなどをしました。(写真は5年生の書写の授業)

 

 高校生は普段、高校の校内で見ていると子供(失礼)なのですが、小学生に混じると急に頼もしいお兄さん・お姉さんに見えるから不思議です。子供たちの前で、大人としてふるまう経験は、生徒たちを大きく成長させてくれると思います。

 詳しい様子は、そのうちほかのコーナーに掲載されるのではないかと思いますので、まずはお知らせまで。

 与野本町小学校は毎日、前を通っているのですがこれまで校内に入ったことはありませんでした。今日初めて中をよく見て回りましたが、そうしたら立派な二宮金次郎の像が!!

 

 二宮金次郎の像は、第二次大戦前にはどこの小学校にもあったという話ですが、戦後は撤去する学校が多く、すっかり少なくなりました。撤去の理由としては「封建的である」とか「教育の目標は立身出世ではない」というものだったようです。しかしこれらは「古いものはすべてだめ」とする短絡的で的はずれな批判だったと思います。

 本来、封建制というのは厳格な身分制度によって成り立つものです。ところが江戸時代の日本は一応、身分制度がありましたが、緩やかなものでした。農村の子が都市に出て商人になったり、文武の才能のある子どもを領主が見出して武士として召し抱えるなどの例(吉良上野介に仕えた清水一学とか、埼玉の偉人渋沢栄一とか)もよくありました。二宮金次郎も経理・経営の才能により武士になっています。つまり二宮金次郎は自分の才能で身分の壁を破ったわけで、封建制打破の象徴であるという見方もできます。「封建的云々」という批判は見当違いです。

 「立身出世はけしからん」という批判ですが、私は昔の「立身出世」と最近の「自己実現」はどこが違うのかわかりません。どちらも「努力と才能によって、様々な困難を克服し、自分のなりたいものになる」ということで、言い方が違っても、中身はまったく同じだと思うのですが。二宮金次郎こそ、自己実現のお手本でしょう。教育や学校の役目は、生まれた家や育った環境に関わらず、子供たちが自己実現(=立身出世)ができるよう助ける「はしご」のようなものだと思うので、二宮金次郎の像があることになんの問題があるのか、よくわかりません。

 二宮金次郎については、近年は見直しや再評価をする動きがあり、像を再建する学校もあったようです。ただし今度は、歩きながら本を読む姿が「ながらスマホ」を助長するという批判が起こり、最近の二宮金次郎像は、座って本を読む姿のものが多いとのことです。しかし、二宮金次郎の逸話は、あくまでも「薪売りをしながら寸暇を惜しんで学問に励んだ」というものなので、それをつまらない揚げ足取りで改変するのは、おかしいと思います。こんなつまらない揚げ足取りがまかり通るような状況だから、今の日本の社会・経済は低迷を極めているのではないでしょうか。

 

11/27 プチ史跡巡り(27)史跡が消える!?

 久しぶりにプチ史跡巡り、しかも地元与野のネタです。

 私は普段は電車+徒歩ですが、たまに自動車で通勤することもあります。先日、久しぶりに自動車で出勤したときに、本町通りの景色にどこかおかしな感じを受けました。

 何がおかしいのかと思い、歩いて戻って確かめてみたところ、本町通りと赤山通りの交差点から100mくらい北側にあった「西澤嚝野先生墓所の石碑(下の写真左)がない!」ということに気が付きました。

 以前はここの民家の敷地の角に石碑が立っていたのですが、いつの間にか民家が取り壊され更地になっており、石碑もなくなっていました(下の写真右)。

 

 

 ここでそもそも西澤嚝野先生とは何者か、ということについて解説します。与野周辺の散策に欠かせない「与野歴史散歩(旧・与野市編)」によれば、西澤嚝野先生は江戸時代に与野に住んでいた学者です。西澤先生は与野の生まれで、上杉鷹山(名君として有名)の師である細井平洲(この人も有名)に学び、俊英として知られていましたが、栄達を好まず郷里の与野で地元の子弟の教育や慈善活動に努め、「与野聖人」と呼ばれたそうです。

