徒然なる毎日
5/7 連休の谷間にて
大型連休と思っていた今年のゴールデンウィークも、残すところ明日、明後日のみとなりました。子供のころから次の休みを指折り数えて待っていたお休み好きの私としては、断腸の思いです。
私のここまでの連休の過ごし方を振り返ってみると、前半は日曜大工、後半は読書や庭掃除と、中間の5月3日に本校吹奏楽部の定期演奏会を聴きに行ったほかは、あまり外出もせずに過ごしました。
吹奏楽部の定期演奏会も、通常であればこのページなどでも盛大に告知し、なるべく多くの方に来てもらうところなのですが、今年はコロナのご時世ですので、観客は部員のご家族と教職員だけという、内覧会のような感じで行いました。多くのお客さんに聞いていただけなかったのは、ちょっと残念でしたが、しっかり練習を積んだいい演奏でした。
それにしても、コロナウイルスの流行も2年目に入りました。もしもう1年今のような状況が続くと、高校にとっては大変な危機になります。現在の3年生は、1年生の時は「コロナ以前」でしたが、いよいよ自分たちが部活や行事の主役になるというときにコロナの流行が始まってしまいました。2年生は1年生の時にまともに部活等が出来ていませんし、1年生は中学校で同じような状況でした。1年後に現3年生が卒業してしまうと、高校には高校の部活や行事をきちんと経験したことのある生徒がいなくなります。様々な伝統や校風、各校独自の文化などの継承が危ぶまれます。1日も早く流行が終息してほしいものです。
4/30 与野「塚巡り」の4(道と史跡7)
さすがに塚巡りは4回で終わりにします。前回、与野高校周辺に密集する塚は「古墳群かも」という説を書きました。この説ははっきり言って全然定説ではありませんが、私自身はそれなりに根拠はあると思っています。
根拠のひとつ目は分布の様子です。下の地図は、明治10年代後半に陸軍が作成した「迅速測図」の一部です。(画像は埼玉大学の先生が運営する「今昔マップ」というサイトからいただいてきました。)
この地図上で塚の分布をみてみます。
まず、今の街並みとの関係をつかんでいただきたいのですが、地図の右の方の建物が立ち並んでいる通りが、今の本町通りです。地図の右下の方に、右から左へ「圓(円)乗院」と書いてあるのが見えます。
円乗院の左上に鳥居の絵と「天神」とあるのが天祖神社ですが、周囲のケバケバで地面の盛り上がりを表しています。その左にも盛り上がりの描写が二つあり、この3つの盛り上がりを囲むように水を表す水色の線があるのがわかります。これは天祖神社の塚が主墳、横の二つが陪墳でそれを濠で囲んでいるのではと思わせる配置です。
この3つの塚と道を隔てた北(上)にも鳥居があり「御嶽」と書いてあるのが御嶽塚、その左の地図のほぼ中央にある鳥居が大国社塚です。そして地図の左上角ぎりぎりに見える鳥居が浅間神社塚です。
こういった密集は行田の「さきたま古墳群」でも見られますし、そのほか全国の古墳群でもよくあります。いかにも古墳群っぽい感じがします。
二つ目として、これらの塚が、浅間神社、大黒社、天祖社、御岳神社などとして地域の尊崇を集めていた場所であることです。神社や寺が古墳の上や隣に立てられている例は、あちこちにあります。古墳に誰を祀っているのかは忘れ去られても、「何か祀らなくてはならない場所」であるという意識が継承されてきた可能性があります。
三つ目は地形的な観点です。下の左側の地図で濃い水色の蛇行して描かれているのが、戦国時代ころまでの鴨川(旧入間川)の流路です。地図中の赤い四角で囲ったところが上の明治迅速図と大体同じ範囲で、右の地図はそこだけ拡大したものです。
薄水色の部分は昔、水田や湖沼だったところですが、この図で見ると、濃い青の部分よりさらに古い時代に川が蛇行していた跡やそこに流れ込む小河川が削った谷のように見えます。
拡大した右の図で見ると今の御嶽神社のところと、与野公園の3つの塚の間に細い入り江があり、大国社と間にも細い入り江が入り込んでいます。こういった河川や湖沼を見下ろす高台には、遺跡や古墳がよく見られます。実際に濃い水色の鴨川旧河道沿いの段丘上(左の地図で黄色く塗られているところ)には、側ケ谷戸古墳群、白鍬古墳群、大久保古墳群などが分布しています。このような地形面からも本校周辺に古墳群があっても不思議ではない気がします。
