校長室ブログ

徒然なる毎日

5/16 もうすぐ中間考査 & プチ史跡巡り(21) お稲荷さん(?)振興計画

 早いもので、もう来週後半は中間考査です。

 本校では教養を深め、読書習慣を身に付けるため、毎朝「朝読書」を行っています。私は「朝読書」などで読んでもらおうと、生徒向けにお勧めの本を紹介するメールマガジンを不定期に配信しているのですが、試験前1週間と試験中は勉強の邪魔にならないよう配信を休止しています。今年度は、配信のスタートが遅れたのでまだ1号しか出していないのですが、またしばらく配信はお休みです。休み明けからペースを上げて配信できるよう、休止期間中に少し書き溜めておこうかと思います。

 さて、プチ史跡21は、大宮駅東口の一角にひっそりとたたずむお稲荷さん(たぶん)です。

 

 

 大宮駅の東口にでると駅前広場から道を渡った先に「すずらん通り」というアーケードがあります。駅の側からアーケードに入り左側を見ていくと建物と建物の間に挟まった狭い路地があり、その奥に鳥居と祠が見えます。

 額などはなく祠の中もよく見えないので、御祭神が何かはよくわかりませんが、このような繁華街の真ん中にある小さなお社はおそらく商売繁盛の神さまのお稲荷さん、あるいは火伏せの神様の秋葉さまだと思います。

 草が伸び放題というわけではなく周囲も比較的きれいに片付けられているので、完全に忘れ去られているのではなさそうです。しかし傾いたまま放置された鳥居などをみると、さほど信心されているようでもなく、何か微妙な感じです。祠の正面に置かれた石の水盤を見ると大正10(1921)年に寄贈されているので、このお社は少なくとも100年以上前からお祀りされているわけです。それがこんなさびれた状態なのはちょっと寂しいですね。いかにも地権が入り組んでいそうな場所ですが、放置しておくには惜しいと思います。鳥居をきちんと立て直し、社を生垣で囲み、パワースポット的な由来(なければ創作しても良し)を書いた看板や「開運」とか「縁結び」とかの御利益を書いたのぼりを路地の入り口に立てれば、立地も良いので、東口の新名所になって繁盛するのではないかと思うのですが。関係者の方はぜひご一考ください。

 

 

 

5/8 もう5月&プチ史跡めぐり(20)吉野町の富士塚

 ほぼ1か月半ぶりの更新です。

 私事ながら4月にちょっと入院・手術・リハビリなどということをしていたので、ブログ更新まで手が回りませんでした。その辺もようやく落ち着いてきましたので、ぼちぼち更新を再開します。

 更新が途切れている間に入学式がありました。昨年度末の卒業生は、高校生活がコロナ一色だった「コロナ世代」でしたが、今年の入学生はコロナ騒動が明けた後の「ポスト・コロナ世代」として、伸び伸びと高校生活を送ってほしいものです。

 毎年のことですが、本校のある与野はバラの町です。今年も初夏を迎えてバラの花が咲いてきました。写真は本町小学校の土手に生えている野良っぽいバラです。

 

 バラというと普通は八重咲で花弁がきれいに巻いた(高島屋のマークのような)ものを思い浮かべますが、このバラはわりと原種っぽくていい感じです。

 さて、今回のプチ史跡巡りは、病み上がりなので無理はせず手近なところ、ということで、さいたま市北区吉野町のつつじが丘公園内にある富士塚です。

 与野公園の富士塚に比べると墳丘も低く形もあまり富士山っぽくありませんが、頂上には立派な「浅間大神」の石碑があります。

 

 この石碑の裏面を見ると、建立は明治18年となっており、建立の代表者として講長清水某の名前が刻んであります。現在でもこの地域には清水さんという御宅が多いので、いずれかのお家のご先祖なのでしょう。

 頂上へ続く短い参道には、様々な石碑が立てられています。17世紀の富士講の指導者食行(じきぎょう)や、明治初期に富士講の諸派をまとめ扶桑教を起こした宍野半(ししのなかば)を祀った石碑、神奈川の大山阿夫利神社や富士山の鈴原神社から勧請したらしい「阿夫利」「鈴原神」と書いてある石碑、「亀」とあるのは八大竜王を祀った亀岩と思われます。また崩し字なので(私には)よく読めないのですが、おそらく「御座石浅間」と書かれた碑もあります。富士塚にありそうなものは皆、揃っているなかなか素晴らしい富士塚です。

 以前にも書いたように、本校のある与野周辺には富士塚や御嶽塚が沢山ありますし、私がいつもふらついているさいたま市北部から上尾市にかけても非常にたくさんの富士塚があります。他にも埼玉県では志木市や川口市にも有名な富士塚があります。このあたりの江戸時代~明治時代にかけての庶民の山岳信仰熱には、ちょっと現代の想像を超えるものがあったようです。

 

3/13 卒業式が行われました

 1か月ぶりの更新となりましたが、先週の金曜日3月10日に、第68回卒業式を挙行いたしました。

 脱コロナの動きが加速する中、3年ぶりに国家や校歌の斉唱も行われ、卒業生は原則マスクなしの卒業式となりました。しかし3年以上にわたり毎日マスクを着け続けていたため、急にはずすことには抵抗感があるのか、実際にマスクを外して参列した生徒は半分ほどだったような気がします。

 思えば、今年度卒業の諸君は、入学式そのものもコロナ対策のために6月にずれ込み、その後も様々な行事が中止や延期になるなど、高校生活全般にコロナウイルスの影響を受け続けた学年でした。その苦難に耐え、卒業を迎えた諸君には、心からおめでとう言わせてもらいます。

 卒業式の式辞では、卒業生諸君に、「luck favours the daring (幸運は勇気ある者に訪れる)」という言葉を贈りました(下のリンクから式辞本文が読めます)。残念ながら現在の世界は、決して平和で安定した世界ではありません。しかし若い世代の活躍が今後の世界を作り出していくという気概をもっと進んでいってほしいと思います。

第68回卒業式 式次.pdf

 

2/9 春近し & プチ史跡巡り(19)謎の機械

 立春を過ぎ、今週は少し寒さが和らいできました。

 いつも校長室に華道部の皆さんが届けてくれるお花も、今週はいかにも春っぽいチューリップとゼンマイ(?)でした。まっすぐ突き抜けるように伸びるゼンマイの若芽がとても力強くていいですね。

 

 学校の方では先日、学校評議員会・学校評価懇話会がありました。懇話会の席上、生徒代表の生徒会役員の皆さんから、生徒目線での沢山の意見がありました。すぐには実現が難しいこともありますが、取り入れるべきは取り入れ、より良い学校づくりに生かしていきたいと思います。

 さて今回の「プチ史跡巡り」は史跡というよりは「遺物」という感じです。

 先日、身内の法事で出かけた県内某所のお寺の裏手で、謎の機械の残骸を見つけました。

 

 赤さびだらけですが、複雑に組み合わさった歯車に機械らしい魅力を感じます。片方の端にあるラッパ状の部品とそこに何かを流し込むガイドカバーのような部品の形状から想像するに、何かをすりつぶしたり混ぜ合わせたりする機械のようですが、本体真ん中の辺りに木製の風車のような物がついているのが謎です。もしかすると「籾摺り機」かと思うのですが、だとするとラッパ状の部分が小さくてあまり能率がよさそうではありません。どこかに銘板でも残ってないかと思いましたが、それも見当たりません。これが一体何か、すごく気になります。どなたかわかる方がいたら、教えてください。

 

 この機械もかつては農村でありふれたものだったのかもしれません。しかし、こういう何気ないものにまつわる記憶というのは失われやすいものです。

 たとえば、商店街にあったお店が取り壊され別のものに建て替わったとします。半年もすると長年、見慣れた景色だったはずなのに、元は何があったのかというのは意外と思い出せなくなってしまいます。

 とはいえ、古い家は壊さなければボロ屋ばっかりになってしまいますし、古いものを捨てなかったら家の中はガラクタだらけになってしまうので、古いものが新しいものに入れ替わっていくのはやむを得ません。

 しかし、今我々が当たり前だと思っている生活もいつか歴史の一部になります。見慣れた何気ないものやことこそ、意識して記録や記憶を残しておくべきだろうと思います。

1/27 プチ史跡巡り(18)さざれ石とか

 県外シリーズ第2弾といっても前回と同じく東京は虎ノ門界隈ですが…。

 今回は日本の教育行政の総本山、文部科学省に潜入しました。地下鉄銀座線を虎ノ門駅でおりると、地下道を通って文部科学省のすぐ前に出る出口があります。そこを出て直進し突き当りを右に曲がると、中庭のようになっているところがあり、そこに「さざれ石」があります。

 

 国歌「君が代」の歌詞で「~さざれ石の巌となりて~」と歌われているアレです。さざれ石とは、元々は細かく砕けた石の事ですが、文科省の前の「さざれ石」は、細かい石が、石の間に炭酸カルシウムなどが入り込むことで固まった石灰質角礫岩という堆積岩の一種です。ただ写真でもわかる通り、まだ岩石としての強固さはない感じです。「君が代」の歌詞のとおりに、細かい石が地中に堆積して強固な巌に成長する過程なわけですね。

 この文部科学省前の「さざれ石」は、さざれ石の産地として有名な岐阜県揖斐市産のものであると説明板に書いてありますが、いつ頃、何のためにここに置かれたのかは書いてありません。私としては、むしろそこが知りたいのですが。

 このさざれ石のすぐ近くに、溝の中に降りていく階段があります。階段を下りた溝の側面が、江戸城外堀の石垣の遺構です。石を切り出したノミの跡や、普請を担当した大名家のマークなどを見ることが出来ます。

 

 旧江戸城は明治維新の後、急速に荒廃し(幕末から財政難のため荒れていたという説もありますが)、建物もあらかた取り壊されていまいました。もったいないことをしたものだと思います。われわれは姫路城、熊本城などを見て城郭建築の壮麗さに感動していますが、明治初年に撮られた写真や現存する図面などによると、明治以前の江戸城は、それらとは比べ物にならない広大なものでした。タイムマシンがあったらぜひ見に行きたいですね。

 この2つの史跡は表通りからはちょっと奥まったところにあり、入っていくのがためらわれる感じですが、特に許可などもらわなくても見学できますので、虎ノ門の辺りに御用のある方はついでに寄ってみてはいかがでしょうか。

 

1/10 始業式・プチ史跡巡り(17)金刀比羅宮(虎ノ門)

 今日は三学期の始業式でした。

 感染予防の観点から始業式は放送で行いましたが、好天気だったのでスタジオに使った多目的A教室からは、遥か東京スカイツリーまでが見渡せました。(下の写真の円内。手前は圓乗院の多宝塔)

  

 始業式では、今年の箱根駅伝の駒澤大学優勝の話題から、駒澤大・大八木監督の優勝のために工夫や努力を怠らない「昭和の精神」を見習いたいという話をしました。R4第3学期始業式.pdf

 今回のお題の二つ目「プチ史跡巡り(17)」は、シリーズ初の県外取材、東京は港区虎ノ門にある金刀比羅宮です。

 この神社自体は、江戸時代に讃岐丸亀の藩主だった京極高和が1660年に四国の金刀比羅宮から勧請し、藩邸内に祀ったという由来がはっきりして特に不思議はありません。祭神は大物主と崇徳天皇ですが、大物主の別神格少彦名命が、船に乗って来訪した神ということもあって、海事関係者の尊崇を集める神社です。そのせいでしょうか、現在でも道路反対側には、商船三井ビルが建っています。

 さて、今回、書きたかったのはこの金刀比羅宮に見られる日本的な精神についてです。

 

 上の写真でも分かるように、この神社は都心のビジネスビルに囲まれるようにして建っています。というか境内に虎ノ門琴平タワーというビルが建っていて、写真左側に見える社務所はこのビルの1階、写真から見切れたところにある神楽殿に至っては地下駐車場の入り口をまたいで建っています。

 この都心の超一等地に残された神社に、私はすごく頼もしいものを感じました。

 現在、日本はバブル崩壊以降の経済的な立ち遅れが隠しようもなくなり、すっかり貧しい国になってしまいました。現代においてグローバル化は避けようがありませんが、21世紀になってからの日本は欧米に追従しようとするあまりに、肝心の日本の強みというべきものを捨ててしまったように思います。

 うまく言えませんが、この金刀比羅宮に見られるように、現代的なものをこだわりなく取り入れつつ、日本の伝統を残す。この二つを融合させるという所に、本来の日本の強さや良さがあったのではないでしょうか。

 この神社は先述の通り、かつては京極家の藩邸内だった場所ですが、江戸時代から毎月十日には庶民の参拝を許していました。封建制の身分社会の建前の中でも、きちんと庶民の要望に応えるおおらかさに、かつての武士たちの姿勢の正しさを感じます。

 そんなわけで新年早々、日本の衰退からの復活を祈願してきました。

1/4 今年もよろしくお願いします。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 今年のお正月は天気もうららかで、寒さは厳しいながら「初春」という感じがしました。とはいえ私的には特別なことは何もなく、元日は近所の神社へ初詣、2日、3日は基本的にはこたつ・テレビで箱根駅伝(ときどきちょっと外出)という例年通りの過ごし方でしたが。

 今年は近所の神社も、箱根駅伝の沿道の応援も人出が多く、ようやくコロナ以前に戻りつつあるようです。法的な扱いはともかく、人々の心から過大な怯えがなくなってきたのは良いことです。

 そういった明るい兆候とは別に、不安定さを増す国際情勢や、日本経済の衰退に伴う円安・物価高など内外の情勢は、今年も厳しそうです。

 与野高校の生徒に皆さんには、そういった困難にも明るさと強さを失わずに立ち向かえる人に成長してほしいと思います。またそういった皆さんを支えられる与野高校でありたいと思います。

 

12/26 吹奏楽部クリスマスコンサート、暦について(補足)

  先週の土曜日(24日)に吹奏楽部がイオンモール与野でミニコンサートを行いました。 

 折から年末の買い出しに来ていた多くのお客様が足を止めて聞いてくれました。中にはディズニーメドレーで踊りだすお子さんもいたりして楽しい演奏でした。(別ページにも当日の様子が掲載してありますので、そちらもご覧ください。)

  前回暦の話を書きましたが、その時にウィキペディアで面白い話を見つけたので要約して紹介します。

 英語で12月を表すDecemberが、元々は「10月」という意味だということは、中学・高校の英語の授業で習ったかもしれません。建国されたころのローマの暦は、1年が10か月300日くらいしかない暦だったので、季節とのずれが大きく、不評でした。その後2か月を追加したものの正確な暦がなく、貴族や神官などの有力者が勝手な暦を作成するなどの混乱が続きました。

 そこで共和制末期の分裂と内戦を制した英雄ユリウス・カエサル(Julius Caeser)は、エジプトの太陽暦に学んで正確な暦を作りました。ローマの元老院は彼の功績を記念して(というかおべっかを使って)7月の名称をカエサルの名にちなんだJulyとすることを決定しました。元老院はその後も初代皇帝アウグストゥス(Augustus)の名を8月の名称にします。この時、アウグストゥスは自分の名前が付く8月が、カエサルの名前のついた7月より日数が短いのは気に食わないとして、それまでは交互に並んでいた大の月(1か月が31日)と小の月(1か月が30日)の並び順を変えて、強引に8月を大の月にしてしまいました。これは今もそのままです。

