校長室ブログ

徒然なる毎日

5/16 もうすぐ中間考査 & プチ史跡巡り(21) お稲荷さん(?)振興計画

 早いもので、もう来週後半は中間考査です。

 本校では教養を深め、読書習慣を身に付けるため、毎朝「朝読書」を行っています。私は「朝読書」などで読んでもらおうと、生徒向けにお勧めの本を紹介するメールマガジンを不定期に配信しているのですが、試験前1週間と試験中は勉強の邪魔にならないよう配信を休止しています。今年度は、配信のスタートが遅れたのでまだ1号しか出していないのですが、またしばらく配信はお休みです。休み明けからペースを上げて配信できるよう、休止期間中に少し書き溜めておこうかと思います。

 さて、プチ史跡21は、大宮駅東口の一角にひっそりとたたずむお稲荷さん(たぶん)です。

 

 

 大宮駅の東口にでると駅前広場から道を渡った先に「すずらん通り」というアーケードがあります。駅の側からアーケードに入り左側を見ていくと建物と建物の間に挟まった狭い路地があり、その奥に鳥居と祠が見えます。

 額などはなく祠の中もよく見えないので、御祭神が何かはよくわかりませんが、このような繁華街の真ん中にある小さなお社はおそらく商売繁盛の神さまのお稲荷さん、あるいは火伏せの神様の秋葉さまだと思います。

 草が伸び放題というわけではなく周囲も比較的きれいに片付けられているので、完全に忘れ去られているのではなさそうです。しかし傾いたまま放置された鳥居などをみると、さほど信心されているようでもなく、何か微妙な感じです。祠の正面に置かれた石の水盤を見ると大正10(1921)年に寄贈されているので、このお社は少なくとも100年以上前からお祀りされているわけです。それがこんなさびれた状態なのはちょっと寂しいですね。いかにも地権が入り組んでいそうな場所ですが、放置しておくには惜しいと思います。鳥居をきちんと立て直し、社を生垣で囲み、パワースポット的な由来(なければ創作しても良し)を書いた看板や「開運」とか「縁結び」とかの御利益を書いたのぼりを路地の入り口に立てれば、立地も良いので、東口の新名所になって繁盛するのではないかと思うのですが。関係者の方はぜひご一考ください。

 

 

 

5/8 もう5月&プチ史跡めぐり(20)吉野町の富士塚

 ほぼ1か月半ぶりの更新です。

 私事ながら4月にちょっと入院・手術・リハビリなどということをしていたので、ブログ更新まで手が回りませんでした。その辺もようやく落ち着いてきましたので、ぼちぼち更新を再開します。

 更新が途切れている間に入学式がありました。昨年度末の卒業生は、高校生活がコロナ一色だった「コロナ世代」でしたが、今年の入学生はコロナ騒動が明けた後の「ポスト・コロナ世代」として、伸び伸びと高校生活を送ってほしいものです。

 毎年のことですが、本校のある与野はバラの町です。今年も初夏を迎えてバラの花が咲いてきました。写真は本町小学校の土手に生えている野良っぽいバラです。

 

 バラというと普通は八重咲で花弁がきれいに巻いた(高島屋のマークのような)ものを思い浮かべますが、このバラはわりと原種っぽくていい感じです。

 さて、今回のプチ史跡巡りは、病み上がりなので無理はせず手近なところ、ということで、さいたま市北区吉野町のつつじが丘公園内にある富士塚です。

 与野公園の富士塚に比べると墳丘も低く形もあまり富士山っぽくありませんが、頂上には立派な「浅間大神」の石碑があります。

 

 この石碑の裏面を見ると、建立は明治18年となっており、建立の代表者として講長清水某の名前が刻んであります。現在でもこの地域には清水さんという御宅が多いので、いずれかのお家のご先祖なのでしょう。

 頂上へ続く短い参道には、様々な石碑が立てられています。17世紀の富士講の指導者食行(じきぎょう)や、明治初期に富士講の諸派をまとめ扶桑教を起こした宍野半(ししのなかば)を祀った石碑、神奈川の大山阿夫利神社や富士山の鈴原神社から勧請したらしい「阿夫利」「鈴原神」と書いてある石碑、「亀」とあるのは八大竜王を祀った亀岩と思われます。また崩し字なので(私には)よく読めないのですが、おそらく「御座石浅間」と書かれた碑もあります。富士塚にありそうなものは皆、揃っているなかなか素晴らしい富士塚です。

 以前にも書いたように、本校のある与野周辺には富士塚や御嶽塚が沢山ありますし、私がいつもふらついているさいたま市北部から上尾市にかけても非常にたくさんの富士塚があります。他にも埼玉県では志木市や川口市にも有名な富士塚があります。このあたりの江戸時代~明治時代にかけての庶民の山岳信仰熱には、ちょっと現代の想像を超えるものがあったようです。

 

3/13 卒業式が行われました

 1か月ぶりの更新となりましたが、先週の金曜日3月10日に、第68回卒業式を挙行いたしました。

 脱コロナの動きが加速する中、3年ぶりに国家や校歌の斉唱も行われ、卒業生は原則マスクなしの卒業式となりました。しかし3年以上にわたり毎日マスクを着け続けていたため、急にはずすことには抵抗感があるのか、実際にマスクを外して参列した生徒は半分ほどだったような気がします。