 この西澤先生のお墓が、石碑のある角を入っていった先の長伝寺というお寺にあり、石碑はお墓参りをする人を案内していたわけです。石碑自体は裏面に昭和17年という年紀があり、そんなに古いものではありませんが、与野では、没後も長く西澤先生の遺徳がしのばれていたことがわかります。

 「まさか家を取り壊した際に石碑も取り壊されてしまったのか!?」と思い周辺を探してみたところ、石碑は西澤先生のお墓のある長伝寺に移築されているのを見つけ、一安心しました。しかしこの石碑は本町通りの目立つ場所にあり、西澤先生の名を世に知らしめていたのに、目立たない場所に移ってしまっては、その任が果たせません。

 考えてみればこの石碑以外にも、存続が危ぶまれる史跡は数多くあります。たとえば以前紹介した与野周辺の神社や祠にも、地元の方の個人所有と思われるものがたくさんあります。これらは所有している方々の信仰心や崇敬に守られてきたわけですが、これらの家の方々も代替わりや相続で神社や祠の立っている地所を手放すことがあるかもしれません。

 もちろん、それがいけないということはありません。そもそも昔の人が作ったものをずっと守らなければならないのであれば、現代のわれわれは住む場所がなくなってしまいます。町も家も古いものが壊されて新しいものに入れ替わるのは当たり前です。

 しかしこれらは一度なくなってしまうと、急速にその存在が忘れられてしまうので、現存するうちに記録に残しておくことが必要だと思うのです。

 以前、私の家の近くの民家の一角に一基の馬頭観音があり、それには由来も刻んでありました。「その家のご主人が若いころ、日中戦争に出征し物資輸送の任務にあたっていた際、一発の砲弾が自分のすぐ横に着弾した。しかし、自分の引いていた馬が砲弾の破片を受け止めてくれたので、自分は無事だった。身代わりになってくれた軍馬の供養のため、この観音を建立した…。」というような話だったと思います。そのうちにきちんと写真でも撮ろうと思っていたのですが、ついうっかりしているうちに撤去され、場所もわからなくなってしまいました。

 このような身近な人々の小さな歴史を刻んだ史跡がなくなるのは、本当に残念です。皆さんも身近にこういったものがあったら、スマホで十分なので、写真や記録を取っておいてはどうでしょうか。

 

 

11/20 冬来る、授業観察、学校の活気

 もうすっかり冬という感じになりました。今日の朝も真っ白な富士山がよく見えました。

 近年は10月末くらいまで夏のような暑い日が続いた後、11月中旬くらいから一気に寒くなるという季節変化が定着してきたようです。

 先週の通勤途中に本町小学校のところでバラがきれいに咲いているのを見かけました。

 バラは真冬を除けば一年中咲く花なので、咲いていても不思議ではないのですが、周囲にまだ夏のなごりの朝顔やサルビアなども頑張っているのは、最近の夏と冬しかないような気候のせいだと思います。

 さて、中間考査と期末考査の間のこの時期は、生徒のみなさんにとっては年間を通じて最も勉強がはかどる季節だと思います。この時期になると、毎年私は先生方の授業を見学させてもらう、いわゆる「授業観察」をしています。与野高校の先生方は、一人ひとり個性はあるものの、みな丁寧にじっくりと説明してくれるので、とても分かりやすい授業のなっています(ここらへん、ちょっと宣伝が入っていますが、事実です)。数学や理科の授業などでは、もう忘れかけていたような知識が呼び覚まされることもあり、改めて「高校の勉強」って面白い、と思います。

 先週の土曜日(11月18日)にフジテレビの「新しいかぎ」という番組に、埼玉県立春日部工業高校が出ていました。この番組は、学校を舞台に芸能人と生徒たちがかくれんぼをするというのが基本の枠組みです。この日は2時間スペシャルということで、前半が都内の有名私立女子高校、後半が春日部工業高校でした。前半の方は普通のかくれんぼでしたが、後半の春日部工業高校の方は、生徒たちが工夫して学校全体をお化け屋敷化し、校内を回る芸能人を脅かすという趣向でした。私の見たところ、生徒の企画力、発想力、やる気、すべてにおいて春日部工業高校の方が勝っている感じでした。(まあ、それを競い合う番組ではありませんが…)。特に最初の方に出てきた廊下に置かれたブリキの一斗缶が突然動いて音を立てる仕掛けは、夜の真っ暗な学校でそんなことが起きたら、私も飛び上がってびっくりしてしまうと思います。さすがです。

