校長室ブログ

徒然なる毎日

12/12 プチ史跡巡り(16)氷川神社の謎(続)「一宮論争」

 先週の土曜日(12月10日)、大宮の氷川神社では3年ぶりに飲食の屋台をともなう大湯祭が行われたという報道がありました。よいことだと思います。生徒の皆さんは期末テスト期間中でお祭りどころではなかったかもしれませんが…。

 氷川神社の現在の主神「スサノオノミコト」は、メジャーな神様だけあって複雑に習合し無数の神格を持ちますが、その一つが、疫病退散に霊験あらたかとされる牛頭天王や武塔大神です。その神様を祭る氷川神社の大湯祭は1年の穢れを払い、来るべき春に向かって人々の生命力を掻き立てるための祭りです。盛大に行ってコロナ退散を祈るべきでしょう(人が集まるので感染対策は必要だとしても)。

  さて、ようやく今回のお題の「一宮論争」です。

 「謎」というほどではありませんが、武蔵の国一宮である氷川神社に対し、「一宮は小野神社(多摩市)で氷川神社は三宮だ」という議論が近年わりと盛んです。この主張の根拠は鎌倉時代の「吾妻鑑」や南北朝時代の「神道集」の記述、武蔵総社の大國魂神社の六所宮(武蔵国内の各神社の出店のような小さな祠を祭った神社)における順番などです。一方、氷川神社を一宮とする記述は、室町時代以降に現れ、近世、近代を通じて定着し、あまり異論は聞かれませんでした。

 さて、この問題について私見を以下に述べていきます。まず、私は古代の「一宮」と近世・近代の「一宮」は別のものだと考えています。理由は後述しますが、こう考えると先の「一宮論争」がよく整理できます。

 先の「一宮=小野神社」の最大の根拠は、「神道集」の記述やそれに基づくという大國魂神社の六所宮の順ですが、これは、古代律令制の国司の神拝に由来します。国司神拝とは国司が任地の神々を参拝して回る行事です。六所宮に定められた一~六宮の由来については諸説ありますが、私は単に国司が巡回する順番を示したもの、という説に賛成です。そのことは六所宮に祀られた各神社の位置を地図上に落とし込むとよくわかります。

 

 武蔵国府は今の府中市ですが、そこを出てまずは近くの①小野神社(多摩市)へ行き、そこから多摩川沿いにさかのぼって②二宮神社(あきる野市)、今の国道16号線や県道2号線(旧16号)に近いルートで③氷川神社(さいたま市大宮区)、国道17号から国道140号の荒川に沿ったルートで④秩父神社(秩父市)、そこから寄居のあたりに戻って⑤金讃神社(神川町)まで行き、東山道武蔵路(今の国道254号に近いルート)経由で国府に戻り、⑥杉山神社(横浜市緑区)へは改めて出かける…。

 別のルートも考えられなくはない(※)ですが、一番楽に合理的に参拝を行うための順番が、古代武蔵国における「一宮~六宮」なのです。ですから、数字の順と神社の格式はあまり関係がありません。一方、古代の神社の格式については「延喜式神名帳」というものが残っています。先の一宮~六宮までの神社は国司が参拝するだけあって、二宮神社を除いてみなこの神名帳に載っています(式内社)。中でも氷川神社と金讃神社は名神大社(災害や国難の時に国が祈りをささげる神社)として、別格の地位を持っています。

 国司の神拝は、律令制度が衰えると次第に真面目に行われなくなっていきます。いちいち各地を回るのは面倒なので、国府の近くに各神社のミニチュアをまとめた「総社」を作り、ここにお参りすれば、全部回ったと見なすようになります。これが武蔵国では大國魂神社の六所宮というわけです。

 さらに中世になると国司制度そのものも有名無実化し国府も廃絶します。そうなったときに民衆の意識の中では、本来の神社の社格や神威にのっとって、氷川神社を一宮、金讃神社を二宮とする考えが生まれ定着していったのでしょう。これが近世・近代における武蔵「一宮」で民衆の支持や信仰心による自然発生的なものと言えると思います。

 この古代の「一宮」と近世・近代の「一宮」が混在してるのが、「一宮論争」の元です。別に古代の「一宮」も律令などで定められたり廃止されたりしたわけではなく、近世・近代の「一宮」も正式に朝廷や幕府によって権威付けられたものではありません。だから、特にどちらが正しいということはないのだと思います。