そして、もしこれが古墳群なら、山岳信仰が盛んだから塚をたくさん作ったのではなく、古くから古墳がたくさんあったから、それを近世の山岳信仰の信者が富士塚や御嶽塚として再利用した、という説も成り立つわけです。
勝手に推測ばかりしていても仕方がないので、この点について、これまでの調査や研究はどうなっていたのかを、少し当たってみました。さいたま市への合併の前に当時の与野市教育委員会が出版した「与野の歴史」(1988年)では「与野市域内に墳丘を持つ古墳は、現在のところ一基も発見されていません」と書いてあります。一方、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)では、浅間神社富士塚、大国社塚、御嶽塚については「古墳」であるとされていますが、出土品は「なし」となっています。
とはいえ、古墳と近世になってから作られた塚の区別は外側からでは困難です。「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」が出土物がないのに、なぜ3つの塚を古墳と判断したのかはよくわかりません。これをはっきりさせるためには、発掘調査や超音波等による地底探査などをしてみるしかありません。もし古墳であれば、副葬品や埴輪の破片等が出土したり、地下に埋葬施設(石室や石棺など)が見つかると思います。さすがに学校のシャベルを借りて勝手に掘るわけにはいきませんので、だれかきちんとした学術調査をしてほしいなと思います。
4/30 与野「塚巡り」の3(道と史跡6)
「塚巡り」で一体、何回引っ張るんだと自分で自分に突っ込みを入れているところですが、まだ書き足りないことがたくさんあるので続きです。
取り合えず、塚の紹介そのものは、次の「御嶽塚」で終わりです。
与野公園の北側、公園と与野高校に挟まれた一角に「御嶽神社」があります。写真中央に参道が伸びていますが、石燈籠の向こうから階段になり、その上に社があります。この社が立っているのが「御嶽塚」です。
「御嶽神社」という神社も各地にたくさんあり「みたけ」と読ませるところと「おんたけ」と読ませるところがあります。「みたけ」の場合は、蔵王権現(金峰山)を「おんたけ」の場合は、木曾の御嶽山(おんたけさん)を祭っているようです。ここの神社は「おんたけ」の方ですが、塚を登る階段の両側に黒くて穴だらけの溶岩がおいてあるなど、火山信仰・山岳信仰の雰囲気が満点です。
さて、それにしてもなぜ、与野高校の周りにはこんなに塚が多いのでしょうか。下の地図が第1回からのルートです。
①が浅間神社富士塚、②が大国社塚、③が与野公園(富士塚、塚の痕跡、天祖神社)、④が御嶽塚です。直径400mくらいのきわめて狭い範囲に塚が密集していることがわかります。
説明の「その一」としては、与野は江戸時代に山岳信仰が大変盛んだったから、というものです。上の地図の中の赤い③印の上に一山神社と書いてありますが、これは江戸時代に山岳信仰を広め、各地に大勢の信者を持っていた一山行者を祭った神社です(この人についてはまたの機会に書きます)。この山岳信仰のために、多くの塚が作られたと考えられます。
しかし、それにしても狭い地域に多すぎではないか? 特に与野公園と御嶽神社で、隣り合うように4つも塚があるのは異様ではないか? という感じがします。
そこで考えられる説明の「その二」は「これは古墳群なのでは」というものです。長くなってしまいましたので、この説については、また次回とします。(いやー、引っ張りますね。)
4/28 与野「塚巡り」の2(道と史跡5)
続きです。ちょっと急いで次は「大国社塚」へ行きましょう。
17号バイパスでドンキホーテの反対側、ちょっと東京よりのところに、「足の神様 大国社」という看板が見えます。そこにちょっとした森がありその中に小さな神社が立っています。この神社も前回の浅間塚に比べると低いですが、小高い塚の上に立てられています。
この神社は今は大国社(だいこくしゃ)と呼ばれ、足の痛みや病気に霊験あらたかとされ、沢山の草鞋が奉納されていますが、江戸時代には蔵王権現だったそうで、前回の浅間神社同様に山の神様を祭る神社でした。今は「蔵王」というと宮城と山形の境にある山を思い浮かべる人が多いと思いますが、元は奈良県の金峯山のことです。なぜ大国社が足の神様か、という話も面白いのですが、またの機会にします。