 学校を上げて一つの企画に取り組む春日部工業高校の活気に感心しました。同じ埼玉県立の高校として素直に賛辞を贈りたいと思いますが、生徒のみなさんのやる気という点ではわが与野高校も負けてはいないと思います。本校も頑張らなくてはと思いました。(別にテレビに出ようというわけではないです。様々なところで頑張ろうということです。)

 

 

11/8 マラソン大会やってます。

今日はマラソン大会です。今、男子も女子も走っている最中です。

全員で準備体操。約1000名の与野高体操は迫力があります。

スタートしていく男子生徒たち。スタートの瞬間は自分がスタートピストルを撃っていたので撮れません。

あっ今先頭がゴールしました。11.5kmを45分はなかなか立派です。

10/31 日常雑感〜外来生物について

 秋も深まり、このところ朝夕などはかなり寒さを感じます。先日、出勤途中に白い花が咲いているのに気が付きました。

 涼しげでいかにも秋らしく見えますが、何という花かわかりません。そこで調べてみたのですが、おそらく「ガウラ(山桃草)」という花だと思われます。アメリカ原産で花期は5月ころから11月ころまでと書いてあります。先程「秋らしく見える」と書きましたが、おそらく他の植物の勢いがよい夏の間は、咲いていても気が付かなかったのでしょう。この写真のガウラは栽培されているというよりは野草化して勝手に生えている感じで、かなり生命力の強い植物のようです。

 そうしてみると、この花もいわゆる「外来生物」の一つということになります。近年、世間一般で「外来生物」に関する見方が厳しくなっています。ブラックバスやブルーギル、ミシシッピアカミミガメ、アメリカザリガニ、スマトラヒラタクワガタなどの動物や、セイヨウタンポポ、セイタカアワダチソウなどの植物が、日本の在来種を脅かす「敵対的外来生物」として目の敵にされている感じです。外来生物の問題は本来は生物学的・生態学的なもののはずですが、最近の厳しい論調には、政治的・社会的な排外主義から来ている部分もあるように思います。これは最近いよいよ日本の国力の衰えが明らかになってきたことへの焦りや反発の現れなのかもしれませんが、あまり望ましいことではないでしょう。外来生物の問題は「すべてやっつけろ」では済まない、冷静に科学的に対処すべきものだからです。

 まず、何を「外来生物」とするのでしょうか。記録のはっきりしている時代に入ってきた生物はともかく、もっと古い時代に入ってきた生物はどう扱うべきなのでしょうか。「元々、日本にいなかった生物」という定義だと、動物ではコイやフナ、馬、猫などが当てはまりますし、植物では花壇で育てられている花類の大半、それから日本人の主食たる米(イネ)も外来生物です。これらをすべて駆除するのでしょうか。

 次に駆除可能なのか、という問題もあります。物理的に繁殖力の低い大型の動物なら駆除可能でしょうが、繁殖力の強い小型の生物や植物を駆除するのは困難でしょう。たとえば野良犬という存在は、徹底的な野犬狩りの結果、今日では見られなくなりましたが、日本中の池や用水路にいるアカミミガメやアメリカザリガニを駆除し尽くすのはまず不可能なのではと思います。心理的にもコイやフナなど古くから親しんできた生き物は駆除しにくいでしょうし、ましてや日本中のネコ好きな人の数を考えれば、野良猫を狩り尽くして処分するという政策は困難でしょう。

 実は私も子供の頃、アカミミガメを飼っていました。5cm位の大きさでサクラエビやウインナーをやると大喜びですごく可愛かったのですが、ある日、水槽のプラスチック蓋を噛み破って逃げてしまいました。外来生物問題的にはこのカメも駆除対象なのですが、心情的には(カメは長生きらしいので)どこかの池にたどり着いて生きているといいな、と思うことがあります。 