 この「一宮論争」において一方の当事者となっているのが小野神社です。小野神社はWEBページに「一之宮とは、中世に全国的に確立した、国内における神格の格付けで、国内第一の鎮守という意味です。」と書き、強く自らが一宮であると主張しています。これを読むと、中世に何らかの権威によって「一之宮」制度が作られたかのような印象を受けますが、これは先に見た通りの理由からあまり正確な記述とは言えないと思います。

 ところが、近年の御朱印ブームなどで神社好きになった人などがこの主張に乗り、それが埼玉をディスる(けなす)のが好きな人々に受けて、「小野神社=一宮」説が、いかにも歴史通、神社通の常識であるかのように喧伝されているのでしょう。

 小野神社が自らの権威を高めるべく小野神社=一宮を主張する気持ちはわかりますし、また一定の根拠もあり間違いではありません。しかし一方で氷川神社=一宮にも歴史的な経緯と十分な正当性があります。

 重ねて言いますが、このことについて私はどちらが正しいとは言いません。しかし前回書いた通り、京都から東京に移られた明治天皇が最初になさったのが氷川神社への行幸だったことからも、近世以降においては氷川神社が武蔵の国において一番の神威・神格を持つ神社と思われていたことは明らかです。

 (※)たとえば二宮神社から飯能経由で正丸峠を越えて秩父神社へ行き、金讃神社へ回った後、氷川神社へ行き、そこから国府に戻る、というルートも考えられなくはないでしょう。しかし、大人数で行動する場合、なるべく平坦な道を行きたいでしょうから、この道はちょっと厳しいと思います。

12/5 プチ史跡巡り(16)氷川神社の謎

 早いものでもう12月。すっかり冬ですね。一年で一番日が短くなる冬至ももうすぐです。

 冬至で思いだすのが氷川神社です(なぜ思い出すのかは後で説明します)。氷川神社は埼玉県では最もありふれた神社で、それこそ、そこら中にある感じです。私の地元の上尾市内にも沢山あるのですが、昨日は久しぶりに気持ちの良い天気だったので、ジョギングがてら上尾市二ツ宮の氷川神社へ行ってきました。

 小ぶりながら、精巧な浮彫が施された立派な本殿です。ここの氷川神社は今はお社が一つですが、昔は隣にもう一つお社があり、男体社と女体社の二つのお社があったことから、「二ツ宮」と呼ばれていたそうです。

 さて、氷川神社の本社は言わずと知れた大宮の氷川神社です。祭神は、スサノオノミコト、クシイナダヒメ、オオナムチの出雲神話の主役の三柱とされ、社名のヒカワも出雲の国の斐伊川に由来するという説が一般的です。

 しかし実は氷川神社はそんな簡単な神社ではなく、たくさんの謎を秘めた神社なのです。

 このあたりの話はネットでググるとたくさんヒットしますが、以下にかいつまんで紹介します。

 氷川神社は表向きの祭神とは別に、元々は竜神信仰の神社であったと言われています。かつて埼玉県南部には見沼という大きな湖沼がありましたが、大宮の氷川神社(大宮区高鼻)は見沼区中川の中山神社(中氷川神社)と緑区三室の氷川女体神社と見沼で結ばれた三社一体の神社であったといわれます。また見沼田んぼの山口新田には、古代から中世にかけて数百年もの間、竜神の祭りがおこなわれていた水上祭祀の跡(四本竹遺跡)もあります。

 見沼周辺はこのように水神(竜神)信仰が盛んな土地だったのですが、近世に入り見沼が干拓されたために、水上祭祀は氷川女体神社の神池で行われるようになりました。また伝説では、この時、見沼の竜神は千葉の印旛沼に引っ越したそうです。

 この話からすると氷川神社の祭神は、本来は土着の見沼の竜神(さいたま市のマスコットのあれです)であったようです。また、このことを裏付けるかのように氷川神社の分布はほぼ昔の武蔵国の中に限られています。出雲の斐伊川が名前の由来とされるているのに、出雲には氷川神社はごくわずか(2社くらい)しかありません。現在の三柱の祭神は、氷川神社を記紀神話の体系に取り込むための後付けだった可能性が高いと思います。