どんどん行って、次は与野公園内の富士塚です。この塚は高さといい形といい富士塚の見本のようなきれいな塚です。
この写真の裏側の池に面したところ、江戸時代に澤田屋平左衛門という人が、富士登山58回達成を記念して建てた石碑があります。年に2~3回登った年もないと58回は達成できないのではと思います。びっくりです。
この塚の上から、与野高校の側を眺めていたら、ライトアップ用のマストが立っている円形広場も、元は塚だったのではないかということに気が付きました。
横からとった写真ですが、小高い塚の頂上部が削り取られ、裾野が残っているように見えると思います。(左側の方がよくわかります)
与野公園には、もう一つ天祖神社が立っている塚(下の写真)もあります。樹木に紛れていますが、橋の向こう側がかなり切り立った斜面になっており、この上に天祖神社の社が立っています。
長くなったので、ここでまた切ります。あまり一度にたくさんだと、飽きるでしょうから続きは休みを挟んだ4月30日に掲載します。
4/28 与野「塚巡り」の1(道と史跡4)
いよいよGWですが、コロナウイルス感染拡大防止ということで、あまり遠出もできません。しかし、家にこもってばかりだと逆に不健康になってしまいそうです。十分な防止策を取ったうえで近隣の散歩などをしてみてはどうでしょうか。
というわけで、今回は与野高校周辺に点在する「塚」をめぐるプチ旅行にご案内します。
最初は「浅間神社富士塚」から。与野高校から数百メートルの17号バイパス沿いにドンキホーテがあります。その裏の八王子神社という神社の境内に小山がありますが、それが「浅間神社富士塚」です。
下の写真の二つのお堂の間に、赤い鳥居があってそこに石段があるのが見えると思います。ここを登っていくと小山の頂上に小さな石の祠がありますが、それが浅間神社です。
浅間神社という神社はあちこちにあり、富士山そのものを神(浅間大神・コノハナサクヤヒメノミコト)して信仰するものです。「浅間」は今は「せんげん」と読むところが多いようですが、古くは「あさま」と呼んでいたといわれます。「アサ」「アソ」というのは非常に古い日本語で火山(熊本の阿蘇山や長野の浅間山など)を表したとされ、富士山はアサマの頂点に立つものでした。
平和で豊かだった江戸時代には神社・仏閣参りを名目とした旅行が庶民にも流行しました。その一つが富士参りで各地に富士登山を目的としたサークル「富士講」が存在しました。とはいえ、実際に富士登山をするのは費用も手間も大変だったので、グループでお金を積み立て、毎年順番にメンバーを選んで実際の富士山へ行き、そのほかのメンバーは、近所に作ったミニチュアの富士山にお参りするの一般的でした。
このミニチュアの富士山が「富士塚」で、関東地方を中心にたくさん作られました。この浅間神社富士塚もその一つです。植物に覆われて塚の形は少し崩れていますが、高さはかなりある立派な富士塚です。
思ったより長くなってしまったので、記事を分割することにします。「塚巡りの1」はここまでです。
4/23 野球部の健闘
本日、与野高校野球部が、春季大会(県大会)で立教新座高校と対戦しました。結果は1-6で負けてしまいましたが、いい試合でした。
与野高校は、1回裏に2点をリードされましたが、そのあとは2回から6回までは立教新座の攻撃をしのぎ続け、双方0点が続く締まった試合となりました。そのあと7回・8回では追加点を許してしまいましたが、随所に好守が光りました。
攻撃でも、4回に角山君が一塁線に絶妙なバントを決めたり(下の写真)、7回に反撃し一矢を報いるなど、見せ場がありました。夏につながるいい内容の試合だったのではないでしょうか。
コロナ禍ということで、今日は野球応援につきものの鳴り物も歌も踊りも無しでした。好プレイの時に拍手だけで応援するという、テニスかゴルフのような感じでしたが、野球そのものをじっくり観戦するという点ではそれもありかなと思いました。
4/19 櫛引町の板碑(道と史跡3)
学校の方は、新型コロナウイルスの蔓延防止重点措置が実施されることになったので、対策に努めているところですが、そのような時こそ、心のゆとりも必要、ということで、今日は「道と史跡」シリーズの(いつの間にかシリーズ化してしまいました)の3回目です。
昨日の日曜日、ジョギングを兼ねて前から見たいと思っていた櫛引町の「板碑」を見てきました。