 その後も自分の名前を月の名前にしようとしたローマ皇帝は何人もいたのですが、ほとんど忘れられ現在は7月と8月だけが残っています。(やはりカエサルとアウグストゥスは偉大さが桁違いだからでしょう。わがままもけた違いですが…。)

 この話を読むと権力者のわがままとそれに媚を売る政治家の醜さが目につきますが、第2代の皇帝ティベリウスは自分の名前を月の名にすることを勧める人々に「皇帝が13代以上続いたらどうするのか」といって辞退したそうです。立派な人ですね。

 さて、年内の更新はこれが最後だと思います。みなさまよいお年をお迎えください。

 

 

 

12/23 第2学期終業式、暦について

 今日は2学期の終業式でした。終業式には「校長講話」がつきものですが、「講話」というからには何かためになるお話をしなくてはならないようです。そこで、今回は人生の密度の高いのは若いうちだけなので、新年に向けて目標を立てて頑張ろうという主旨の話をしました。令和4年度2学期終業式.pdf

 私が高校生の頃の校長先生は、15分から20分にもわたり、和漢洋の古典などを引用して格調高い訓話をしたものでした。私はちょっとそういうのは苦手ですので、最長でも5分くらいです。私だってやろうと思えば、多少の古典の引用くらいできます。しかし話のコアとなる部分は、結局一般的な心構えだったり通俗道徳だったりするので、古典の言葉など借りずに、自分の言葉で普通に語れば十分だと思います。

 それに、そもそも昔の校長先生はみんな「詩経」とか「易経」とか「春秋左氏伝」とかを読んでいたのでしょうか? 中国文学や中国史の専門家ならともかく、こんなマニアックな古典を読んでいた人が沢山いたとは思えません。校長向けの講話に役立つ古典の言葉をまとめた本から孫引きしていたんじゃないかと疑わざるを得ません。

 さて、今日の2番目のお題「暦について」です。昨日12月22日は冬至でした。今の我々の暦は冬至と年の終わりが1週間ほどずれていますが、私はこれを一致させられないかと考えています。

 おそらく古代において人類が暦を作り始めたころは、昼間が一番短くなる冬至が年の終わり、その翌日の昼間の長さが回復し始める日が、年の初めだったのだろうと思います。一方、月の満ち欠けによって日を数えることも、世界中の多く地域でごく自然行われていました。冬至ー春分ー夏至ー秋分という太陽を基準とした季節の巡りと、月齢による「月」のサイクルにはどうしてもずれがあります。(今年はたまたま冬至の翌日が新月「朔」でしたが…)

 それに加えて、古代国家が成立すると、暦の制定・公布に皇帝やら教皇やらといった権威が絡むようになったため、天象と暦のずれの是正が簡単にできなくなり、現在の暦にもそのずれが引き継がれてしまいました。

 現在、世界でデファクトスタンダートとなっている暦は、16世紀にローマ・カトリック教会が定めたグレゴリウス暦です。ほぼ世界共通といって良い状況ですが、イスラム諸国などでは今でもイスラム暦との併用が行われているようですし、ヨーロッパ諸国でもカトリックではない国々では導入が遅れました。特にロシアなどは20世紀に入ってもロシア正教に基づくロシア暦を使っていました。

 そこで提案なのですが、国連などが提唱して冬至を1年の終わりとする新しい暦に改暦してはどうでしょうか。特定の宗教に偏ることもなく、天文学的に正しい暦であれば、国際的な合意を取り付けることも可能だと思うのですが…。

 暦のずれ、といえば何年か前に「旧暦ブーム」というのがありました。これは生半可な知識に基づく実に間抜けな議論でした。

 「旧暦ブーム」で言われていたことは、概ね「明治時代以前に使っていた旧暦の方が、日本の季節感に合っている。旧暦に従うことで日本の文化的伝統を取り戻し、健康にも良い生活ができる」ということでした。

 毎年微妙に異なりますが、一般に、旧暦の月日は、現在の「新暦」より大体1か月くらい遅くなることが多いのです。そのため、新暦の月日を基準として伝統行事を行うと、多少季節感に合わないことになります。例えば正月です。よく正月を「初春」といいますが、新暦の1月に初春といわれても、全然「春」を感じない、これは事実です。

 しかし、「旧暦」なら季節感と暦が一致するのか、というとそんなことはありません。

 明治以前に使われていた旧暦(太陰太陽暦)は、今でもカレンダーの隅っこに記されていることがあります。この旧暦の仕組みをざっとおさらいします。

 旧暦では月の満ち欠けで1か月を決めるので、新月の日が1日、三日月の日は3日、毎月15日は満月の十五夜になります。月の満ち欠けの周期は約29.5日なので、1か月が29日の小の月と30日の大の月を繰り返し、12カ月は354日となります。イスラム暦などはこれをそのまま1年としています(純粋な太陰暦)が、季節の原因である地球の公転(地球が太陽を回る)周期は約365.25日なので、これだと1年に11日ずつ季節と暦がずれていきます。旧暦ではこれを調整するために19年の間に7回、閏月を入れ13か月ある年を作ります。このように太陰暦に太陽を基準とした修正を加えているので旧暦は「太陰太陽暦」と呼ばれます。しかし、この修正を加えても旧暦においては暦の月日と地球の公転による季節の循環は前後半月ほどずれることがあり、その差は「新暦」よりずっと大きくなります。

 これでは困るので旧暦においては、月日と関係なく、地球の公転周期に基づいた二十四節季という区分を設けて生活サイクルの指標にしていました。今もよく使われる「立春」とか「大寒」とかがそれです。「旧暦ブーム」で主張されていた「季節感との一致」云々は、この二十四節季に従った生活、という意味でしょう。二十四節季は地球から見た太陽の動きによるので、そのサイクルは太陽暦そのものです。だからむしろ今のカレンダーの方が二十四節季と月日のずれは少なくなっています。今の暦で困ることがあるとしたら、日付と月齢が一致していないことくらいですが、街灯のない田舎や山奥にでも行かない限り、夜間の月の明るさを気にすることはないでしょう。

 「旧暦ブーム」を支持していた人たちは、こういった暦の仕組みを全く理解していなかったのだと思います。 

12/12 プチ史跡巡り(16)氷川神社の謎(続)「一宮論争」

 先週の土曜日(12月10日)、大宮の氷川神社では3年ぶりに飲食の屋台をともなう大湯祭が行われたという報道がありました。よいことだと思います。生徒の皆さんは期末テスト期間中でお祭りどころではなかったかもしれませんが…。

 氷川神社の現在の主神「スサノオノミコト」は、メジャーな神様だけあって複雑に習合し無数の神格を持ちますが、その一つが、疫病退散に霊験あらたかとされる牛頭天王や武塔大神です。その神様を祭る氷川神社の大湯祭は1年の穢れを払い、来るべき春に向かって人々の生命力を掻き立てるための祭りです。盛大に行ってコロナ退散を祈るべきでしょう(人が集まるので感染対策は必要だとしても)。

  さて、ようやく今回のお題の「一宮論争」です。

 「謎」というほどではありませんが、武蔵の国一宮である氷川神社に対し、「一宮は小野神社(多摩市)で氷川神社は三宮だ」という議論が近年わりと盛んです。この主張の根拠は鎌倉時代の「吾妻鑑」や南北朝時代の「神道集」の記述、武蔵総社の大國魂神社の六所宮(武蔵国内の各神社の出店のような小さな祠を祭った神社)における順番などです。一方、氷川神社を一宮とする記述は、室町時代以降に現れ、近世、近代を通じて定着し、あまり異論は聞かれませんでした。

 さて、この問題について私見を以下に述べていきます。まず、私は古代の「一宮」と近世・近代の「一宮」は別のものだと考えています。理由は後述しますが、こう考えると先の「一宮論争」がよく整理できます。

 先の「一宮=小野神社」の最大の根拠は、「神道集」の記述やそれに基づくという大國魂神社の六所宮の順ですが、これは、古代律令制の国司の神拝に由来します。国司神拝とは国司が任地の神々を参拝して回る行事です。六所宮に定められた一~六宮の由来については諸説ありますが、私は単に国司が巡回する順番を示したもの、という説に賛成です。そのことは六所宮に祀られた各神社の位置を地図上に落とし込むとよくわかります。

 

 武蔵国府は今の府中市ですが、そこを出てまずは近くの①小野神社(多摩市)へ行き、そこから多摩川沿いにさかのぼって②二宮神社(あきる野市)、今の国道16号線や県道2号線(旧16号)に近いルートで③氷川神社(さいたま市大宮区)、国道17号から国道140号の荒川に沿ったルートで④秩父神社(秩父市)、そこから寄居のあたりに戻って⑤金讃神社(神川町)まで行き、東山道武蔵路(今の国道254号に近いルート)経由で国府に戻り、⑥杉山神社(横浜市緑区)へは改めて出かける…。

 別のルートも考えられなくはない(※)ですが、一番楽に合理的に参拝を行うための順番が、古代武蔵国における「一宮~六宮」なのです。ですから、数字の順と神社の格式はあまり関係がありません。一方、古代の神社の格式については「延喜式神名帳」というものが残っています。先の一宮~六宮までの神社は国司が参拝するだけあって、二宮神社を除いてみなこの神名帳に載っています(式内社)。中でも氷川神社と金讃神社は名神大社(災害や国難の時に国が祈りをささげる神社)として、別格の地位を持っています。

 国司の神拝は、律令制度が衰えると次第に真面目に行われなくなっていきます。いちいち各地を回るのは面倒なので、国府の近くに各神社のミニチュアをまとめた「総社」を作り、ここにお参りすれば、全部回ったと見なすようになります。これが武蔵国では大國魂神社の六所宮というわけです。

 さらに中世になると国司制度そのものも有名無実化し国府も廃絶します。そうなったときに民衆の意識の中では、本来の神社の社格や神威にのっとって、氷川神社を一宮、金讃神社を二宮とする考えが生まれ定着していったのでしょう。これが近世・近代における武蔵「一宮」で民衆の支持や信仰心による自然発生的なものと言えると思います。

 この古代の「一宮」と近世・近代の「一宮」が混在してるのが、「一宮論争」の元です。別に古代の「一宮」も律令などで定められたり廃止されたりしたわけではなく、近世・近代の「一宮」も正式に朝廷や幕府によって権威付けられたものではありません。だから、特にどちらが正しいということはないのだと思います。

 この「一宮論争」において一方の当事者となっているのが小野神社です。小野神社はWEBページに「一之宮とは、中世に全国的に確立した、国内における神格の格付けで、国内第一の鎮守という意味です。」と書き、強く自らが一宮であると主張しています。これを読むと、中世に何らかの権威によって「一之宮」制度が作られたかのような印象を受けますが、これは先に見た通りの理由からあまり正確な記述とは言えないと思います。

 ところが、近年の御朱印ブームなどで神社好きになった人などがこの主張に乗り、それが埼玉をディスる(けなす)のが好きな人々に受けて、「小野神社=一宮」説が、いかにも歴史通、神社通の常識であるかのように喧伝されているのでしょう。

 小野神社が自らの権威を高めるべく小野神社=一宮を主張する気持ちはわかりますし、また一定の根拠もあり間違いではありません。しかし一方で氷川神社=一宮にも歴史的な経緯と十分な正当性があります。

 重ねて言いますが、このことについて私はどちらが正しいとは言いません。しかし前回書いた通り、京都から東京に移られた明治天皇が最初になさったのが氷川神社への行幸だったことからも、近世以降においては氷川神社が武蔵の国において一番の神威・神格を持つ神社と思われていたことは明らかです。

 (※)たとえば二宮神社から飯能経由で正丸峠を越えて秩父神社へ行き、金讃神社へ回った後、氷川神社へ行き、そこから国府に戻る、というルートも考えられなくはないでしょう。しかし、大人数で行動する場合、なるべく平坦な道を行きたいでしょうから、この道はちょっと厳しいと思います。

12/5 プチ史跡巡り(16)氷川神社の謎

 早いものでもう12月。すっかり冬ですね。一年で一番日が短くなる冬至ももうすぐです。

 冬至で思いだすのが氷川神社です(なぜ思い出すのかは後で説明します)。氷川神社は埼玉県では最もありふれた神社で、それこそ、そこら中にある感じです。私の地元の上尾市内にも沢山あるのですが、昨日は久しぶりに気持ちの良い天気だったので、ジョギングがてら上尾市二ツ宮の氷川神社へ行ってきました。

 小ぶりながら、精巧な浮彫が施された立派な本殿です。ここの氷川神社は今はお社が一つですが、昔は隣にもう一つお社があり、男体社と女体社の二つのお社があったことから、「二ツ宮」と呼ばれていたそうです。

 さて、氷川神社の本社は言わずと知れた大宮の氷川神社です。祭神は、スサノオノミコト、クシイナダヒメ、オオナムチの出雲神話の主役の三柱とされ、社名のヒカワも出雲の国の斐伊川に由来するという説が一般的です。

 しかし実は氷川神社はそんな簡単な神社ではなく、たくさんの謎を秘めた神社なのです。

 このあたりの話はネットでググるとたくさんヒットしますが、以下にかいつまんで紹介します。

 氷川神社は表向きの祭神とは別に、元々は竜神信仰の神社であったと言われています。かつて埼玉県南部には見沼という大きな湖沼がありましたが、大宮の氷川神社(大宮区高鼻)は見沼区中川の中山神社(中氷川神社)と緑区三室の氷川女体神社と見沼で結ばれた三社一体の神社であったといわれます。また見沼田んぼの山口新田には、古代から中世にかけて数百年もの間、竜神の祭りがおこなわれていた水上祭祀の跡(四本竹遺跡)もあります。

 見沼周辺はこのように水神(竜神)信仰が盛んな土地だったのですが、近世に入り見沼が干拓されたために、水上祭祀は氷川女体神社の神池で行われるようになりました。また伝説では、この時、見沼の竜神は千葉の印旛沼に引っ越したそうです。

 この話からすると氷川神社の祭神は、本来は土着の見沼の竜神(さいたま市のマスコットのあれです)であったようです。また、このことを裏付けるかのように氷川神社の分布はほぼ昔の武蔵国の中に限られています。出雲の斐伊川が名前の由来とされるているのに、出雲には氷川神社はごくわずか(2社くらい)しかありません。現在の三柱の祭神は、氷川神社を記紀神話の体系に取り込むための後付けだった可能性が高いと思います。

 またこのように出自のはっきりしない神であるのに(あるいはそのために)、氷川神社は、古代から天皇家や朝廷にとって非常に重要な神社でした。平安時代の延喜式には「名神大社」(天災などが起きたときに国家が祈願する神社)として記載されています。近現代においても、明治天皇は東京に来て10日目には氷川神社に行幸して祭祀を行っていますし、現在でも宮中の四方拝で遥拝される神社となっています。要するに氷川神社は、マジカルな意味での関東支配の要なのです。