 またこのように出自のはっきりしない神であるのに(あるいはそのために)、氷川神社は、古代から天皇家や朝廷にとって非常に重要な神社でした。平安時代の延喜式には「名神大社」(天災などが起きたときに国家が祈願する神社)として記載されています。近現代においても、明治天皇は東京に来て10日目には氷川神社に行幸して祭祀を行っていますし、現在でも宮中の四方拝で遥拝される神社となっています。要するに氷川神社は、マジカルな意味での関東支配の要なのです。

 また一部で有名なのですが、先ほどの氷川神社、中山神社、氷川女体神社の3つの神社は、北西から南東に30度傾いた一直線上にあります。東西方向から30度傾いた線というのは、関東地方くらいの緯度だと、冬至と夏至の日の太陽の方向と一致するいわゆる「レイライン(光の道)」にあたります。

 念のため書いておきますが、私はレイライン系の話はあまり信じないほうです。なぜなら「レイライン」は作ろうと思えば、いくらでも作れるからです。地図上でまず有名な神社や遺跡を一つ選び、そこに物差しを当ててぐるっと回し、東西や南北、30度傾斜などの先にあるめぼしい神社等をもう一個探します。その2点間に直線を引き、さらにその直線の周囲に神社や遺跡を探していけば「レイライン」完成です。世の中には、何でも「レイライン」で結んで、超古代文明みたいな話にしてしまう人がいますが、そういうのはちょっとどうかと思います。

 しかし上で紹介した「氷川レイライン」の話は、かなりよくできています。たしかに3つの神社はほぼ等間隔で一直線に並んでいます。しかも適当に選んだのではなく、これだけ関係の深い神社が直線状にあるのですから、意図的な並び方であるという話にちょっと信ぴょう性が出てきます。方位的にも真ん中の中山神社から見れば冬至の日の出はぴったり氷川女体神社の方向から上り、夏至の太陽は高鼻の氷川神社の方向に沈むはずです。ついでに言うと下山口新田の四本竹遺跡も、ほぼこの「レイライン」を南東に伸ばした線上にあったりします。「これは、もしかして本当かも?」と感じさせられます。

 ただこの説の通りだとすると、3つの神社を直線状にどうやって並べたのかが問題となります。のろしを上げて観測するなどの手段で、冬至や夏至の太陽の方位に合わせて土地を選定するということは不可能ではないとは思います。しかし、いくら人家もビルもない古代でも、視線を遮る森や地形の高低はあったのでそう簡単ではないでしょう。

 さらに氷川神社といえば、昨年読んだ「縄文神社」武藤郁子(飛鳥新社)という本には、氷川神社は縄文時代の祭祀跡に建っているという話がのっていました。これが本当なら氷川神社の歴史は数千年から1万年くらいに上ります。

 我々、埼玉県人にとってはすごく身近な氷川神社にこのような謎があるのは、とても楽しいことだと思います。

 

 

 

 

11/16 プチ史跡巡り(15)上尾の胡桃下稲荷

 久しぶりにタイトルにふさわしい史跡巡りです。

 今回訪ねたのは上尾駅東口の少し北側にある笠間(胡桃下)稲荷です。ビルの谷間の小さな社で、「プチ史跡巡り(10)」では紹介した北浦和の豊川稲荷とちょっと似ています。この神社自体は明治時代に茨城の笠間稲荷から勧請して建てられたという来歴がはっきりしており、特に不思議なところはありませんが、本社の笠間稲荷には、別名の「胡桃下(くるみがした)稲荷」も含めて私はちょっと不思議なものを感じています。

 稲荷神社の祭神は一般的にはウカノミタマという食物・穀物の神様であるとされます。この神様は古事記・日本書紀に出てくる豊穣をつかさどる神として尊崇を集め、すべての稲荷の総本社とされる京都の伏見稲荷などは平安時代に正一位の神格を与えられ、明治時代には官幣大社となるなど国家の厚い保護を受けてきました。

 一方、今回取り上げた笠間稲荷です。現在の笠間稲荷は関東を中心にたくさんの末社を持ち、伏見、豊川に次ぐ三大稲荷とまで呼ばれています。しかし、この神社は江戸時代に笠間藩主の牧野家が朝廷に願い出て、伏見稲荷と同じ正一位の神位を得るまではあまりぱっとしなかったようです。また、明治時代になってからも社格は伏見稲荷とは比べ物にならない村社でした。この差はなぜなのでしょうか?