10/26 球技大会 & 日常雑感

 中間考査も終わり、今日は球技大会です。

 今週前半の静まり返っていた中間試験とは打って変わって、今日は学校中が活気に満ちています。生徒の元気や成長を身近に見られるところが、教員の仕事の魅力でしょう。

雑感(1)

とりたててWebに書くほどのことか! と怒られてしまいそうですが、今朝は不思議な夢を見ました。どんな夢かというと、朝起きて着替えて出勤の準備をしている夢です。途中でこれは夢だ、と気づいて目覚めましたが、何しろ夢の中ではきちんと起床しているので、そのままうっかり寝過ごしてしまう可能性もありました。そういった意味では危険な夢ですね。以前に夏目漱石の「夢十夜」の話を書きましたが、夢というのは本当に不思議です。

雑感(2)

与野高校では、毎朝「朝読書」という時間を設けています。それに合わせて、ということでもありませんが、この3年間、生徒向けに私のおすすめの本を紹介するメールマガジンを発信しています。今週はイギリス冒険小説の大家ジャック・ヒギンズの「鷲は飛び立った」を紹介したのですが、その関係で同作に登場するワルター・シェレンベルクという実在のドイツ軍人について調べたところ、柄にもなくちょっと考えさせられてしまいました。

シェレンベルクは諜報活動に非常な才能があり、30代前半でナチス親衛隊少将、親衛隊情報部の局長にまでなったエリートです。ヒギンズの小説では、この人はすごくかっこよく描かれ、親衛隊幹部でありながら陰でユダヤ人らの弱者を助けるヒーローとなっています。

しかし、現実にはそんなにかっこいい人ではなかったようです。ウィキペディアやその他の本の情報によれば、この人が親衛隊に入ったのは、積極的にナチスの主張に賛成していたからではなく、単にその方が大学の奨学金を得やすかったからのようです。また特に反ユダヤ主義というわけでもなく、ユダヤ人虐殺にも積極的には関与しなかったようです。要するにこの人は生活のために親衛隊に入り、たまたま能力が高かったため黙々と仕事をしているうちに、出世してしまったというわけです。

ドイツ敗北後の戦争裁判でもこのことが認められたのか、この人は死刑などの重罪を免れています。しかし、私は、この人がドイツの敗北まで黙々と仕事を続けていた、というところが怖いな、と思います。この人が熱烈な反ユダヤ主義者であれば、親衛隊幹部になった動機がわかりやすいのですが、この人の行動にはそういう色や熱が感じられません。ユダヤ人虐殺に積極的に関与しなかったのも、たまたまこの人が虐殺部隊の指揮官にならなかったからで、もしその任務を与えられていたら、ものすごく能率的に職務を遂行したのではないか、と思います。

能力が高く非常にスマートですが、個人としての信念や情熱ではなく状況に流されるように生きていて、それ次第で善・悪どっちにでも転んでしまう。シェレンベルクの生き方にはそういう怖さがあります。しかし、私自身も今までの人生で主体的に自分の生き方を選んだり、善悪を判断したりしてきたか、というと今ひとつ自信がありません。なにかとても怖いなと思いました。

 

10/13 プチ史跡巡り(26) 上野駅

 この春からあまり歩き回っていないので地元ネタが少ないのですが、今回取り上げる上野駅は埼玉県民にとってはなじみ深く、地元といっても過言ではない場所でしょう。

 私は鉄道ファンではないのですが、子供のころから建築物をみるのは好きだったので、駅や橋梁など鉄道にまつわる建築物にも関心があります。(大雑把な知識で書いているので、致命的な間違いでない限り突っ込まないください。) というわけで上野駅も私が大好きな建物というか、施設の一つです。

 