前にも書いたように、与野高校の近くの本町通りは鎌倉街道の羽倉道のルートです。この道をずっと北上して行くと自衛隊大宮駐屯地(さいたま市北区櫛引町1丁目)の近くに、小さな観音堂があり、そこに今日のお題の櫛引町の板碑があります。(セイムスのすぐ裏です)
さてそもそも板碑って何? と思った方もいると思います。
下の写真の右の方に将棋の駒のように先がとがった薄い石の板がたくさんありますが、これが板碑です。現在でもご先祖の供養のためにお墓に木の板で作った塔婆を立てますが、板碑もそれと同じようなもので、鎌倉時代から室町時代にかけて作られました。
板碑は街道などの人通りの多い場所に作られたので、これがたくさん残っているということは、この場所が昔のメインストリート、鎌倉街道の沿道であったことの証拠と言えます。
この道をさらに北上してJR日進駅の方へ行くと、左側に日進神社があります。そんなに大きな神社ではありませんが、石の鳥居や石畳の参道はなかなか立派です。この神社の西側は鴨川に向かう急な斜面になっていますが、昔からきれいな水が湧き出し近隣の水源となっていた場所だそうです。
昔の街道だったルートには、現在でもお寺や神社、石仏などが多く残っており、また周囲と比べて標高の高い尾根筋を通っていることが多いのも特徴です。そういった目で地図を見て昔の道を探るのも楽しいものです(って私だけでですか?)。
4/15 野球部県大会へ等々
昨日(4/14)春季高校野球地区予選で与野高校野球部が志木高校を破り、県大会の出場権を獲得しました。
(試合の様子は野球部のページをご覧ください)今朝は、ネットでその記事を検索していたら、電車を乗り過ごして中浦和まで行ってしまいました。
地区予選は無観客試合でしたが、県大会からは試合が見られるそうなので、可能な限り応援に行こうと思います。
さて、最近の本校ですが、今週火曜日から学食の営業が始まりました。
早速行って日替わりランチ(白身魚フライのタルタルソース)を食べてきました。副菜に昆布の煮物などが付いていて、なかなかヘルシー&美味でした。
今はコンビニ弁当などに押されて採算がきびしいため、学食のある県立高校はどんどん減っています。しかし学食は、温かいごはんがお手頃価格で食べられるのが魅力です。生徒の皆さん(無理にとは言いませんが)、利用できる時は利用して学食を盛り上げてください(今時ですから、なるべく黙食で、相向かいに座らないなどの注意はしてください)。あとパン屋さんもよろしくお願いします。
道&史跡巡りシリーズの取材も暇を見てぼちぼちやっています。なかなか与野高校近くも面白いところだとわかってきました。
4/9 近年、道に興味がありまして(2)
昨日の入学式が東京新聞の記事になりました。
今日からしばらくは1年生のオリエンテーション的な行事が続きますが、密を避けるためこの時期恒例の対面式は行いません。第4波だ、蔓延防止だなどという声も聞こえてきますが、一日も早く平常復帰してほしいと思います。
さて、4月7日の続きです。下の写真は、本町通りを数百メートルほど南下したところにある分岐点です。
赤い線で示したように右方向に延びているのが、昔の鎌倉街道の羽倉道のルートです。
道の先を覗くと、下の写真のようにいかにも「街道」という感じの道が伸びています。
この道をたどっていくと、埼玉大学の正門の前に出て、そこからもう少し西へ行くと、羽倉橋で入間川(荒川)を渡っていくことになります。
分岐点に古いお堂があるのが、すごく昔の街道っぽくていい感じです。
このお堂は、庚申社のようですが、中をのぞかせてもらうと「猿田彦の命」の幟旗がしまってありました。
庚申信仰は本来は中国の道教からきているはずですが、「申(サル)」の字が「猿田彦(サルタヒコ)」のサルと通じるので、庚申社では猿田彦を祭っていることが多いそうです。
4/8 新入生の諸君、獲得せよ。
今日は入学式でした。
358名の新入生が新たに与野高生になりました。
午後からの雨が心配されていたところですが、入学式の間は天候が持ちました。入学式が終わったとたんに一天にわかに掻き曇り、激しい雷雨となったところを見ると、今年の新入生にはなかなか強運の持ち主が多いようです。
本校のモットー「二兎を追い、獲得する」の言葉通り、新入生の皆さんがこれからの高校生活で何かを獲得できることを祈ります。