 私は笠間稲荷の神様がもともとはウカノミタマではない、古事記・日本書紀とは関係ない神様だったからではないか、と想像しています。そう考える理由ですが、由来によれば笠間稲荷は「伏見稲荷から勧請したものではない」とされています。勧請というのは本社からお札やご神体を分けてもらって同じ神様を祭る神社をつくることです。日本の稲荷神の総本社とされる伏見稲荷からの勧請ではない、ということは元々は別の神様だった可能性があるということです。また伏見稲荷と同じ神様だったら、江戸時代に神位を願い出るまでもなく正一位だったはずなのに、改めて願い出たということは、江戸時代にも笠間と伏見は別の神様であるという意識があったのではないでしょうか。

 では笠間稲荷の正体は何なのでしょうか。私は,、地元で古くから崇拝されてきた豊穣伸・農業神だったのではないか、と想像しています。笠間稲荷の別名は「胡桃下(くるみがした)稲荷」ですが、なぜそう呼ばれるかというと、昔そこに胡桃の大木があったからだとも、鬱蒼たる胡桃の森があったからともいわれているそうです。胡桃や栗は縄文時代には人々の重要な食糧でした。稲などの栽培が広がる以前から、人為的に栗や胡桃の木を植えて実を収穫するということが行われていたようです。もしかすると笠間稲荷は、縄文時代から地元の人々によって連綿と祭られてきたクルミの神様なのかもしれません…。

 こういった記紀の系譜につながらないローカルな神様というのは昔はたくさんいたようです。たとえば同じ上尾の氷川鍬神社は今は氷川神社の系統になっていますが、元々は江戸時代中期に上尾の宿場に突然現れた「おくわさま」を祭る神社でした。江戸時代末からの神道思想の盛り上がりや明治時代からの国家宗教化のなかで、これらのローカル神はほとんどが似た性格の記紀の神様に統合されました。しかし、いまだに各地の伝承の中には、古い神々の残影が残っているようです。

 以上の考えは、一次文献とか学術論文とかにあたらずに、ネットの記事や神社名から想像しただけです。学術的な価値はないことを念のため申し添えておきます。

11/11 マラソン大会 & プチ史跡巡り(14)

 昨日(11/10)に埼玉スタジアム2002にて、マラソン大会を実施しました。マラソンといっても男子11.5km、女子8kmの持久走大会です。

 コロナウィルスのために一部生徒が参加できなかったのは残念でしたが、 得意な人も不得意な人も一生懸命走っていました。(写真は全校一斉の準備体操)

 

 気持ちの良い秋空の下で、久々に開放的な気分を味わいました。生徒の皆さんもそれぞれの達成感や自信を持ち帰ることが出来たのではないでしょうか。

 さて、次は久々の「プチ史跡巡り」です。あまりにもひさしぶりなので番号を忘れてしまいましたが、多分「14」でいいと思います。で今回の史跡は、下の写真です。

 

 「これのどこが史跡なんだ!?」と思われた方もいると思いますが、この道路は浦和の中山道から西へ伸びる「六間道路」という道です。なぜ、この道を史跡として取り上げたのか、ということは、この後、おいおい述べていきます。

 

 「六間道路」は昭和9(1934)年に完了した耕地整理事業によりできた道であると、様々な本やWEBページに書いてあります。現在は「新六間道路」といわれることが多いのですが、この道の起点の中山道の交差点には「六間道路入り口」と書いてあります。(このあたりの経緯は「咲いた万歩」さんという方の「浦和の六間道路ができるまで」というブログによくまとまっていますので、興味のある方はご覧ください。)

 名前の由来は、そのものずばり道幅が六間(約11m)あったからです。現代の私たちからは対面交通1車線ずつのごく普通の道路に見えますが、当時の人々にはとてつもなく立派な道路に見えたようです。先年亡くなった私の父親は、大正14(1925)年生まれで根っからの浦和育ちでした。父から以前、この道路が完成した時には、みんなで弁当をもって見物に出かけたという話を聞いたことがあります。また子供心に「こんなに幅の広い道路を作ってどうするのだろう?」と思ったとも言っていました。

 日本では古代の律令国家は中国に習い幅広な官道を建設しましたが、以後は道路整備を政策的に行うことはあまりなかったようです。江戸時代になると徳川幕府は街道の整備を行いましたが、旅行は徒歩やかごを利用し、物資の輸送も牛馬に背負わせて車両を利用することが少なかったので、幅の広い道路を建築する必要がありませんでした。そんなわけで、日本では道路整備が遅れ、昭和の初めでもたかだか11m幅の道路でみんながびっくりするという有様でした。