 また一部で有名なのですが、先ほどの氷川神社、中山神社、氷川女体神社の3つの神社は、北西から南東に30度傾いた一直線上にあります。東西方向から30度傾いた線というのは、関東地方くらいの緯度だと、冬至と夏至の日の太陽の方向と一致するいわゆる「レイライン(光の道)」にあたります。

 念のため書いておきますが、私はレイライン系の話はあまり信じないほうです。なぜなら「レイライン」は作ろうと思えば、いくらでも作れるからです。地図上でまず有名な神社や遺跡を一つ選び、そこに物差しを当ててぐるっと回し、東西や南北、30度傾斜などの先にあるめぼしい神社等をもう一個探します。その2点間に直線を引き、さらにその直線の周囲に神社や遺跡を探していけば「レイライン」完成です。世の中には、何でも「レイライン」で結んで、超古代文明みたいな話にしてしまう人がいますが、そういうのはちょっとどうかと思います。

 しかし上で紹介した「氷川レイライン」の話は、かなりよくできています。たしかに3つの神社はほぼ等間隔で一直線に並んでいます。しかも適当に選んだのではなく、これだけ関係の深い神社が直線状にあるのですから、意図的な並び方であるという話にちょっと信ぴょう性が出てきます。方位的にも真ん中の中山神社から見れば冬至の日の出はぴったり氷川女体神社の方向から上り、夏至の太陽は高鼻の氷川神社の方向に沈むはずです。ついでに言うと下山口新田の四本竹遺跡も、ほぼこの「レイライン」を南東に伸ばした線上にあったりします。「これは、もしかして本当かも?」と感じさせられます。

 ただこの説の通りだとすると、3つの神社を直線状にどうやって並べたのかが問題となります。のろしを上げて観測するなどの手段で、冬至や夏至の太陽の方位に合わせて土地を選定するということは不可能ではないとは思います。しかし、いくら人家もビルもない古代でも、視線を遮る森や地形の高低はあったのでそう簡単ではないでしょう。

 さらに氷川神社といえば、昨年読んだ「縄文神社」武藤郁子(飛鳥新社)という本には、氷川神社は縄文時代の祭祀跡に建っているという話がのっていました。これが本当なら氷川神社の歴史は数千年から1万年くらいに上ります。

 我々、埼玉県人にとってはすごく身近な氷川神社にこのような謎があるのは、とても楽しいことだと思います。

 

 

 

 

11/16 プチ史跡巡り(15)上尾の胡桃下稲荷

 久しぶりにタイトルにふさわしい史跡巡りです。

 今回訪ねたのは上尾駅東口の少し北側にある笠間(胡桃下)稲荷です。ビルの谷間の小さな社で、「プチ史跡巡り(10)」では紹介した北浦和の豊川稲荷とちょっと似ています。この神社自体は明治時代に茨城の笠間稲荷から勧請して建てられたという来歴がはっきりしており、特に不思議なところはありませんが、本社の笠間稲荷には、別名の「胡桃下(くるみがした)稲荷」も含めて私はちょっと不思議なものを感じています。

 稲荷神社の祭神は一般的にはウカノミタマという食物・穀物の神様であるとされます。この神様は古事記・日本書紀に出てくる豊穣をつかさどる神として尊崇を集め、すべての稲荷の総本社とされる京都の伏見稲荷などは平安時代に正一位の神格を与えられ、明治時代には官幣大社となるなど国家の厚い保護を受けてきました。

 一方、今回取り上げた笠間稲荷です。現在の笠間稲荷は関東を中心にたくさんの末社を持ち、伏見、豊川に次ぐ三大稲荷とまで呼ばれています。しかし、この神社は江戸時代に笠間藩主の牧野家が朝廷に願い出て、伏見稲荷と同じ正一位の神位を得るまではあまりぱっとしなかったようです。また、明治時代になってからも社格は伏見稲荷とは比べ物にならない村社でした。この差はなぜなのでしょうか?

 私は笠間稲荷の神様がもともとはウカノミタマではない、古事記・日本書紀とは関係ない神様だったからではないか、と想像しています。そう考える理由ですが、由来によれば笠間稲荷は「伏見稲荷から勧請したものではない」とされています。勧請というのは本社からお札やご神体を分けてもらって同じ神様を祭る神社をつくることです。日本の稲荷神の総本社とされる伏見稲荷からの勧請ではない、ということは元々は別の神様だった可能性があるということです。また伏見稲荷と同じ神様だったら、江戸時代に神位を願い出るまでもなく正一位だったはずなのに、改めて願い出たということは、江戸時代にも笠間と伏見は別の神様であるという意識があったのではないでしょうか。

 では笠間稲荷の正体は何なのでしょうか。私は,、地元で古くから崇拝されてきた豊穣伸・農業神だったのではないか、と想像しています。笠間稲荷の別名は「胡桃下(くるみがした)稲荷」ですが、なぜそう呼ばれるかというと、昔そこに胡桃の大木があったからだとも、鬱蒼たる胡桃の森があったからともいわれているそうです。胡桃や栗は縄文時代には人々の重要な食糧でした。稲などの栽培が広がる以前から、人為的に栗や胡桃の木を植えて実を収穫するということが行われていたようです。もしかすると笠間稲荷は、縄文時代から地元の人々によって連綿と祭られてきたクルミの神様なのかもしれません…。

 こういった記紀の系譜につながらないローカルな神様というのは昔はたくさんいたようです。たとえば同じ上尾の氷川鍬神社は今は氷川神社の系統になっていますが、元々は江戸時代中期に上尾の宿場に突然現れた「おくわさま」を祭る神社でした。江戸時代末からの神道思想の盛り上がりや明治時代からの国家宗教化のなかで、これらのローカル神はほとんどが似た性格の記紀の神様に統合されました。しかし、いまだに各地の伝承の中には、古い神々の残影が残っているようです。

 以上の考えは、一次文献とか学術論文とかにあたらずに、ネットの記事や神社名から想像しただけです。学術的な価値はないことを念のため申し添えておきます。

11/11 マラソン大会 & プチ史跡巡り(14)

 昨日(11/10)に埼玉スタジアム2002にて、マラソン大会を実施しました。マラソンといっても男子11.5km、女子8kmの持久走大会です。

 コロナウィルスのために一部生徒が参加できなかったのは残念でしたが、 得意な人も不得意な人も一生懸命走っていました。(写真は全校一斉の準備体操)

 

 気持ちの良い秋空の下で、久々に開放的な気分を味わいました。生徒の皆さんもそれぞれの達成感や自信を持ち帰ることが出来たのではないでしょうか。

 さて、次は久々の「プチ史跡巡り」です。あまりにもひさしぶりなので番号を忘れてしまいましたが、多分「14」でいいと思います。で今回の史跡は、下の写真です。

 

 「これのどこが史跡なんだ!?」と思われた方もいると思いますが、この道路は浦和の中山道から西へ伸びる「六間道路」という道です。なぜ、この道を史跡として取り上げたのか、ということは、この後、おいおい述べていきます。

 

 「六間道路」は昭和9(1934)年に完了した耕地整理事業によりできた道であると、様々な本やWEBページに書いてあります。現在は「新六間道路」といわれることが多いのですが、この道の起点の中山道の交差点には「六間道路入り口」と書いてあります。(このあたりの経緯は「咲いた万歩」さんという方の「浦和の六間道路ができるまで」というブログによくまとまっていますので、興味のある方はご覧ください。)

 名前の由来は、そのものずばり道幅が六間(約11m)あったからです。現代の私たちからは対面交通1車線ずつのごく普通の道路に見えますが、当時の人々にはとてつもなく立派な道路に見えたようです。先年亡くなった私の父親は、大正14(1925)年生まれで根っからの浦和育ちでした。父から以前、この道路が完成した時には、みんなで弁当をもって見物に出かけたという話を聞いたことがあります。また子供心に「こんなに幅の広い道路を作ってどうするのだろう?」と思ったとも言っていました。

 日本では古代の律令国家は中国に習い幅広な官道を建設しましたが、以後は道路整備を政策的に行うことはあまりなかったようです。江戸時代になると徳川幕府は街道の整備を行いましたが、旅行は徒歩やかごを利用し、物資の輸送も牛馬に背負わせて車両を利用することが少なかったので、幅の広い道路を建築する必要がありませんでした。そんなわけで、日本では道路整備が遅れ、昭和の初めでもたかだか11m幅の道路でみんながびっくりするという有様でした。

 戦前の日本は軍事力の整備に傾注した結果、零戦や戦艦大和のような世界水準を超える兵器を開発することに成功しましたが、国力を下支えするインフラ整備は遅れたままでした。その貧弱なインフラのまま、アメリカやイギリスを相手に第2次世界大戦へ突入したのですから、その無謀さは形容のしようもありません。

 浦和に残る「六間道路」とその由来は、今後同じ間違いをしないよう我々を戒める他山の石として史跡の価値があると思います。しかし、最近の出来事を見ていると、今日でも日本人は、金の使いどころを間違える愚かさと無縁でない気がします。

 

 

11/9 昨日の月蝕は見ましたか?

 みなさん、昨日の夕方からの皆既月食はご覧になったでしょうか。

 私は欠けていく途中はちょっと見ました(下はその時に撮った写真です。)が、その後はうっかりしてしまい、月が完全に隠れるところは見ませんでした。

 テレビなどでは「442年ぶりの月蝕、次は300年以上後!」とか言っていたので、「そんな珍しい現象を見逃したなんてもったいない」と思う方もいるかもしれません。しかし私的には昨日の月蝕は、寒い思いをしても得られるもの多くないだろうと思っていましたので、「見逃したら見逃したで、まあいいか」という感じでした。 

 月蝕は、太陽と月が地球を間に挟んでちょうど反対側にあり、太陽ー地球ー月となった状態です。そうなると太陽の光でできた地球の影が月に落ちるので、月が暗くなるわけです。実は月に1回、満月の日には必ずこの配置になっているのですが、地球から見た太陽と月の軌道は上下にずれているので普段は月蝕は起きません。とはいっても、2、3年に1回くらいは起きるので、そんなに珍しくない現象です。

 では昨日は何が特別だったのかというと月蝕と惑星蝕が同時に起きたことです。惑星蝕とは、月が月より遠方にある惑星と重なって隠してしまうことですが、月蝕と惑星蝕が同時に起きるというのは、さすがにめったにはなく、それが442年ぶりだったわけです。しかし昨日の惑星蝕は相手が天王星でした。天王星は太陽から遠くて暗く、肉眼で見るのはまず無理です。昨日の惑星蝕も、真っ暗な山の中で天体望遠鏡でも使わなければ観測できなかったと思います。(つまり、昨日の月蝕は普通に見たらただの月蝕にしか見えません)

 マスコミでは、このあたりの事はあまり言わずに「442年ぶり!」とだけ言って大騒ぎをしていました。そのため「月蝕そのものが数百年ぶり」と勘違いしてしまった人も多かったのではないでしょうか?

 中学校や高校で教わる理科の知識があれば、今回のようなマスコミのから騒ぎにも乗せられずにすむのですが、残念ながら、日本では「学校で習う知識は役に立たない」とか「知識よりも創造性」とか「頭でっかちより豊かな心」とかいう紋切り型の反教養・反知性主義がはびこっているので、今回の月蝕のみならず、非科学的なインチキ話に引っかかる人が多いようです。しかし、正しい知識がなければ世界も自然も正しく見ることが出来ず、きちんと感動することもできません。有り余る感情や感動も正しい知識に基づくものでなければ、ただの勘違いかもしれません。

 我々学校関係者は教育に携わる者として、率先して反教養・反知性主義の根絶と科学的な考え方の普及に努めなくてはならないと思います。

 

10/31 ハロウィン考

 ハロウィンシーズンたけなわです。

 コロナウィルスによる規制が緩んできたため、久しぶりににぎやかなものになるのでは? と思っていたところ、お隣、韓国で大惨事が起きてしまいました。亡くなられた方々のご冥福と、けがをされた方々の回復をお祈りします。

 さてハロウィンですが、日本でハロウィンが行われるようになってきたのは、今から20年くらい前でしょうか? お菓子やら仮装の装束やらいろいろなものが売れるせいもあってか、急速に定着してきました。

 

 ハロウィンは、表向きはキリスト教の諸聖人を祀る万聖節ということになっています。しかし、元々の起源はキリスト教以前の異教ドルイドの祭りです。同じような由来のクリスマスがスマートになってあまり異教的な感じがないのに対し、ハロウィンの方はカボチャの化け物ジャックオーランタンや、魔女やお化けの仮装など異教的な雰囲気が色濃く残っています。このマジカルで神秘的な雰囲気が、ハロウィンの人気の秘密でしょう。

 クリスマスと同様、日本人がハロウィンを楽しむことにとやかく言う向きがありますが、私はべつによいのではないかと思います。ハロウィンはもともとドルイド教という多神教の祭りだったのですから、日本の多神教的な宗教観にはよくあっていると思います。これまでにも、仏教やバラモン教、道教など様々な由来の神々を日本の神々と習合させ、受け入れてきたわけですから、キリスト教の諸聖人も日本の神々に仲間入りしたと思えば特に問題はないでしょう。

 ただ今回の韓国の大事故や、数年前の日本での群衆が自動車をひっくり返した狂騒ぶりをみると、ハロウィンが本来持っていた異教的なデモーニッシュなパワーが噴出してきたような不気味さも感じます。今晩がハロウィン本番だそうですが、事故など起きずに楽しい祭りになってほしいものです。

 先日、華道部の皆さんが校長室にオレンジ色のカボチャのような実が活けてあるハロウィンっぽい生け花を持ってきてくれました。こんな小さいカボチャが!? とびっくりしましたが、落ち着いてよく見ると、カボチャなら蔓になるはずなのにこれは枝になっています。調べてみるとこれは、ソラナム・パンプキンと呼ばれるナスの仲間の植物だそうです。確かにちょっとしわが寄ってバキバキした感じの茎がナスやトマト、ピーマンなどナス科植物に似ています。いや、勉強になりました。

9/9 英女王の御逝去、バラの実に思う

 今朝のニュースでイギリスのエリザベス女王が亡くなられたというニュースがありました。イギリス国教会の長の方に「ご冥福」というのが適切かどうか知りませんが、ご冥福をお祈りいたします。

 エリザベス女王は若いころ、父である国王ジョージ6世を助けて第2次世界大戦を戦い抜いた方です。 

 第2次世界大戦の前半、ドイツ軍が快進撃を続けヨーロッパ大陸の大半を占領し、イギリス本土への上陸も危惧されていた時期がありました。政府は王室にカナダへ疎開することを勧めたのですが、イギリス王室はそれを拒否してイギリスに踏みとどまりました。エリザベス女王も当時まだ10代の少女でしたが、軍隊への慰問・激励や、自ら補助部隊の一員としてトラックを運転して見せるなど国民の士気を高めるために活躍しました。