  皆さんもご存じのように上野駅には低いホームと高いホームがあり、低いホームはそこで行き止まりになっています。今は東海道線直通の列車が増えましたが、上野駅はかつて上越線・信越線(高崎線)、東北線(宇都宮線)、常磐線など東京の北からやってくる路線のターミナル(終点駅)でした。昭和30年代の東北地方からの集団就職の若者など、北から東京にくる人々はみなここに着きました。石川啄木の「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」という短歌は明治時代末期のものですが、これも舞台は上野駅じゃないかな? と思います。私はそんな歴史を感じさせる上野駅の低いホームの終点がずらりと並んだ光景が大好きです。

 そこから出たところが中央改札で、その先には広々としたコンコースが広がっています(写真上)。今の上野駅の駅舎は関東大震災後の昭和初期に建てられ、その後何回も改修はされていますが基本構造はそのままです。ウィキペディアの「上野駅」の項目にこのコンコースの1930年代の写真が載っていますが、当時の面影がよく残っていることがわかります。このコンコースの大屋根は、力学的に設計された構造のはずなのに、どこか繊細で優雅です。とても明るく伸びやかな空間で、上記の集団就職の若者たちも、この空間に迎えられ、そこに将来の希望を感じたのではないか、と思います。

 中央改札を抜けて地下鉄銀座線の入り口の方へ行く途中には、上の写真のような階段があります。私は近年この階段を上がっていったことがないのですが、昔はこの上に喫茶店やレストランがあったような気がします。(違っていたらごめんなさい。今度確かめてきます。)現在のような実用一点張りの建築と違ってちょっとアールデコ風の優雅さを漂わせた階段で、こういうところも実にいい感じです。

 長くなったので今回はこの辺にします。

10/13 秋本番・PTA講演会

 昨日あたりから、町を歩いているとあちこちでキンモクセイの匂いを感じるようになりました。ひんやりした空気の中にあの甘い香りを感じると秋本番という気がします。

 学校では昨日PTA主催講演会が行われ、女優・モデルとして活躍している田中杏樹さんのお話を聞きました。(女優さんならではのオーラのある方で、お写真を掲載すればページの華やかさアップは間違いないのですが、写真は撮っていません。悪しからず)

 田中さんは、山形県警の警察官から女優に転じたという異色の経歴の方で、ドラマ「教場」にも出演されています。昨日は、警察官の時は警察官として一生懸命に勤務をしたこと、その上で勇気をもって芸能界へ飛び込まれたこと、警察官として学んだことが今のお仕事にも生きていることなどのお話をしていただきました。その時々を真面目に生きることが夢に近づくために必要なのかな、と思いました。

 

 

10/2 プチ史跡巡り(25) 佐世保の電波塔

 めっきり秋めいてきました。今朝などは半そでシャツだけだと肌寒さを感じるほどでした。急な気温変化で風邪などひかないよう、お気を付けください。

 下の写真は、先週の修学旅行でハウステンボスに行った際、展望塔(ドムトールン)の上からとった写真です。

 写真の中央付近に森の中から突き出した3本の塔が見えると思いますが、これが旧帝国海軍の電波塔「針生送信所」です。いつも頼りになるウィキペディアさんによると、作られたのは大正11(1922)年で平成9(1997)年まで海上自衛隊、海上保安庁によって運用されていました。現在では国の重要文化財に指定されています。鉄筋コンクリート製で高さは135mと137m、基部の直径は12mという巨大な建築物です。太平洋戦争の時には「ニイタカヤマノボレ1208」の開戦の暗号を送信したという説もあるそう(異説あり)です。この塔は内部が空洞になっていて、その写真がウィキペディアに載っています。実用的な施設のはずなのに、昔の建物はどことなく華奢で優美な感じがするのか不思議です。今回は行けませんでしたが、内部見学はできるそうなのでいつか行ってみたいと思います。

 なぜこんな巨大な塔を建てたのか、ということですが、建設当時は今のように電波を中継する通信衛星はなく、電波を電離層で反射させ遠くまで届かせる短波通信も未発達でした。長距離通信を行うためには、障害物に邪魔されにくい長波をなるべく高い位置から発信することが重要だったようです。