 戦前の日本は軍事力の整備に傾注した結果、零戦や戦艦大和のような世界水準を超える兵器を開発することに成功しましたが、国力を下支えするインフラ整備は遅れたままでした。その貧弱なインフラのまま、アメリカやイギリスを相手に第2次世界大戦へ突入したのですから、その無謀さは形容のしようもありません。

 浦和に残る「六間道路」とその由来は、今後同じ間違いをしないよう我々を戒める他山の石として史跡の価値があると思います。しかし、最近の出来事を見ていると、今日でも日本人は、金の使いどころを間違える愚かさと無縁でない気がします。

 

 

11/9 昨日の月蝕は見ましたか?

 みなさん、昨日の夕方からの皆既月食はご覧になったでしょうか。

 私は欠けていく途中はちょっと見ました(下はその時に撮った写真です。)が、その後はうっかりしてしまい、月が完全に隠れるところは見ませんでした。

 テレビなどでは「442年ぶりの月蝕、次は300年以上後!」とか言っていたので、「そんな珍しい現象を見逃したなんてもったいない」と思う方もいるかもしれません。しかし私的には昨日の月蝕は、寒い思いをしても得られるもの多くないだろうと思っていましたので、「見逃したら見逃したで、まあいいか」という感じでした。 

 月蝕は、太陽と月が地球を間に挟んでちょうど反対側にあり、太陽ー地球ー月となった状態です。そうなると太陽の光でできた地球の影が月に落ちるので、月が暗くなるわけです。実は月に1回、満月の日には必ずこの配置になっているのですが、地球から見た太陽と月の軌道は上下にずれているので普段は月蝕は起きません。とはいっても、2、3年に1回くらいは起きるので、そんなに珍しくない現象です。

 では昨日は何が特別だったのかというと月蝕と惑星蝕が同時に起きたことです。惑星蝕とは、月が月より遠方にある惑星と重なって隠してしまうことですが、月蝕と惑星蝕が同時に起きるというのは、さすがにめったにはなく、それが442年ぶりだったわけです。しかし昨日の惑星蝕は相手が天王星でした。天王星は太陽から遠くて暗く、肉眼で見るのはまず無理です。昨日の惑星蝕も、真っ暗な山の中で天体望遠鏡でも使わなければ観測できなかったと思います。(つまり、昨日の月蝕は普通に見たらただの月蝕にしか見えません)

 マスコミでは、このあたりの事はあまり言わずに「442年ぶり!」とだけ言って大騒ぎをしていました。そのため「月蝕そのものが数百年ぶり」と勘違いしてしまった人も多かったのではないでしょうか?

 中学校や高校で教わる理科の知識があれば、今回のようなマスコミのから騒ぎにも乗せられずにすむのですが、残念ながら、日本では「学校で習う知識は役に立たない」とか「知識よりも創造性」とか「頭でっかちより豊かな心」とかいう紋切り型の反教養・反知性主義がはびこっているので、今回の月蝕のみならず、非科学的なインチキ話に引っかかる人が多いようです。しかし、正しい知識がなければ世界も自然も正しく見ることが出来ず、きちんと感動することもできません。有り余る感情や感動も正しい知識に基づくものでなければ、ただの勘違いかもしれません。

 我々学校関係者は教育に携わる者として、率先して反教養・反知性主義の根絶と科学的な考え方の普及に努めなくてはならないと思います。

 

10/31 ハロウィン考

 ハロウィンシーズンたけなわです。

 コロナウィルスによる規制が緩んできたため、久しぶりににぎやかなものになるのでは? と思っていたところ、お隣、韓国で大惨事が起きてしまいました。亡くなられた方々のご冥福と、けがをされた方々の回復をお祈りします。

 さてハロウィンですが、日本でハロウィンが行われるようになってきたのは、今から20年くらい前でしょうか? お菓子やら仮装の装束やらいろいろなものが売れるせいもあってか、急速に定着してきました。

 

 ハロウィンは、表向きはキリスト教の諸聖人を祀る万聖節ということになっています。しかし、元々の起源はキリスト教以前の異教ドルイドの祭りです。同じような由来のクリスマスがスマートになってあまり異教的な感じがないのに対し、ハロウィンの方はカボチャの化け物ジャックオーランタンや、魔女やお化けの仮装など異教的な雰囲気が色濃く残っています。このマジカルで神秘的な雰囲気が、ハロウィンの人気の秘密でしょう。