 そういった歴史の生き証人ともいえる方が亡くなると、ますます20世紀が遠くなっていく気がします。

 ところでイギリスというとバラの花です。今もサッカーイギリス代表やイギリス王室の紋章にはテューダーローズというバラの図案が使われています。テューダーローズは赤白の花弁が2重になったデザインで、我々がバラと聞いてイメージするものよりだいぶシンプルな感じですが、これはバラの原種に近い形態です。

 

 本校のある与野も「バラのまち」なので、あちこちでバラを見かけます。中にはあまり手入れされていない半ば野生化したバラもあり、それらが秋を迎え、実を実らせています(写真上)。

 「バラに実なんてなるんだっけ?」と思った方もいるかもしれませんが、バラは「バラ科」の仲間です(当たり前ですが)。バラ科にはリンゴやナシ、サクラなどの果樹がたくさん含まれます。バラも花が咲いた後、放っておくと実がなります。(実がなると木が弱るので、手入れをしているバラでは咲き終わった後花を摘んでしまいます。)

 バラの実は「ローズヒップ」と呼ばれハーブティーの「ローズヒップティー」の原料になります。ローズヒップティーはバラの香りとさわやかな酸味が特徴で、健康にもいいようです。今日あたり買って帰って、イギリスの歴史でも読みながら飲んでみようかなと思います。

 

 

8/30 今日から2学期です。

 本校では、今日から2学期です。

 始業式では、先週のPTA全国大会で聞いた中室先生の話の例を引いて、自分が自分に抱いている自己イメージのマイナス部分を打破して、良い方向に変えていこうという話をしました。また本校では、今週末に文化祭(限定公開)、1か月後に修学旅行を予定していますので、新型コロナウイルスの感染拡大防止に一層の注意を呼びかけました。

8/29 行ってきました。金沢へ

 先週、全国PTA連合会の大会があり、金沢市へ行ってきました。

 一日目は分科会、二日目は記念講演がありました。分科会は、慶應大の中室教授とはなまる学習会の高濱先生がパネリストを務められた第一分科会に参加しました。

 

 中室教授は6~7年前に「『学力』の経済学」という著書を出版され、「教育経済学」の認知度を高めた功労者です。私的には、先の著書も含め、中室先生の説明はきれいに物事を片付けすぎていてちょっと眉唾なところがあるように思っているのですが、今回の分科会で紹介していた事例には一つ面白いものがありました。

 「とある進学校では入試時の成績と1年生最初の試験の間には相関がほとんど見られない。ところが最初の試験と学年末の試験の間には強い相関がみられる。」というものです。より具体的に言えば、入試時に上位合格した生徒でも最初の試験で低い成績をとると、そのあとの成績も低くなり、ぎりぎり合格した生徒でも最初の試験でよい成績をとると、そのあとの成績もよくなる傾向があるということです。

 つまり最初の試験で自分について「自分は勉強ができない」というイメージを作ってしまうと、本来のその生徒が持つポテンシャルにかかわらず、そこから脱却するのは難しくなってしまうのです。我々学校関係者にとっては、興味深くもあるが深刻な課題です。

 二日目の記念講演では、元ファミリーマートの社長の澤田氏が「経営はどこまでもお客と加盟店のためを考えるべきである」と力説されていました。私たち県立学校の職員としては「生徒のために」と置き換えて考えるべきかと思いました。

 二日目の午後は、せっかく金沢まで行ったので(年休をとって)駆け足で兼六園や主計町茶屋街を回ってきました。金沢は戦争中も空襲を受けなかったので、旧市街には歴史的な街並みがよく保存されています。

 上の写真1枚目は兼六園の夕顔亭という茶室、2枚目は霞が池です。

 下の写真左側は茶屋街の中でも人気スポットの「明り坂」右は表通りにあった洋風建築のお店です。

 

 まだまだ見られなかったところが多いので、そのうちゆっくりと観光に行きたいものです。

 

8/17 身辺雑記(2)通勤ネタです。

 お盆休みも終わり、気が付けばだいぶ日が短くなってきました。とはいえまだ暑いですが…。

 さて、先週ですが私は数年ぶりに痛風の発作が起き、右足の膝がはれ上がってうまく曲げられなくなってしまいました。そうなってみると、普段感じないようなことにいくつか気が付きます。

 1点目ですが、日本の通勤環境は弱者に厳しい、ということです。特に駅のエスカレーターですが、あれは上りではなく下りで運転をすべきではないかとおもいます。

 膝や足首に故障があり関節の動きが制限されていると、階段を下りるのは非常に困難です。故障している足を下の段に降ろして体重を支えるのはつらいので、故障してない方の足から降りるようになりますが、その場合も、上の段に残っている故障した足がうまく曲げらないので、片足とびで降りていくような感じになります。この降り方は非常に不安定で怖いだけでなく、強い衝撃が足にかかるので、いい方の足まで故障しそうになります。その一方、階段を上がる方はゆっくりと上がれば何とかなります。山登りなどをした時によくわかりますが、もともと元気な時でも足に負担が大きいのは上りより下りです。

 駅で見ていると、横切るのに苦労するほど長い上りエスカレーター待ちの列ができていることがよくありますが、元気な人たちの横着に迎合するのではなく、足に故障や障害を抱えた人のことを考えて駅のエスカレーターは下りで運転をするべきだと思います。

 2点目ですが、最近また電車の中づり広告が増えてきたような気がします。

 

 近年は、広告はドアの上のモニターで流れるようになったり、みんなが手元のスマホを見るようになったりで、すっかり数が減っていた中吊り広告ですが、今朝乗った埼京線では久しぶりにたくさんの中吊りを見ました。

 電車内でスマホを見ていると、スマホと目の距離を確保するために、腕を前に突っ張り、背中をのけぞらせた姿勢になります。最近は怒りっぽい人が増えたので、その姿勢がトラブルのもとになったりします。視線を動かすだけで読める中吊りの方が、暇つぶしとしては優れています。

 昔は新聞や文庫本を持たずに電車に乗ってしまった時は、他にやることがないので中吊りを見ていたものでした。週刊誌の中吊りなどはライバル誌(週刊ポストと週刊現代とか、女性自身と女性セブンとか)が張り合って中吊りをだすので論調の比較ができましたし、書籍の中吊りでは、怪しい健康法やビジネス書に「初版たちまち何万部!」みたいな文句が書いてあって「本当かな!?」と思ったり、なかなか楽しいものでした。みんなもっと中吊り広告を楽しみましょう。

8/10 身辺雑記

 毎日あついですね。身辺の話題を二つ。

【話題1】 温暖化について 

 先日、生徒と話をしていて気づいたのですが、彼ら・彼女らは連日35度を超える夏の気温を異常だと思っていないようです。生まれたときからそうだったから。つまり、今の状況を温暖化したと感じるのは、まだ涼しかった1970~80年代を知っている50代以上の人だけなのです。

 マスコミでは、二酸化炭素排出量を減らせば温暖化が止まり、涼しくなるかのような言説が目立ちます。しかし、これは極めて疑わしい話です。

 このブログでも何度も書いていますが、現在の温暖化の原因は不明です。わずか数十年のうちに平均気温が大きく変動する事態は過去10万年くらいの間にも何度も起きています。縄文時代には、今よりはるかに気温が高く、海水面が今より10m以上高かった時代もありました(縄文海進)。これが少なくとも化石燃料の燃焼による二酸化炭素排出と無関係であることは確かです。

 とはいえ、体温を超えるような暑さは何とかならないものか、と思います。二酸化炭素排出量の縮減もやらないよりはまし(もしかすると温暖化の原因かもしれないので)かもしれません。しかし、現在の二酸化炭素排出量の縮減は「排出権取引」などがおこなわれているように、ただの投資や新商売のネタでしかありません。また植林で木を増やせば二酸化炭素を減らせると思っている人もいるようですが、これは嘘です。植物が光合成で固定した二酸化炭素は、植物が燃えたり腐敗したり、動物の餌になったりすれば、また環境に放出されます。木が成長したら伐採し、燃やさず腐らせずに永久保存し、また新しい木を植えるというのでなければ、植林で二酸化炭素を減らすことはできません。マスコミはそういった科学的事実を、きちんと示すべきです。

【話題2】 こんなことまでしなくても

 写真の白い箱は何でしょうか。弁当箱ではないし筆箱でもないし…。これは我が家の子ども(もう大人です)が買ってきたスマートフォンを「監禁」するための箱です。

 箱は丈夫なポリカーボネートでできていて、中にスマホを入れ、左上の方に見えるボタンでタイマーをセットすると、一定の時間、取り出せなくなります。ふたの一部に穴が開いているので、緊急時の電話をとることはできますが、YoutubeやInstagram、Twitter、Lineなどはできません。

 子ども曰く、「資格試験の勉強に集中するため」だそうです。こんなものを使わなくてもスマホのスイッチを切っておけばよさそうなものですが…。

 大学生になってからスマホを使い始めた我が家の子どもですら、常時SNSの通知が見られるようにしておかないと不安だというのですから、物心ついた時からスマホのあった高校生や、生まれたときから親のスマホをいじっていた中学生以下の子どもたちは一体どうなってしまうのでしょうか。

 また今の若者は、友達と待ち合わせの場所や時間を決めたり、外出前に道順や乗り継ぎを調べるという習慣がないようです。停電や通信エラーでスマホが落ちたらどうやって行動するつもりなのでしょうか。人間の在り方としてどうなのかと思います。

 

8/1 吹奏楽コンクール & プチ史跡巡り(13)所沢航空記念公園

 先週の土曜日(7月30日)に、所沢ミューズで行われた埼玉県吹奏楽コンクール(高校B)に行ってきました。

 私は吹奏楽の経験はありませんが、高校時代になぜか合唱部に入っていてコンクールにも出ました。当時の合唱はトップ数校はとても上手でしたが、後はそうでもない学校もあり、結構のんびり、ほっこりしていました。ところが、近年の吹奏楽はどこの学校もみんな上手で、ハイレベルでしのぎを削っている感じで聞いていて息苦しくなるほどです。

 当日は新型コロナウイルス対策で大きなホールに100人くらいしか聴衆がいませんでした。こんな素晴らしい演奏をしているのにこれしか聞いている人がいないのはとてももったいない気がしました。

 会場となった所沢ミューズの最寄り駅は西武新宿線の「航空公園駅」です。駅を降りるとすぐ目の前に、YS11がドーンとおいてあります。

 

 YS11は1962年から2006年まで現役だった(自衛隊では2021年3月まで最後の1機が運用されていました)国産の旅客機です。優れた信頼性から日本だけでなく世界中の航空会社にも採用され、戦前・戦後を通じ、唯一成功した国産旅客機です。

 自分の国の設計で飛行機を製造できるというのは自立した工業力の証明です。

 日本の飛行機の歴史は、1912年に所沢航空公園の場所にあった飛行場で、陸軍の徳川大尉がアンリ・ファルマン機で飛行したのが始まりとされます。この時のアンリ・ファルマン機もフランス製でしたが、その後、日本では飛行機国産化のための努力が続けられました。そして第2次世界大戦前夜の1930年代には世界の水準にほぼ追いつき、旅客機も何種類が作られました。しかしそれらは軍用の爆撃機や輸送機をベースにしたもので、しかもすぐに戦争に突入してしまったため国産の旅客機が本格的に作られることはありませんでした。

 第2次世界大戦に敗北した後、日本では占領軍によって飛行機開発が禁じられていましたが、1952年にサンフランシスコ講和条約を結んだことで禁止が解除されました。そして日本の工業復興の象徴としてYS11のプロジェクトが各社協同で始まりました。

 その結果、YS11の開発チームには、零式艦上戦闘機の堀越二郎氏をはじめ、二式大艇や紫電改の菊原静男、一式戦闘機隼の太田稔、三式戦闘機飛燕の土居武夫、航研機の木村秀政など、第二次世界大戦の前後にその名をとどろかせた傑作機の設計者たちが勢ぞろいとなりました。その点ではYS11は戦前の大日本帝国の航空技術の集大成だったのかもしれません。

 いきなりマニアックな話になってきましたが、何を隠そう私は結構な飛行機マニアだったりします。

 マニアックついでに書くと、よく誤解されているのですがYS11はジェット機です。「えっプロペラ機じゃないの」と言う人もいるかもしれませんが、YS11のエンジンは「ターボプロップ」というジェットエンジンの一種です。

 通常のジェットエンジン(ターボファン)は、エンジン前方と後方に回転タービンがついています。前方のタービンで空気を圧縮し燃料と混ぜて燃焼させ、燃焼ガスを後ろに噴出して飛びます。その時にガスのエネルギーの一部で後方のタービンを回転させ、その力でまた前方のタービンを回転させる仕組みです。ターボプロップは後方のタービンで発生させた回転力を前方のタービンだけでなく、プロペラを回すことにも用います。要するにジェットの力でプロペラを回すわけです。

 日本ではその後、三菱が小型ジェット旅客機を開発しようとしていましたが、さまざまなトラブルから現在開発中止状態になっています。現在日本の製造業はすっかり海外に後れを取っていますが、三菱のジェット機の開発中止はその象徴のようです。

 YS11の開発時には、海外のメーカーからさまざまな横やりが入り、また国内にも外国製の飛行機を買う方が安上がりだという声が強かったようですが、自前の飛行機を飛ばして日本の復興の象徴としたいという思いで乗り切ったとのことです。三菱でもどこでもいいですから、何とか頑張って世界に胸の張れる日本製の旅客機を作ってほしいなと思います。

7/20 一学期終業式でした

 今日は一学期の終業式でした。明日から生徒は夏休みに入ります。

 終業式では、先日報道があったニコンが一眼レフの開発をやめることを決定したとのニュースを取り上げて話をしました。

 ニコンの歴史は、第二次世界大戦の敗北から日本が復活し高度経済成長を達成したサクセスストーリーそのものです。

 戦後の焼け跡の中で、ニコンはコンタックス(外国製の有名なカメラ)の互換機(正直に言えばコピー、悪く言えば偽物)作りから始めました。しかし頑張って技術を磨き、本家に負けない性能で市場を獲得し、やがては一眼レフという新たな分野に挑戦して世界一のカメラメーカーに成長しました。

 近年、スマートフォンの普及で一般向けのカメラは売れゆきが急低下していたそうです。誰もが持っているスマートフォンでそこそこきれいな写真(下は私の安物スマホで撮影した秩父鉄道武川駅の景色)が撮れてしまう時代には、一眼レフの開発中止もやむをえないことかもしれません。

 しかし世界に冠たる日本のカメラ産業の、しかもトップメーカーであるニコンがその技術の象徴である一眼レフの開発をやめるというのはショックです。今日の日本の産業の衰退ぶりを物語るかのようです。

 終業式では、生徒諸君が将来家庭や子どもを持った時に、自分たちが享受してきたような生活を子供たちに与えるためには、日本の衰退からの脱却・復活が必要であること、そのためには、まず夏休みに向けて自分の目標をしっかりと決めて、自らを磨く努力をしてほしいと述べました。