 思えば、今年度卒業の諸君は、入学式そのものもコロナ対策のために6月にずれ込み、その後も様々な行事が中止や延期になるなど、高校生活全般にコロナウイルスの影響を受け続けた学年でした。その苦難に耐え、卒業を迎えた諸君には、心からおめでとう言わせてもらいます。

 卒業式の式辞では、卒業生諸君に、「luck favours the daring (幸運は勇気ある者に訪れる)」という言葉を贈りました(下のリンクから式辞本文が読めます)。残念ながら現在の世界は、決して平和で安定した世界ではありません。しかし若い世代の活躍が今後の世界を作り出していくという気概をもっと進んでいってほしいと思います。

第68回卒業式 式次.pdf

 

2/9 春近し & プチ史跡巡り(19)謎の機械

 立春を過ぎ、今週は少し寒さが和らいできました。

 いつも校長室に華道部の皆さんが届けてくれるお花も、今週はいかにも春っぽいチューリップとゼンマイ(?)でした。まっすぐ突き抜けるように伸びるゼンマイの若芽がとても力強くていいですね。

 

 学校の方では先日、学校評議員会・学校評価懇話会がありました。懇話会の席上、生徒代表の生徒会役員の皆さんから、生徒目線での沢山の意見がありました。すぐには実現が難しいこともありますが、取り入れるべきは取り入れ、より良い学校づくりに生かしていきたいと思います。

 さて今回の「プチ史跡巡り」は史跡というよりは「遺物」という感じです。

 先日、身内の法事で出かけた県内某所のお寺の裏手で、謎の機械の残骸を見つけました。

 

 赤さびだらけですが、複雑に組み合わさった歯車に機械らしい魅力を感じます。片方の端にあるラッパ状の部品とそこに何かを流し込むガイドカバーのような部品の形状から想像するに、何かをすりつぶしたり混ぜ合わせたりする機械のようですが、本体真ん中の辺りに木製の風車のような物がついているのが謎です。もしかすると「籾摺り機」かと思うのですが、だとするとラッパ状の部分が小さくてあまり能率がよさそうではありません。どこかに銘板でも残ってないかと思いましたが、それも見当たりません。これが一体何か、すごく気になります。どなたかわかる方がいたら、教えてください。

 

 この機械もかつては農村でありふれたものだったのかもしれません。しかし、こういう何気ないものにまつわる記憶というのは失われやすいものです。

 たとえば、商店街にあったお店が取り壊され別のものに建て替わったとします。半年もすると長年、見慣れた景色だったはずなのに、元は何があったのかというのは意外と思い出せなくなってしまいます。

 とはいえ、古い家は壊さなければボロ屋ばっかりになってしまいますし、古いものを捨てなかったら家の中はガラクタだらけになってしまうので、古いものが新しいものに入れ替わっていくのはやむを得ません。

 しかし、今我々が当たり前だと思っている生活もいつか歴史の一部になります。見慣れた何気ないものやことこそ、意識して記録や記憶を残しておくべきだろうと思います。

1/27 プチ史跡巡り(18)さざれ石とか

 県外シリーズ第2弾といっても前回と同じく東京は虎ノ門界隈ですが…。

 今回は日本の教育行政の総本山、文部科学省に潜入しました。地下鉄銀座線を虎ノ門駅でおりると、地下道を通って文部科学省のすぐ前に出る出口があります。そこを出て直進し突き当りを右に曲がると、中庭のようになっているところがあり、そこに「さざれ石」があります。

 

 国歌「君が代」の歌詞で「~さざれ石の巌となりて~」と歌われているアレです。さざれ石とは、元々は細かく砕けた石の事ですが、文科省の前の「さざれ石」は、細かい石が、石の間に炭酸カルシウムなどが入り込むことで固まった石灰質角礫岩という堆積岩の一種です。ただ写真でもわかる通り、まだ岩石としての強固さはない感じです。「君が代」の歌詞のとおりに、細かい石が地中に堆積して強固な巌に成長する過程なわけですね。

 この文部科学省前の「さざれ石」は、さざれ石の産地として有名な岐阜県揖斐市産のものであると説明板に書いてありますが、いつ頃、何のためにここに置かれたのかは書いてありません。私としては、むしろそこが知りたいのですが。

 このさざれ石のすぐ近くに、溝の中に降りていく階段があります。階段を下りた溝の側面が、江戸城外堀の石垣の遺構です。石を切り出したノミの跡や、普請を担当した大名家のマークなどを見ることが出来ます。

 

 旧江戸城は明治維新の後、急速に荒廃し(幕末から財政難のため荒れていたという説もありますが)、建物もあらかた取り壊されていまいました。もったいないことをしたものだと思います。われわれは姫路城、熊本城などを見て城郭建築の壮麗さに感動していますが、明治初年に撮られた写真や現存する図面などによると、明治以前の江戸城は、それらとは比べ物にならない広大なものでした。タイムマシンがあったらぜひ見に行きたいですね。

 この2つの史跡は表通りからはちょっと奥まったところにあり、入っていくのがためらわれる感じですが、特に許可などもらわなくても見学できますので、虎ノ門の辺りに御用のある方はついでに寄ってみてはいかがでしょうか。