 この史跡を見ても思うのですが、昔の日本は良くも悪くも頑張っていました。

 第二次世界大戦以前の日本は急速に工業化を図っていましたが、欧米先進国に比べ基本的な国力・経済力ははるかに劣り、せいぜい中進国といったところだったはずです。産業は農業が中心で、凶作の時は農村で女の子の身売りが横行するような貧困状態、舗装された道路はほとんどなく自動車の国産化もおぼつかない国が、西太平洋全体を勢力下に入れる大艦隊を作り、アメリカやイギリスに対抗していたのですからすごい話です。そのアンバランスに軍事力に傾注した歴史が東京大空襲や沖縄戦、広島、長崎といった悲惨な結末に行き着いたことを思うと、もっと別の道はなかったのかと悔やまれます。

 しかし、その一方で、現在の覇気も野心もすっかり失って衰退の道を転げ落ちていく日本の様子を見ると、世界を相手に戦いに打って出た昔の日本人の気力だけは見習いたい気がします。

9/30 プチ史跡巡り(24)? 日本の稲作

 本日は学校見学会で朝からたくさんの方に御来校いただいています。ありがとうございます。

 さて今回のプチ史跡めぐりは特にどこということなく、強いて言えば日本全体です。先日の修学旅行で久しぶりに稲が豊かに実る水田を見てきました。色づいた稲穂が美しくて感動しました。この稲の実る風景そのものが、日本の史跡であると思います。

 古代の日本の美称の一つに「とよあしはらみずほのくに」いうのがあります。この名称については、広々と湿地が広がりコメが豊かに実る国という意味だとするのが一般的です。しかし古代において稲作は、山地の入り口や丘陵地に形成される谷(谷戸)の湧水を利用した小規模な水田で行われていたはずで、我々が目にする平野いっぱいに水田が広がる光景は、大規模な治水工事が可能となった江戸時代以後に現れたものです。「とよあしはらみずほ」は実態を表現したというよりは、「そうであればいいな」という願望=呪(しゅ)のようなものだったのではないでしょうか。

 先人たちの努力によって、日本は100年くらい前までに平野から山間の小さな平場まで、水田にできるところはすべて水田という本当の瑞穂の国になりました。そして人と手つかずの自然(深山)の間に人工的な生態系の水田と里山を挟むことで、安全で暮らしやすい環境が作られました。しかし現代では、減反やら無軌道な宅地開発やらで、その環境がすっかり荒廃してしまいました。工業化や開発は避けられませんが、人と自然環境の緩衝役としての水田の機能はもっと大事にすべきと思います。

 稲作といえば、今朝のニュースで、今年は全国的にコメの作柄が悪く一等米に分類されるお米が減った、と言っていました。原因は夏が暑すぎたことだそうです。それで思い出したのが下のグラフです。

 これは昨年度、私が「情報Ⅰ」の授業のピンチヒッターをしたときに生徒とつくったものですが、グラフの縦軸は令和2(2020)年の各都道府県の年平均気温、横軸は10aあたりのコメの収穫量を表します。

 グラフ上の点が、左上から右下に流れ落ちるように分布しています。この分布の「相関係数」は「-0.8」でした。「相関係数」という数値は1~-1の間を取り、1に近いほど正の相関が強く、-1に近いほど負の相関が強いということを示します。したがって、このグラフは「気温が高いところほどコメの収量が低い」という、かなり強い関係があることを示しています。

  こう書くと、「あれ、お米は熱帯原産の作物だから、暑い方がいいのではないのか?」と思う方もいるでしょう。しかし最近は明らかに逆のようです。私は農業の専門家ではないので、その原因までは知りません。ただ様々な要因の結果として現れたデータは、明瞭に気温の高さが稲作のマイナス要因であることを示しています。

  はるか弥生時代から、稲作の歴史は冷害との戦いの歴史でしたが、いまやすっかり逆の状況となってしまいました。現在の温暖化は原因がよくわかっていません。二酸化炭素の削減なども、とりあえず思いつく対策の一つとしてやってみることはいいでしょう。ただしそれだけで現在の温暖化を食い止められるとは考えられません。むしろこれからは、状況に対応して、夏の暑さに強いお米を品種改良で作り出していくことが急務となってくるでしょう。何とかお米の実る美しい風景を守りたいものです。