 最近の急激な円安の進行により、長年にわたり経済成長がなく国民の賃金も低く抑えられてきた日本では、必需品の値上げによる生活の圧迫が避けられません。コロナ対策も大切でしょうが、まず産業経済の衰退を食い止めることが急務だと思います。

 

 

 

7/13 近況+プチ史跡巡り12(ラジオ塔ほか)

 このところ更新をさぼっていましたが、久しぶりに更新します。

 この前に日曜日には、野球部の夏の大会の応援に熊谷さくら運動公園に行きました。結果的には早大本庄高校に6-7で敗北を喫しましたが、5点差で迎えた9回に4点を返し1点差に詰めよるなど最後まで攻撃精神を失わない立派な試合でした。

さて、今回のプチ史跡巡りは、浦和周辺です。下の写真は埼玉会館の西側の路地にある石仏です。

 観音様だと思いますが、私は詳しくないので何観音なのかはわかりません。きちんと祠の中におさめられているおかげで保存状態は良好で、お顔は剥落していますが碑文ははっきりとしています。建立の日付は「元禄二年十一月十八日」とあり、これは私の知っているさいたま市周辺の石仏や庚申塔の中でも極めて古い部類です。元禄2年(1689年)は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅をした年で、有名な赤穂浪士の討ち入りより10年以上も昔です。

 寄進した人の名前も左下の方に彫ってあり「丸〇又右エ門」のように読めます。〇の部分は、「蓑」とか「莨」のような字ですが、私には読めません。こういった石仏を300年以上も守ってきた心をこれからも大事にしていきたいものです。

 次は浦和第一女子高校の近くの調宮公園に立つ謎のコンクリート塔です。

  今、「謎」と書いてしまいましたが、実はこの塔は謎ではなくて「ラジオ塔」と言うものです。しかし大方の皆さんは、そもそも「ラジオ塔」って何?と思ったことでしょう。

 日本でラジオ放送が始まったのは大正14年(1925年)でしたが、当時はラジオの価格が高く、なかなか一般家庭への普及はすすみませんでした。素早い情報伝達のためにラジオが役に立つ事はわかっていたので、昭和に入り戦時体制が準備される中で、全国各地の広場などに作られたのがこのラジオ塔です。この塔の中にラジオとスピーカーが設置され、近隣住民がラジオ放送を聴ける仕組みでした。この調宮公園のラジオ塔も裏側に昭和15年に日本放送協会が寄贈したという銘板があり、まさに戦時下の情報伝達手段として建設されたことが分かります。

 第2次世界大戦が終わり、戦時体制が解除されラジオの普及も進むと、全国各地のラジオ塔は撤去されていきました。ラジオ塔は現在全国に37基しか残っていないとのことで、大変貴重な史跡です。埼玉県内だと他に川越の初雁公園にもラジオ塔が残っているそうですから、そのうち見に行きたいと思います。

 この話は、前任校でもブログに書いたのですが、そちらはもう削除されて読めなくなっているようなので、また書かせてもらいました。

 

 

6/21 プチ史跡巡り11.5 「お女郎地蔵」に関する補遺

 学校の方は、この間中間考査が終わったと思ったら、もう期末考査が近づいてきました。生徒の皆さんは、怠りなく準備を進めてください。

 さて、今回は前回紹介したさいたま新都心駅前の「お女郎地蔵」に関する追加情報です。

 お女郎地蔵には「昔大宮宿にいたお女郎の千鳥が、将来を言い交した若旦那との恋がうまくいかないのを苦にして、川に身を投げた」という言い伝えがありますが、この話をもう少し調べてみたら、なかなかびっくりでした。

 千鳥の「恋がうまくいかない」原因は何だったのか、と言うと、それは当時関東で暴れまわっていた真刀徳次郎という大盗賊でした。この徳次郎が千鳥に横恋慕し、「自分のものにならなければ大宮宿を焼き払う」と脅しをかけてきたため、千鳥は若旦那への思いと、孤児だった自分を育ててくれた大宮宿の人々への恩義の板挟みになって自殺した、ということだそうです。

 徳次郎は後に幕府に捕縛され、大宮宿のはずれの下原刑場で処刑されましたが、この時、徳次郎を捕まえたのが火付盗賊改方の長谷川宣以、あの鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵でした。千鳥の話はともかく、長谷川平蔵が徳次郎を捕らえたのは史実のようです。

 いや、びっくりですね。長谷川平蔵が実在の人物なのは知っていましたが、本当にこんなドラマチックな活躍をしていたとは…。それに「宿場を焼き払う」とかいう大悪党が時代劇の中だけでなく、本当にいたんですね。天下泰平な江戸時代のイメージを覆すようなバイオレンスなお話です。

 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の作品中には、埼玉県内の土地は何回か登場し、長谷川平蔵や部下たちが、深谷や越谷に出動して活躍する話もありましたが、この大宮宿の話を直接モチーフにした回はなかった気がします。今度確認してみたいと思いますが、何しろ全23巻+番外編がいくつかという分量ですし、確認のため本を開いて、うっかり読みふけってしまったりすると大変です。

 余談ですが、上で「恋がうまくいかない」というところは、最初、「恋の先行きをはかなんで」と書いたのですが、読み返してみて「はかなむ」は、もう死語かもしれないと思って書き換えました。若い人たちは「はかなむ」という語の意味をすっと理解できるでしょうか。まだいきている言葉なのでしょうか。

6/17 プチ史跡巡り11(さいたま新都心)

 来年度入学者用の学校案内が出来たので、今、あちこちに配り歩いています。先日は、新都心から北与野方面を徒歩で回ったので、ついでに見かけた史跡をいくつか紹介します。

 さいたま新都心の駅を降りてすぐの中山道の歩道の上に、小さな祠が立っています。

 中には2つの小さな石塔がありますが、右側が「お女郎地蔵」、左側が「火の玉不動」と呼ばれているものです。

 「お女郎地蔵」については、「昔、大宮の宿場女郎に千鳥という評判の美女がいたが、将来を誓い合った若旦那との仲がうまくいかず、高台橋(この後、紹介します)から身を投げて死に、そのあとこの近辺に人魂が飛ぶようになったので、供養のためこの地蔵が建てられた」という言い伝えが残っているそうです。「火の玉不動」には、「昔、このあたりには火の玉が飛ぶということがよくあり、ある日、度胸自慢の男が火の玉に切ったところ、不動様に切りつけてしまったので、ここに不動を祀った」という言い伝えがあります。

 この二つの言い伝えですが、なんとなく「恨みを残して死んだ千鳥が火の玉となり、それを退治しようとしたところ不動に切りつけてしまった」という流れなのかな、と思いますが、建てられた年代をみると不動様が寛政(1800年代)、地蔵様が天保(1830年代)なので、この解釈は成り立ちません。

 このあたりは大宮宿の南の境目であることや、この場所(今のコクーンシティ)が江戸時代に罪人の処刑が行われた下原刑場だったことを考えると、この地蔵様や不動様は、宿の境界を守るためや罪人供養のためのものとみるべきで、上の言い伝えは後付けの様な気がします。

 この祠と中山道を挟んで反対側には、明治時代に作られた高台橋の遺構があります。

 この橋は中山道と鴻沼用水が交差する地点にかけられたものですが、現在は用水の東側部分は暗渠化され、橋そのものも中山道の舗装の下に埋められてしまい、橋の西側側面だけが露出しています。近くで見たいのですが、柵とロープで囲われていて入り込むと怒られそうなので、さいたま新都心駅の京浜東北線のホームから観察します。

  精密に積まれたアーチが良く残っていて実にきれいです。現在もコクーンシティを運営する片倉工業がここに製糸工場を建てたのが明治34(1901)年ですから、おそらくそのころに作られたものでしょう。

 こんな美しい橋のうえにコンクリートをかぶせ無粋な舗装道路にしてしまったのは残念ですが、取り壊されずに埋められているのは、道路工事をした人たちにもこの橋を惜しむ気持ちがあったからかもしれません。これだけ保存状態のいいレンガ積みは珍しく、一見の価値のある貴重な遺構です。

 

 

 

6/13 歩き方考

 この土・日に家でテレビを見ていたら、帯状疱疹ワクチンの接種を呼び掛けるCMを何回も見ました。ナイス中高年な感じの男性が、海の見える公園で意気揚々とウォーキングをしている映像です。帯状疱疹の流行原因についても世間では色々言われているようですが、それは置いておくとして、このCMで気になることがあったので、それについて書きます。(今回も全く学校や教育活動と関係がないですね。)

 何が気になったのかというと、それは男性の歩き方です。胸を張って腕を大きく振り、膝をまっすぐに伸ばし足を振り子のようにけり出して歩く、という歩き方をしています。これはウォーキング入門の雑誌や新聞の記事、インターネットのサイトなどでよく見る歩き方で、良いフォームとして推奨されているものです。

 しかし、私はこの歩き方は足腰を痛める歩き方だと断言します。

 この歩き方が推奨されているのは、腰の関節を回転軸とし足の裏を大きな車輪の一部と見て、これを地面に転がすように歩けばエネルギーの無駄がないと考えたからだと思います。しかし、これは机上の空論です。この歩き方をすると、足はかかとから接地することになり、膝も突っ張った状態なので、着地の衝撃はまっすぐ膝や腰に伝わってしまいます。試しに硬い床の上で裸足でこの歩き方をしてみましょう。かかとが痛くて長くは続けられないはずです。

 現在のウォーキング用の靴は衝撃吸収性能が優れているので、この歩き方でもすぐに膝を痛めたりはしないでしょう。しかし、張り切って長い距離を歩いたりすれば確実に膝や腰を痛めてしまうと思います。人間の足には、足首の関節や土踏まずのアーチなど衝撃を吸収するための構造が備わってるのですから、これを生かした歩き方をするべきです。

 ではどんな歩き方ならよいのか、というのは難しいですが、私が実践している歩き方は次のようなものです。

 まず、足は振り子のように前にけり出すのではなく、後ろ側の足で体を前方に押し出しながら、前側の足はなるべく水平に前に出します。そして膝もまっすぐ突っ張るのではなく、少し緩めた状態で、足裏全体をまっすぐ下におろして着地させます。全体としてはすり足のような動きで、胸も後ろへそらすのではなく、力を抜いて前に体重を落とすような感じになります。この歩き方は前に進むために、後ろ脚のふくらはぎの筋肉を使うので、始めたばかりのころはふくらはぎが疲れますが、着地の衝撃は土踏まず、足首関節、膝関節と分散吸収するので、膝や腰への負担が軽くなり、長い距離を歩いても痛めることがありません。

 ちなみにランニングの方ではフォアフット(つま先)着地やミッドフット(足裏)着地がよい走りとされ、かかと着地はヒールストライクと呼ばれあまりいい走り方とはされていません。(最近、厚底シューズのブームで靴の性能が上がり、ヒールストライクも復権してきましたが…)

 なぜ、ウォーキングではヒールストライクが推奨されているのか、不思議です。このページを読んでいる皆さんがもしウォーキングをしていたりこれから始めようとしているのなら、ぜひ安全な歩き方を工夫してみてください。

 

 

 

 

 

 

5/26 一学期も後半戦&プチ史跡巡り10

 与野高校では昨日で中間考査が終わり、今日から1学期の後半戦です。

 生徒の皆さん、中間テストの調子はどうでしたか? 特に1年生の皆さんはどうですか? 思ったような点数が取れそうもない、とショックを受けている人もいるかもしれません。 皆さんも高校生である以上、点数や成績は気になると思いますが、気にしすぎることはありません。

 もちろん高校の各教科の内容は、どれも将来のためにマスターしておきたいごく基本的な知識ばかりですから、できるに越したことはないのですが、満点を狙う必要はありません。数学を例にとってみれば、三角関数やら微分・積分やらの計算は、現実の社会ではコンピュータにやらせているはずです。人間が手で計算する必要はなく、その点では皆さんも全員が高い計算能力を持つ必要はありません。しかし、「微分・積分とはどういうものか」という考え方や手順を理解していなくては、コンピュータを働かせることが出来ません。高校で勉強することには全てそういう意味がありますから、皆さんは思うように点数が取れない苦手科目でも理解しようとする意欲は持ち続けてください。その意欲さえあれば、おそらく赤点にはならないでしょう。

 さて話は変わって、先日北浦和の駅の近くで開かれた会議に出てきました。そのついでに会場近くの2つの神社を駆け足で(本当に走って)見てきました。

 1社目は「八雲神社」です。以前にも書いたように「八雲神社」は京都の八坂神社(祇園さん)の系統で、疫病退散に御利益のある神様として全国に無数の末社があります。北浦和周辺にもいくつかの八雲神社があり、元町に比較的大きな社があるようですが、この日、訪れたのは北浦和1丁目の「八雲神社」です。

 北浦和1丁目 八雲神社

 住宅地の真ん中にある小さな神社ですが、きれいに手入れされています。私は地元の方の信仰心に支えられたこういう感じの神社が大好きです。

 次は、もう少し離れたところにある「豊川稲荷」です。名前からして愛知県にある「豊川稲荷」の末社なのでしょうが、愛知の「豊川稲荷」は千手観音を本尊とし併せて吒枳尼天(だきにてん)も祀るお寺です。なぜ稲荷なのにお寺なのかというと、明治の神仏分離の時に神社ではなくお寺になる道を選んだからです。吒枳尼天(だきにてん)は仏教の他の「○○天」と同様に、仏教に敵対する悪鬼羅刹だったものが、仏教に帰依して守護神となったインドの神様です。そして、これが垂迹し日本に顕現したものが稲荷神とされます。お稲荷さんは五穀豊穣から転じて商売繁盛にも験があるとされるので、繁華街の一角によく祀られています。

 豊川稲荷 一番街

 今回訪ねた「豊川稲荷」も、現在は隣の家に「大衆酒場」という看板が残っているだけですが、周囲の様子は、かつては飲食店の並んだ横丁だったことを偲ばせます。「大衆酒場」の看板と小さな稲荷社の組み合わせが昭和の雰囲気を醸し出しており、丸ごと文化遺産に指定したい感じです。

 それにしても、ここは駅からちょっと距離がありますし、昔から近くに大きな会社や工場はなかったと思うのですが、かつては繁盛していたのでしょうか。横丁の入り口の電柱に「浦高通り一番街」という表示が残っていますが、いくら昔は今より大らかで先生方にも豪快な人が多かったといっても、まさか浦和高校の先生方だけで横丁一区画を支えるほど飲食していたわけではないでしょう。ちょっと不思議です。

 今回、回ったのは、いずれも家内安全や商売繁盛などを願った近隣の人びとによって作られた小さな社です。このように神様を勧請してくれば(あるいはお祀りする気持ちさえあれば)、どこにでも神社が出来るという自由さ、大らかさが神社の魅力だと思います。

 

 

5/18 プチ史跡巡り9 本太氷川神社と中山道の謎

 先日、さいたま市立浦和高校まで行ったので、途中、本太氷川神社を見てきました。

 中山道から1km弱東のさいたま市立本太小学校の北側にあり、石畳の参道やうっそうとした境内林などなかなか趣のある神社です。本太という地名の由来ですが、本太氷川神社の扁額には「元府址(もとふと)」と書いてあり、かつてここに「府(何らかの役所)」があったからだという説があります。(地形に由来するという別の説もあります。)

 

 しかし、古代の武蔵国府は国分寺市にあったことが明らかですし、足立郡衙の候補地は、大久保領家遺跡(埼玉大学の近く)や氷川神社東遺跡(大宮公園一帯)が有力視されています。説の通りここに「府」があったとすると、何の役所だったのでしょうか。本太氷川神社にはそのような謎がありますが、そこで思い出したのが、かねてより私が不思議に思っている中山道の謎です。

 謎の一つ目は「中山道と一体何だったのか」というものです。

 今回訪問した本太氷川神社もその一つですが、大宮の氷川神社や上記の氷川神社東遺跡、浦和の調神社、蕨の蕨城跡など、中山道の近辺には多数の史跡が存在します。中山道が街道として整備されたのは徳川家康が江戸に入った後ですが、史跡・遺跡の分布を見ると古代・中世から有力な交通路だったことは、間違いないでしょう。しかし、一体、何という道だったのかが、わかりません。

 中山道の前身となった古代の東山道は上野(群馬)から下野(栃木)へ向かうのが本線で、埼玉県内を通っていた支線の武蔵路は、吉見から川越、所沢を通り国府(東京・国分寺市)へ向かう(今の関越自動車道に近い)ルートだったことが分かっています。もう少し時代が下がった中世の鎌倉街道は、東山道武蔵路をなぞるように県西部を通る「上つ道」、川口、岩槻、杉戸、幸手と県東部を抜けていく「中つ道」(今の東北自動車道に近いルート)と、所沢、志木から与野高校のすぐ東側を通り、上尾、幸手と抜けて「上つ道」と「中つ道」をつなぐ「羽倉道」などが県内を通っています。

 しかし今の中山道のルートはこれらには該当せず、古い時代に何と呼ばれていたのかが分かりません。一次資料である古文書や本格的な研究論文などを調べればいいのかもしれませんが、普通の郷土史の本やネットで引っかかるような範囲では、中山道の歴史は徳川幕府の五街道整備から登場し、それ以前については東山道武蔵路など直接関係のない話が書かれていて微妙にはぐらかされている感じです。先述の通り有力な交通路で沿道もかなり発達していたことは間違いないのですが。

 謎の二つ目は、「江戸時代以前の中山道はどこへ向かう道だったのか」ということです。江戸時代からの中山道は、浦和、蕨、戸田から荒川を渡って板橋、そこから上野や東京大学の赤門の前を通って起点の江戸・日本橋に着きます。

 江戸は徳川家康がやってくる前は、さびしい漁村に過ぎなかったとされています。しかし氷川神社のある大宮、調神社のある浦和、経済や交通の要衝として蕨城の置かれた蕨を通る道の終点がさびれた漁村のわけはありません。中山道がどこか別の場所に向かっていたのか、それとも江戸がさびれた漁村ではなく向かう価値のある場所だったのかのどちらかでしょう。

 今の東京都内では品川や浅草は古代・中世から港町として栄えていたことが分かっています。江戸(狭い意味での)も徳川家康以前に太田道灌が城を作っていたくらいですから、言われているような漁村ではなく、それなりに繁盛していた町だったのではないかと思います。

 徳川氏以前の江戸については、江戸を開発した徳川家康の偉大さを強調するため、不当にさびれた田舎ぶりが強調されている可能性があります。またなぜか昔から日本史業界では関西系の勢力が強く、西日本の先進性と東日本の後進性が強調されてきた感があるので、その影響もあるように思います。

 我々埼玉県南部の住民には日頃見慣れた中山道ですが、いろいろと考察すべき問題があります。

5/9 連休を振り返る

 連休が終わってしまいました。なんかあっという間でした。

 連休の間に与野ではあちこちでバラが咲きはじめました(写真左)。去年も書きましたが、与野は町中にバラが植えてあって本当にきれいです。

 さて連休中の私の行動を振り返ってみますと、お金もないので、自宅周辺を走るか、家で本を読むかで、大したことはしていません。

 それでもあえて書いてみますと、5月3日には上尾市民の憩いの場、丸山公園に行きました。自宅から往復約14kmと手ごろなランニングコースです。折からの行楽日和に多くの家族連れでにぎわっていました。

 私の目的は水生植物園だったのですが、何故か水が抜かれてただの草原になっていました(写真右上)。昔、我が家の子供が小さいころには、一面の菖蒲田で大変きれいだった記憶がありましたので、今年もきっときれいだろうと期待していたのですが…。もしかしてコロナウィルス対策で人が集まらないように、先回りして花をなくしてしまったのだとしたら、大変残念です(もちろん、ただの公園整備の一環かもしれませんが…)。

 仕方がないので、丸山公園の人気者、コツメカワウソ(写真中下)を見て帰ることにしました。しなやかな動きで走り回る様子に子供たちが歓声を上げていました。いや、なかなかかわいらしいものですね。

 その途中、丸山公園の近くで古い馬頭観音の石碑(写真中上)を見つけました。作られた年代は表面が剥落していて読み取れませんが、かなり古いもののようです。道標も兼ねていて、「北 あ(ぜよし?)、川田谷」「東 大(谷?)」、「西 か(わごえ?)」と彫ってあるようです。また願主「渋谷竹兵衛」とあるのも読み取れます。このご近所には今も何件か渋谷姓の御宅があるので、そのご先祖と思われます。こういうものを見て歩くのは楽しいですね。丹念に見て歩いて、一覧を作ってみてもいいかもしれません。

 5月4日には、与野高校吹奏楽部の定期演奏会に行きました。お客さんを入れて開催できるのは3年ぶりですよく練習した迷いのない元気のいい演奏でした。今年こそ、様々な教育活動が正常化できるといいのですが。

 

4/28 明日から連休

 明日から大型連休です。

 今日は久しぶりに気持ちよく晴れたので、お昼に与野公園まで行ったところ、もうバラの花が咲きはじめていました。与野公園のバラ園の見ごろは5月中頃から6月だと思いますが、真冬を除けばどの季節にも咲くバラがあり、一年中散策が楽しめます。本来1年で最も陽気のいい季節ですから、連休中ずっと好天ならいいなと思います。

 

 さて、そこで去年の今頃私は何をしていたのか、と思ったらこのブログで超大作「与野塚巡り」を書いていました。その後、特に研究もしていないので、昨年提起した「与野高校の周りに密集する塚は古墳かも」説の進展はありませんが、今日も与野公園の塚の痕跡とおぼしき砂場(下の写真)を見ていたら、ますます古墳群ぽく思えてきました。

 与野公園の砂場は写真の通り、いかにも墳丘の頂部を平らに削ったような形をしています。これがもし古墳で、これだけ頂部を削ったのなら、工事の際に石室や石棺などが現れたのではないかと思うのですが、どこかにそういった記録はないのでしょうか。

 行田のさきたま古墳群や千葉県風土記の丘の龍角寺古墳群でもそうですが、古墳群では狭い範囲にものすごい密度で古墳が作られることが珍しくありません。埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)で古墳とされている富士浅間塚、大国社、御嶽社の3つの墳丘に、与野公園内の富士塚、天祖社の墳丘、この砂場の塚の痕跡(?)を加えると、小規模ながらいかにも古墳群らしい景観となります。すごく気になります。

 

 

4/14 最近の気候でふと考えました。

 今日は朝から小雨が降り気温も低めですが、おとといや昨日は暑かったですね。4月に入ったころは花冷えでまだコートが必要な感じでしたが、たった10日ほどの間に上着を着ているのがつらいほどの陽気になりました。

 華道部のみなさんが差し入れてくれる生け花も、今週は早々とひまわりでした(これはおそらく温室で育てたものだと思いますが)

 

 ほんの半月の間にコートから一気に半袖になってしまうような状況に対し、私と同年代の人は「温暖化が進み、季節が冬と夏しかなくなってしまったようだ」と感じ、「何とかせねば」と考えると思います。

  私は温暖化の事実は否定しません。またそれを少しでも食い止めるために炭酸ガス排出量を削減しようという現在の温暖化対策も、やってみる価値はあると思います。しかし、これらによって気候が私が子供だった1970年代に戻るとも思いません。なぜなら現在われわれが経験している気候の変化が、二酸化炭素という一つの原因で説明でき、それさえ何とかすればよいという単純なものだとは到底思えないからです。

 現在、様々な科学的な証拠から過去10万年くらいの気候については変化の様子がおおよそわかっています。それによればこの10万年のうちには、現在より気温が高かった時期もぐっと冷え込んだ時期もあり、しかも寒暖の変化が極めて短い期間に起きたケースもあった事が分かっています。現在の我々が「普通の」気候と考えているものは、ついこの数世紀間の比較的安定した時期のものであり、過去10万年の中では、むしろ例外的なものです。

 地球の気候がそのように変化に富んだものだとすれば、現状維持のために温暖化防止に取り組むよりは、温暖化を避けられない変化として受け止め、それへの適応に努める方が有効なのではないか、と思います。世界各地の気温と降水量が変化すれば、農業に適した場所も変化するでしょうし、生物相も変化するでしょう。それに合わせてどうやって能率的に食料を生産し、世界中に不公平なく供給していくかを考えるべきだと思います。

 と、まあ最近の寒暖の変化で考えてしまったわけです。その際にふと思ったのですが、今の高校生は知識として地球温暖化の問題は知っていても、そのことを実感してはいないのではないでしょうか。なぜならば、彼らにとっては、生まれてからずっと今の様な気候だったからです。彼らの世代に任せれば、自分たちの環境に合わせた新しい生存の方法を考え出してくれるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

4/5 プチ史跡巡り8 第六天神社

 今、学校は春休みで、新学期に向けた準備をしているところです。

 今回のプチ史跡巡りは、ちょっと足を延ばして浦和の岸町にある第六天神社です。昨日、出張で浦和第一女子高校に出かけたので、そのついでに寄ってきました。浦和一女の近くで有名なのは調神社ですが、第六天神社は、調神社の北側の住宅地の中にひっそりと立つ小さな社です。

 境内の看板に書かれた縁起によれば、祭神は面足命(オモタルノミコト)と吾屋惶根命(アヤカシネノミコト)とされていますが、第六天とは、本来は仏教の他化自在天(第六天魔王)のことを言い、この神社も昔はそれを祀っていたと思われます。

 第六天魔王というと、ゲームや戦国時代が好きな人は、織田信長を思いだすかもしれません。仏教では世界は欲界・色界・無色界の三界に分かれ、各界の中もさらに細かく分かれた重層的な構造をしているとされます。第六天は欲界の最上層で、そこの王である他化自在天(第六天魔王)は仏教に敵対し。仏教の修行者の邪魔をする悪魔です。だから、比叡山や本願寺などの仏教勢力と激しく対立していた織田信長は自分を第六天魔王になぞらえていたといわれます。そんな悪魔がなぜ神として祀られるのかというと、他化自在天も他の多くの仏教の守護神と同じように、悪行を重ねた末に、釈迦に帰依し仏教の守護者に変化したといわれているからです。

 ウィキペディアによれば、第六天神社という名前の神社は、江戸時代には武蔵の国を中心に関東に数百社もあったとのことですが、現在は36社しかないそうです。これは以前にも書いたように、明治時代に廃仏毀釈・神仏分離(仏教を弾圧し神道を国教化する動き)が行われたときに、仏教や道教由来の神をまつる社は廃されたり、日本の神々に祭神を変更したりしたからです。岸町の第六天神社も、他化自在天の垂迹(日本における化身)とされるオモタルノミコトを祭神として存続を図ったのでしょう。

 境内の看板によれば、岸町の第六天社は古くから地元の守護神として親しまれていたそうです。また現在の社殿は昭和45(1970)年に地元の人々が整備したもので、その時に毎年のお祭りも復活させたと書いてあります。直接的には書いてありませんが、これは明治の廃仏毀釈で荒廃した第六天神社への信仰が、地元の人々に受け継がれ昭和の後半になってから復活したということでしょう。

 昭和45(1970)年を大昔と感じる人もいるかもしれませんが、1970年と言えば、ぞの前の年にアポロ11号で人類が初めて月に行き、大阪では科学技術の進歩を誇る万国博覧会が開かれていた時代です。そんな科学万能の時代に、地元の信仰を復活させた岸町の皆さんの心意気に感心します。

 

 

3/24 春本番、与野・圓乗院(プチ史跡巡り7)

 このところ寒い日が続いています。そのせいか、今年は桜の開花が少し遅いようですが、与野高校の桜は日当たりの良い側から咲き始めました。

 今週ついに「まん延防止」が解除されたので、今、2年生が念願の修学旅行に行っています。春の訪れとともにコロナウイルス関係の諸々が終息してほしいものです。さて、写真の下からは久しぶりに「プチ史跡巡り」です。

 春と言えば、与野高校のすぐ南側にある古刹圓乗院のしだれ桜の名木「千代桜」も、そろそろつぼみが開き始めているようです。圓乗院には、広大な境内に赤く塗られた立派な多宝塔や先述の桜の木などがあり、境内に入ると一瞬自分が与野にいることを忘れ、京都あたりにでも行ったような感じがします。(一見の価値がある御寺ですが、圓乗院さんは観光客に騒がしくされることを好まない真面目なお寺ですから、見学は控えめにしてください。)

 圓乗院は、山号寺号を安養山西念寺といい、鎌倉時代の建久年間 (1190-1199)に畠山重忠によって創建されたと伝えられています。畠山重忠は、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」にも登場(中川大志さんが演じています)する有名な武将です。ただし、この時は今の桜区道場(プラザウエストの近く)に立てられ、慶長年間(1596-1615、関ヶ原の合戦のころ)に、現在の位置に移転したそうです。ちなみに圓乗院が元々あった道場には同じ山号を持つ安養山金剛寺というお寺も残っています。

 これだけでも圓乗院は創建以来800年、移転してからでも400年の歴史がある由緒正しいお寺だということになりますが、「新編武蔵風土記稿」という古い本には、このお寺の起源について興味深い話が載っているそうです。

 それは、もともと道場には大きなお寺(大伽藍)が立っていたが、このお寺は保元の乱(1156年?)の際に焼けてしまった。建久年間に畠山重忠が、焼け跡から仏像を発掘し、それを祀る道場(仏道修行の場所)を立てたのが、今の安養山金剛寺で、道場という地名の由来である、という話です。これによれば、今の圓乗院につながるお寺の系譜はさらに平安時代以前にさかのぼることになり、道場にはその時代から、「大伽藍」と表現されるほどの大きな寺があったことになります。

 なぜ、この場所にそんな大きなお寺があったのか、ということを私なりに推理すると、それは古代の水運によるものだったのではないか、と思います。

 昔の河川の流路などが分かる「治水地形分類図更新版」という地図によれば、桜区道場の安養山金剛寺のある場所は、昔の鴨川の流路と入間川にはさまれた自然堤防の上になります。鴨川は今は桶川市内に源流を持つ小さい川ですが、昔は今の指扇駅の西側で入間川(荒川)から別れた大河でした。道場に「大伽藍」があったのは、この鴨川の水運を利用した物流があったからではないでしょうか。また金剛寺の場所から1km弱北方には、羽根倉街道も通っており、まさに交通の要地です。

 同じような立地で思い出すのが、桶川の川田谷にある泉福寺というお寺です。山号は東叡山、院号は勅願院といい、平安時代に天皇の命により、円仁(遣唐使の船で中国まで留学した名僧で天台宗の三代目座主)が開いたという、驚くべき由緒を持ったお寺です。このお寺は今でも仁王門などがあり、境内も広くてなかなか立派ですが、平安時代には天台宗の関東根本道場(中心)として無数の堂塔伽藍がある大寺院だったとのことです。

 このお寺も荒川を望む自然堤防の上にありますが、無数の堂塔に住んでいた多数の僧侶を支えた物資は川の水運を利用していたのではないでしょうか。先ほどの仁王門なども全て川に面して建っており、このお寺の正面が荒川を向いていたことを思わせます。

 古代には、現在われわれが都市を築いている関東の平野部は、河川が洪水を繰り返し芦原が生い茂る手の付けようがない荒地でした。人々の住む集落は丘陵と平野の境目や河川の自然堤防上に築かれ、交通には草木をかき分けながら進まねばならない陸上よりも、網の目のようになった川や沼の水上の方がはるかに便利でした。

 圓乗院は、元はそんな古代水運の要所に立てられ、そのあと大規模な河川改修と平地の開拓がはじまった近世になって、陸上交通の幹線である羽根倉街道の宿場の与野に移転したことになります。実に興味深い(って私だけ?)ですね。

 また、今回の話の本筋からは離れますが、圓乗院の前身にあたる大伽藍が保元の乱で焼け落ちた、というのも気になる話です。この保元の乱は、日本史の教科書に載っている後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱と同じものなのでしょうか。京都における保元の乱はほんの1週間くらいの出来事でしたが、関東にもそれが波及して戦いが行われたのでしょうか? 当時の情報伝達や政治経済のネットワークがどうなっていたのか、これも興味深いところです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3/18 あっという間の…

 激動の令和3年度が終わろうとしています。本当にあっという間でした。

 別に「激動」したかったわけではないのですが、コロナウィルスをはじめとする諸般の事情から何かと激動がちな1年間でした。(「激動がち」ってそんな日本語はないだろう、と自分で自分に突っ込みを入れておきますが。)

 先生方には様々な行事の中止や予定の変更に対応していただきましたし、生徒の皆さんも、夕方突然学校からメールで明日からの分散登校やオンラインの指示が来るといった出鱈目な状況によく耐えて頑張ってくれました。

 さすがのコロナウィルスも、もうそろそろ終息でしょう。来年度は平常への復帰と学校生活の立て直しが課題になってくると思います。というか、思いたいものです。

 

 

3/11 卒業式の奇跡

 今日は卒業式でした。(式辞はこちら令和3年度第67回卒業式式辞.pdf )

 本校の卒業式では、式歌として「旅立ちの日に」を歌います。

 ご存じの方も多いと思いますが、「旅立ちの日に」は、今から30年くらい前に秩父市立影森中学校で生まれ、今では埼玉県内だけでなく全国の学校の卒業式で歌われるようになりました。

 30年前は、ドラマ「金八先生」などでも取り上げられていたように、校内暴力に苦しむ中学校・高校が多い時代でした。そのような状況に心を痛めていた影森中の校長先生が、一晩で歌詞を書き上げ、音楽の先生が一日で作曲し、卒業式のサプライズとして披露したという奇跡の様な一曲です。

 作詞者の校長先生の世代を反映したのか、歌詞はちょっと1970年代のフォークソング風で、メロディーもちょっとアマチュアっぽくて、はっきり言ってベタな感じですが、逆にそれだけに影森中の先生方の生徒を思う気持ちがストレートに伝わってきて、私はいつもこの曲を聴くと、頭の芯がしびれるような気がします。

 さて、本日の与野高校の卒業式でもこの曲を合唱する予定だったのですが、コロナ禍のため歌唱はできないので、伴奏に合わせて各自が心の中で歌う、ということになりました。

 ピアノ伴奏がはじまり最初の数小節のあと、気のせいでしょうか、かすかにしめやかに歌声が流れてくるような…。マスクを外している人は一人もおらず、だれも歌唱していないのに…。卒業生みんなの心のエネルギーが空気を振動させたのかもしれません。

 卒業式の日にはそれくらいの奇跡が起きても不思議ではないと思います。(写真は、卒業祝いのうさぎ饅頭)

 

3/9 三年生を送る会

 今日は三年生を送る会でした。

 明後日11日の卒業式を控え、1・2年生が3年生を心を込めて送り出す会…だったのですが、コロナウィルス感染拡大防止のため、会場の体育館に入れるのは3年生と1・2年生の出演者だけとなりました。

 それでも、力のこもった演技や演奏で、3年生の皆さんにしっかり想いは伝わったのではないでしょうか。

 最初に新型コロナウィルスの発生が報じられたのは、2019年の12月でしたから、コロナウィルスをめぐる騒動ももう3年目に入りました。

 私のような中高年にとっては、2年や3年はあっという間に過ぎてしまいますが、成長過程にある高校生にとっては、非常に長く貴重な年月です。今度卒業を迎える3年生の皆さんに、昨年、一昨年と様々な学校行事を体験させてあげられなかったことは、いかにも残念ですが、卒業後は本校で学んだことを生かして、様々なことにチャレンジしてください。

 風はまだまだ冷たいですが、日の光は日々力強さを増してきました。華道部の皆さんが活けてくれた花も春っぽい感じです。春の訪れとともに、コロナの騒動が去ってくれるとよいのですが。

 

 

 

 

2/21 「前向き時計」を作ってみました。

 今週24日は、いよいよ埼玉県公立高校の入学者選抜です。本校をはじめとして各県公立高校へ出願した中学生の皆さん、試験を乗り切るために最も大切なのは体調管理です。また本校の3年生で国公立大学にチャレンジする人も、もうここまで来たらあとは体力勝負です。少しでも多く勉強したいと思っているかもしれませんが、栄養のあるものを食べて、睡眠をしっかりとるようにしてください。あとは前向き(ポジティブ)な気持ちです。

 さて、実は私、職員室の一角に破損した時計が放置されているのが、以前から気になっていました。文字盤が破れたところに、曲がった短針が引っかかって動かなくなっていますが、秒針はぴくぴく動いています。文字盤を交換して針の曲がりを直せば、まだ使えるのではないか? と思ったので思い切って修理をしてみました。

 まずは分解して、曲がっていた秒針、長針、短針を取り外してまっすぐにします。次に風化してボロボロになっていた文字盤は、ケント紙にカラープリンターで印刷したものと交換します。デザインとして、各時刻の所に前向きなニュアンスの英語のことわざや名言をあしらってみました。

12時 Leap before you look. 見る前に跳べ。

1時 Every Man is architect of his own future. 自分の未来は自分が決める。

2時 Who dares wins. 敢えて挑むものが勝利する。

3時 Keep your head up. うつむくな。顔を上げろ。

4時 What done is done. 過ぎたことを悔やむな。 

5時 Anything is possible. 何事も可能だ。 

6時 I can do it. 自分はやれる。

7時 It always seems impossible until it's done. どんなこともやってみれば大したことはない。

8時 Tomorrow's another day. 明日はうまくいく。

9時 Look on the bright side. 明るい面を見よう。 

10時 What there is will, there is a way. 意志ある所に道は開ける。 

11時 Nothing ventured nothing gained. 挑戦しなければ成果もない。(虎穴に入らずんば虎児を得ず) 

 そしてとどめに本校のマスコットキャラクター「ふみちゃんとたけるくん」が"Go ahead!" 「前へ!」と応援してくれます。いやがうえにもポジティブな気分が盛り上がる「前向き時計」の完成です。  

2/3 大野知事の本校訪問がありました

 昨日(2月2日)、大野埼玉県知事に本校へ御来校いただきました。

 県立高校における新型コロナウイルス感染予防対策とオンラインを活用した分散登校・授業についての視察ということで急遽決定したものです。

 本校では5時間目の授業の様子を中心にご覧になりました。理科のグループワーク形式の授業では、知事から図書館にいる生徒と自宅からオンラインで参加している生徒の両方にお声をかけていただきました。突然の知事の登場に生徒はびっくりしていたようですが、大いに励みになったと思います。ありがとうございました。

 本校では、まん延防止措置の一環として、先月末から分散登校と自宅に待機している生徒へのオンライン授業配信を始めています。これまでの授業は、教員と生徒が直接対面して行うのが原則でしたから、オンライン配信に関しては、まだまだ不慣れなところはあります。しかし、今回の待ったなしの状況の下、「まずはやっていこう」という試行錯誤の中から様々な工夫が生まれてきています。

 昔から「災い転じて福となす」ということわざもありますから、現在のコロナ禍の中で蓄えられたノウハウを、コロナ終息後にも活用できるよう熟成させていきたいと思います。

2/1 春を待つ

 暦の上ではもうすぐ立春(2月4日)です。

 校長室には華道部の皆さんが定期的に花を活けて届けてくれるのですが、先週は梅が届きました。ちょっとあるだけでも梅の花はとても良い匂いがします。この匂いをかぐともうすぐ春だな、と思います。

 現在、学校は、3年生が家庭研修に入り、1、2年生は、コロナウイルスの感染拡大防止のための分散登校とすっかり人気が少なくなっています。分散登校ではオンラインによる学習保障等にも努めていますが、生徒の皆さんにとってはつらい3学期となっていると思います。ですが、明けない夜も終わらない冬もありません。この苦境を乗り切ればきっと春がやってきます。頑張りましょう。

 

 

1/24 こんなところに与野発見(プチ史跡巡り6)

 この週末の土曜日、天気も良かったので上尾市平方の八枝神社に行きました。目的は疫病退散の札を頂戴することです。

 現在、オミクロン株とやらがすごい勢いで拡大し、県内の学校でも学級閉鎖や臨時休校をするところが出るなど、本校にもその脅威がひたひたと迫ってきています。

 平方の八枝神社は疫病退散に御利益があると言われる京都祇園の八坂神社(祇園さん)の流れをくむ神社ですから、ぜひ本校をコロナから守っていただこうとお札をいただいた(公費支出はできないので私費で)というわけです。

 さて、その八枝神社には、立派な一対の狛犬があるのですが、ふとその台座を見ると「與野町平心講」と彫ってあります。(與は与の旧漢字)「こんなところにも与野とのつながりが!」とちょっと驚きました。

  なぜ、ここに与野の人たちの奉献した狛犬があるのでしょう。

 今でこそ平方地区は上尾市のはずれの川っぷち(失礼)ですが、江戸時代には、荒川の水運と川越街道の交差する河岸場(川港)として大変栄えていました。八枝神社も、近隣はもとより今の東京都内にまで信者のいる祇園信仰の拠点でした。この祇園信仰の信者の団体が「平心講」です。

 このブログの第1回で、江戸時代に与野に住んでいた俳人・学者の鈴木荘丹が、桶川と与野を往復する途中に平方で亡くなったという話を書きました。江戸時代には与野ー平方ー桶川というルートは地方の主要な交通路で、与野と平方には強い結びつきがあったと思われます。その関係で八枝神社の平心講が与野にもあったのでしょう。それにしても大きさと言い、細工の見事さと言い、昔の与野の繁盛ぶりがしのばれます。

 平方から与野へ来て、そこから羽倉街道をさらに進むと、志木から所沢、東京へ入り清瀬、日野と抜けて甲州街道に合流します。このルート上の清瀬市上清戸には現在でも平心講があり、八枝神社から御神体を借り受けて祭りを行っているそうです。八枝神社は見かけはそんなに大きな神社ではありませんが、実は非常に大きな信仰圏をもった神社なのです。

 次に、そもそもなぜ八枝神社などの祇園系神社が疫病退散に御利益があるのかと言う話です。これについては5月14日のブログ「身辺雑記」でも少し触れました。八坂神社などの「祇園さん」は元々、仏教とともにインドからやってきた神様、牛頭天王と馬頭天王を祀っていた神社です。これまでに何度も出てきた本地垂迹説では、牛頭天王の日本での姿はスサノオノミコトとされます。で、スサノオノミコトについてこんな神話があります。

 昔、スサノオノミコトが「武塔神(むとうのかみ)」と名乗って諸国を旅した時のことです。ある村に巨旦将来(こたんしょうらい)と蘇民将来(そみんしょうらい)という兄弟がいましたが、武塔神がやってきて宿を借りようとした時に、金持ちの巨旦将来は断り、貧しい蘇民将来は精一杯もてなしました。怒った武塔神は、疫病を流行らせて巨旦将来の一族を全滅させましたが、蘇民将来の家族だけは武塔神が病気をよける方法を教えてくれたので助かりました。

 なんでスサノオはいちいち名前を変えるのかとか、ちょっとやりすぎだろうとか、突っ込みどころはたくさんありますが、そんなわけで牛頭天王(=スサノオ=武塔神)を祀る祇園系の神社は、疫病退散に御利益があるとされています。あと上の話から、「蘇民将来子孫也」とお札に書いて貼っておくと病気がよけて通るという信仰もあります。

 その後、明治時代の廃仏毀釈の影響で、京都の八坂神社は祭神を牛頭天王・馬頭天王から、垂迹神であるスサノオノミコトに変えました。上尾の八枝神社も主神をスサノオノミコトに変え、牛頭天王は「八狛大神」ということにしていますが、疫病退散の神様であることに変わりはありません。コロナウイルスが退散するように毎日、八狛大神にお祈り(個人的宗教行為として勤務時間外に)することにします。

 

 

 

1/17 世界は美しい

 おとといの大学共通試験の1日目に、高校2年生の少年が受験生を含む3人を刺すという事件が起きました。報道によれば、少年は東大の医学部を目指していたが、成績が落ち込んで悩んでいたとのことです。

 会ったこともない少年についてとやかく言うのは好ましくないですが、この少年は、東大医学部に入れなければ、自分の人生は終わりだから、他人を巻き込んで自滅してやろうとでも考えていたのでしょうか。

 そうだとしたらとても残念です。先日も始業式で生徒の皆さんには話しましたが、人生をハードル競争にたとえれば、大学入試などはまだ1台目か2台目のハードルです。けつまずいても、ぶっ倒してもまだ先があります。 

 この少年も、医者になりたいのであれば(東大医学部の肩書が欲しいのならばダメですが)、東大以外にも医学部はありますし、東大出身ではない名医もたくさんいます。誰かがそういう風に教えれ上げればよかったのにと思います。

 さて、先週の金曜日に新聞のテレビ欄を見ていたらアニメの「平家物語」というのが載っていました。「今時アニメで平家物語かあ」と思って見てみたら、これがなかなかよさそうです。わざと平面的なタッチにした独特の絵柄と繊細な心理描写で傑作になりそうな予感がします。

 で、そのオープニング主題歌の「光るとき」(羊文学)と言う曲が、またいい曲です。さびの部分で繰り返される「何回でも言うよ、世界は美しいよ。君がそれをあきらめないからだよ」というフレーズが素晴らしいと思います。

 私たちの毎日は楽しいことばかりではありません。むしろつらいことの方が多いかもしれません。しかし、あきらめずに生きていれば、たまにうれしかったり感動することにも出会えます。

 たとえば1年くらい前、私が「朝から肩こりがひどいなぁー」とか思いながら家をでると、空に下の写真のような雲が浮かんでいました。

 これを見たからといって、特別に幸せを感じたり、震えるほど感動したわけではありませんが、なにか不思議な光景だと思いませんか? こういうものを見るとちょっとだけ1日が楽しくなります。

 我々が心を柔らかくして見過ごさないようにしていれば、世界は(ちょっとだけ)美しいものや(少しだけ)不思議なものを見せてくれるのだと思います。

1/13 今週末は共通テストです。

 寒い日が続きますが、冬至から半月余りたち日がだいぶ伸びてきました。

 この間まで退勤時刻にはもう真っ暗でしたが、与野本町の駅から夕焼けをバックに富士山のシルエットがきれいに見えるようになりました。

 

 さて、この週末はいよいよ大学共通試験です。本校からもたくさんの生徒がチャレンジします。

 私が高校生だった太古には共通一次試験という名前でしたが、そのころからなぜかこの試験の日には雪が降ったり、大寒波が来たりすることが多い気がします。今年はいい天気になりそうで何よりです。

 政策批判をしていると思われるのは嫌なのですが、今年はコロナウイルスへの対応で様々な報道が流れ、受験生の皆さんは不安に思っているのではないでしょうか。

 しかし、いずれにせよ試験は試験です。自分が頑張って自分の最高の実力が出せればよいのですから、体調管理を万全に思い切って受験してください。本校生だけでなく、全受験生がベストを出せるように祈ります。

1/7 第3学期始業式

 今日は3学期の始業式でした。

 新学期早々の降雪には驚きましたが、今朝は澄み切った青空と雪の白さのコントラストが美しい朝になりました。

 

 始業式では、経団連の十倉会長のお話を引いて今年は様々なことに科学的な態度で臨む年にしたいという話をしました。

 いよいよ3学期、生徒の皆さんは1年間の締めくくりです。それぞれの目標に気を引き締めて取り組んで下さい。

1/4 年の初めは初詣(プチ史跡巡り5)

 明けましておめでとうございます。

 私は元旦には毎年上尾駅近くの氷川鍬(ひかわくわ)神社へ詣でています。以前は元旦の朝には社殿から鳥居を越えて中山道の方まで参拝者の列が続いていたものでしたが、今年もコロナの影響か列がだいぶ短めでした。

 

 この神社は大宮の氷川神社の末社の一つですが、何故か社名に「鍬(くわ)」の字が入っています。

 以前上尾市広報に載っていた記事によれば、この神社は明治時代までは「御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)」という神社でした。江戸時代の初めの寛永9(1632)年のある日、北の桶川の方から二人の童子が櫃(木の箱)を引っ張り、歌い踊りながらやってきて、上尾の宿場の真ん中に櫃を残して消える、という不思議な事件がありました。人々が櫃を開けてみると2本の鍬が入っていたので、上尾の本陣を務める林家がそれを御神体として社を立てた、というのが創建の由来です。

 こうしてみるとこの神社の本来の祭神は「鍬太神」と呼ばれる系譜不明の神様で、17世紀前半創建と比較的新しい神社ということになります。17世紀という近世にも、こういった怪異現象が信じられ、新たな神が生まれたというのは、非常に興味深いことです。

 しかし、明治時代に政府による神社の統合政策が行われると、系譜のはっきりしない神様を祀る神社は格付けが低くなるため、上尾では御鍬太神宮に二ツ宮にあった氷川女体社を移転・合祀して氷川鍬神社と改名し、村社の格付が得られるようにしました。その際、祭神も稲田姫命(いなだひめのみこと)、豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)等となりました。稲田姫はスサノオの妻、オオクニヌシの母とされる神で、どこの氷川神社にも祀られています。豊鍬入姫は崇神天皇の皇女ですが、これは「鍬」の字つながりで、鍬太神を古事記・日本書紀に登場する神々の系譜に結び付けようとしたものでしょうか?

 かつては他の地域にも上尾の「鍬太神」と同じような、ローカルな神様が沢山いました。地域の神社は大らかで何でもありの豊かな信仰心に支えられたものだったのですが、明治政府の神社統合により神様の世界にも官僚的な組織と階級制度が持ち込まれ、ローカルな神様たちのほとんどが消えました。

 この上尾の氷川鍬神社は、かつてのローカルな神様の名残をとどめている貴重な神社です。また境内に菅原道真公(すがわらのみちざね)を祀る天神様、浅間大神(=木花開耶姫命(このはなのさくやびめ))を祀る富士塚(写真上)、孔子や朱子を祀った二賢堂跡の碑、太子信仰を物語る聖徳太子像の碑があるなど、神道、儒教、仏教が入り乱れた面白い場所でもあります。昔の日本人の自由な信仰心を見ることが出来る素晴らしい史跡です。

 

 

 

12/28 今日は「御用納め」

 今日は「御用納め」です。明日から1月3日まで公立学校も含む官公庁は原則閉庁となります。

 私が子供のころの昭和40年代には、民間企業や商店などもそれに合わせるようにお休みでした。デパートなども元日は休みで2日に初売りで福袋を売り、3日はまた休みだったと思います。警察や消防、報道関係など休むわけにはいかない人たちを除けば、ほとんどの人は正月はゆっくり休んでいました。食料品店も飲食店も閉まっていたので、家でおせち料理や御餅(飽きたらカレー)を食べていたわけです。

 その前後の12月28日や1月4日も旧年の後片付けや新年の準備で、本格的な仕事の日と言う感じではなかったと思います。平成の初めころまでは御用納めの日には、午前中に仕事の整理や机の片付けをして、お昼にお寿司などを取って午後は納め会をする、という光景が見られました。また1月4日の仕事始めには、銀行などで女性社員が着物姿で出社する習慣も残っていました。

 それが昭和50年代頃から年中無休のコンビニエンスストアが増えてくると、デパートやスーパーマーケットも元日から営業するようになりました。また勤務時間内に納め会などとんでもないということになり、お昼に寿司を取るような職場もなくなっていきました。今は正月と言ってもほとんど私たちの日常は変化がありません。

 便利で合理的になったと言えばその通りですが、正月にも働かなくてはならない人が増えたため、ゆっくり家族・親戚や友人と顔を合わせることも難しくなりました。私が思うに、不合理かつ非能率にみんなが正月にのんびりしていた時代の方が日本は元気でした。コンビニやインターネットの普及など世の中が便利に効率的になるにつれ、逆に元気がなくなって経済もしょぼくれてきたような気がします。

 来年は、少しは元気が出るような年になるといいですね。

 

 

 

 

 

 

12/24 2学期も終わり+「クリスマス考」

 先ほど2学期の終業式も終わり、本校も明日から冬休みです。

 終業式では、以前11月12日のこの欄でも書いた南アフリカの元大統領デクラークについて話をしました。

 アパルトヘイト(南アフリカの人種差別制度)撤廃というと、日本ではネルソン・マンデラの功績になっています。現実に反対を押し切り改革を進めたデクラークの名前はほとんど語られることがありません。こういう人が実際には世の中を動かしているのだということを生徒諸君に知ってほしくて、今日はちょっと長めの話をしました。

令和3年度第2学期終業式.pdf

 さて、今日はクリスマスイブです。毎年この時期になると「日本人の大半はキリスト教徒ではないのにクリスマスを祝うのはおかしい」と、したり顔で言う人がいます。無節操ぶりが欧米人に対して恥ずかしいという拝外主義(欧米をありがたがる立場)から言われることもありますし、西洋の宗教行事をするなという排外主義(外国の文物を拒否する立場)から言われることもあります。(どちらもハイガイシュギですが…)

 私に言わせれば、こういう主張こそ日本の伝統を知らない蒙昧なものです。日本は古来より八百万の神々が集う国です。これまでも海外から渡来した多くの神々を受け入れてきました。以前に紹介した大国社のオオクニヌシなども、大国(オオクニ=ダイコク)ということから大黒天(マハーカーラーというインドの破壊と創造の神)と一体化していますし、北海道の札幌藻岩神社では、日本にスキーを紹介したレルヒと札幌冬季オリンピックでお世話になったブランデージという外国人(しかも近現代の実在の人)が神として祀られていたりします。

 ようするに人々が敬意や畏怖を抱かざるを得ないような現象や人物は、すべて神になるのが日本の伝統です。その点からいえば、多くの日本人が親しみや敬意を持っているイエスはもはや日本の神の一柱と言ってよく、その生誕を祝うクリスマスは神道の祭りであると言っても過言ではありません。(そう考えれば、教会で結婚式を挙げるのもオーケー、ということになりますね。)

 というわけで、今日、明日は日本の祭りとしてのクリスマスを大いに祝いたいと思います。

 年末・年始はめちゃくちゃに寒そうですので、みなさま健康に気を付けて新年をお迎えください。

 

12/22 冬の与野公園

 今日は、地学の授業の巡検にくっついて学校の隣の与野公園に行ってきました。

 このブログでも紹介してきましたが、与野公園は近代的都市公園としては日本でも有数に古い歴史をもつ公園で、冬もなかなかいい感じです。有名なバラ園には、冬でも咲くバラがちらほらとみられますし、そんなに大きな池ではありませんが、池には水鳥が渡ってきて羽を休めています。

 

 公園内には天祖神社、弁天社、富士塚などの史跡も多く、生徒たちといっしょにまったりとした時間を過ごさせてもらいました。

 

12/15 ゆとりが大切

 本校では今日が2学期の期末試験の最終日です。

 期末試験が終われば、もう年の瀬です。なんとなく街もあわただしくなってきます。

 先日、本校の生徒が駅で迷っていた御高齢の方を助けたとかで、感謝の電話をいただきました。人のことを思いやる心のゆとりをもった生徒がいたということは、大変すばらしく私まで誇らしい気持ちになりました。

 「ゆとり」と言えば最近、街にゆとりのない人が増えたような気がします。

 今年もコロナの影響で忘年会などがほぼ全滅しているので、あまり雑踏の中に出かける機会はありませんが、私は近年、年を取ったせいか人混みが苦手になりました。大宮や浦和くらいならいいのですが、新宿や渋谷などの人の多さにはついていけない感じです。

 私が人混みが苦手な理由の一つとして、首都圏には他の人と進行方向が交差した時に、加速して人の前方を横切ろうとする人が多いから、ということがあります。相手に進路を譲ったら負けだとでも思っているのでしょうか。互いに相手の頭を押さえて自分が先に通ろうとすれば、衝突しそうになるのは当たり前で、これでは反応速度の遅い高齢者(私もそろそろ仲間入りです)などは街を歩くのがとても難しくなります。

 以前、名古屋に行ったことがありますが、名古屋では進路が交差しそうな時には、速度を落とし相手の後方に回避しようとする人が多いので街を歩くのがとても楽でした。いい町だと思いました。

 こうしたちょっとしたゆとりの気持ちがあれば、世の中はずっと暮らしよくなると思うのですが、

 

 

 

12/9 「ここは路地?」(プチ史跡巡り4)

 今回は「プチ」というのもはばかられるほど小規模かつ史跡と言えるのかどうかさえあやふや、というなんだかよくわからない内容です。

 本校から本町通りを渡った東側のとある一角、2軒の民家の間にちょっと隙間のあいている場所があります。覗き込んでみると、両側に塀があり北側と南側のどちらの御宅の地所でもなさそうな細いスペースが東西方向に続いています。一本西側の通りに回ってみると、そちら側にも隙間があって、この細いスペースは現在の街区の1ブロック分を貫通していることが分かります。

 道のようなそうでないような…。ここは通ってもいい場所なのだろうか?と悩みますが、あまりにも狭くて両側の御宅との距離がないので、子どもならともかく大人は入り込むのがためらわれます。

 さて、ここで推測なのですが、このスペースは昔の路地の跡なのではないでしょうか。

 昔の与野の町は、本町通りに沿って両側に家が立ち並ぶ典型的な宿場町でした。家々の敷地は南北の間口は狭く東西の奥行きが深い形に統一されていました。各家が東西で道に面していたので、住人にとっては東西方向に道を通す必要があまりありません。(下の図のイメージ)現在もその地割が良く残っていて、今でも与野高校付近から駅の方へ抜ける道は数が少なくなっています。

 

 とはいえ、それぞれの家の住人ではない人は、よその家の中を通り抜けるわけにはいかないので、ところどころに東西方向の抜け道は欲しいところです。上のスペースはおそらくそんな形で設けられた路地の跡なのではないかと思います(上の図の路地と書かれたところ)。

 今の感覚で行くとすごく狭いのですが、昔は自動車もバイクもなく、人一人通り抜けられれば良かったので、この幅で十分だったはずです。こういうスペースは、与野以外にも中山道の宿場町だった浦和、上尾、桶川などでは、ところどころに残っています。大宮も中山道の宿場ですが、開発が進みすぎてあまり昔の面影がありません…。(下の写真は浦和にあるそれっぽいスペースです。)

 

 なんとか資料で確かめたいところですが、これだけ狭い道だといつもの明治迅速図にも載っていません。昔の与野の宿場の絵図でもあれば確かめられるかもしれません。

 

 

 

12/6 年末雑感

 早いものでもう12月です。

 校庭のイチョウの木が黄色一色でとてもきれいです。華道部の皆さんが校長室に飾ってくれる生け花もクリスマス風です。

 

 生徒の皆さんは、今週の金曜日から期末試験です。試験が終わればもうすぐクリスマスやお正月ですから、頑張りましょう。

 それに私は思うのですが、期末試験って、それ自体がとても楽しくないですか? 私は高校生の頃、定期考査とか大学入試とかはとても楽しかった記憶があります。なぜなら学校のテストなどは正解はあるしルールははっきりしているし、こんなやさしいゲームはないからです。

 世の中で経験する多くの問題は、何が正解なのかどういうルールで行われているのかもよくわからないことが多いものです。また、自分がどういう状況に置かれているかわからないことさえあります。たとえば会社員になったとして、契約件数や売上金額などの数値はわかっても、最も大切な「自分が周囲にどう思われているか」という評判はなかなかわかりません。恋愛やら友達付き合いやらは、どこがツボなのか地雷なのか、さらに不可解だと思います。

 私も高校生の頃は特に社会経験などはなく、人生にそんなに悩んでいたわけでもありませんでしたが、学校のテストや大学入試などは、点数が取れるにしろ取れないにしろ、自分が努力しただけの成果がきちんと出るシンプルで公正なゲームである点が気に入っていました。

 生徒の皆さんは、今度の期末試験も大いに楽しんでください。