 クリスマスと同様、日本人がハロウィンを楽しむことにとやかく言う向きがありますが、私はべつによいのではないかと思います。ハロウィンはもともとドルイド教という多神教の祭りだったのですから、日本の多神教的な宗教観にはよくあっていると思います。これまでにも、仏教やバラモン教、道教など様々な由来の神々を日本の神々と習合させ、受け入れてきたわけですから、キリスト教の諸聖人も日本の神々に仲間入りしたと思えば特に問題はないでしょう。

 ただ今回の韓国の大事故や、数年前の日本での群衆が自動車をひっくり返した狂騒ぶりをみると、ハロウィンが本来持っていた異教的なデモーニッシュなパワーが噴出してきたような不気味さも感じます。今晩がハロウィン本番だそうですが、事故など起きずに楽しい祭りになってほしいものです。

 先日、華道部の皆さんが校長室にオレンジ色のカボチャのような実が活けてあるハロウィンっぽい生け花を持ってきてくれました。こんな小さいカボチャが!? とびっくりしましたが、落ち着いてよく見ると、カボチャなら蔓になるはずなのにこれは枝になっています。調べてみるとこれは、ソラナム・パンプキンと呼ばれるナスの仲間の植物だそうです。確かにちょっとしわが寄ってバキバキした感じの茎がナスやトマト、ピーマンなどナス科植物に似ています。いや、勉強になりました。

9/9 英女王の御逝去、バラの実に思う

 今朝のニュースでイギリスのエリザベス女王が亡くなられたというニュースがありました。イギリス国教会の長の方に「ご冥福」というのが適切かどうか知りませんが、ご冥福をお祈りいたします。

 エリザベス女王は若いころ、父である国王ジョージ6世を助けて第2次世界大戦を戦い抜いた方です。 

 第2次世界大戦の前半、ドイツ軍が快進撃を続けヨーロッパ大陸の大半を占領し、イギリス本土への上陸も危惧されていた時期がありました。政府は王室にカナダへ疎開することを勧めたのですが、イギリス王室はそれを拒否してイギリスに踏みとどまりました。エリザベス女王も当時まだ10代の少女でしたが、軍隊への慰問・激励や、自ら補助部隊の一員としてトラックを運転して見せるなど国民の士気を高めるために活躍しました。

 そういった歴史の生き証人ともいえる方が亡くなると、ますます20世紀が遠くなっていく気がします。

 ところでイギリスというとバラの花です。今もサッカーイギリス代表やイギリス王室の紋章にはテューダーローズというバラの図案が使われています。テューダーローズは赤白の花弁が2重になったデザインで、我々がバラと聞いてイメージするものよりだいぶシンプルな感じですが、これはバラの原種に近い形態です。

 

 本校のある与野も「バラのまち」なので、あちこちでバラを見かけます。中にはあまり手入れされていない半ば野生化したバラもあり、それらが秋を迎え、実を実らせています(写真上)。

 「バラに実なんてなるんだっけ?」と思った方もいるかもしれませんが、バラは「バラ科」の仲間です(当たり前ですが)。バラ科にはリンゴやナシ、サクラなどの果樹がたくさん含まれます。バラも花が咲いた後、放っておくと実がなります。(実がなると木が弱るので、手入れをしているバラでは咲き終わった後花を摘んでしまいます。)

 バラの実は「ローズヒップ」と呼ばれハーブティーの「ローズヒップティー」の原料になります。ローズヒップティーはバラの香りとさわやかな酸味が特徴で、健康にもいいようです。今日あたり買って帰って、イギリスの歴史でも読みながら飲んでみようかなと思います。

 

 

8/30 今日から2学期です。

 本校では、今日から2学期です。

 始業式では、先週のPTA全国大会で聞いた中室先生の話の例を引いて、自分が自分に抱いている自己イメージのマイナス部分を打破して、良い方向に変えていこうという話をしました。また本校では、今週末に文化祭(限定公開)、1か月後に修学旅行を予定していますので、新型コロナウイルスの感染拡大防止に一層の注意を呼びかけました。

8/29 行ってきました。金沢へ

 先週、全国PTA連合会の大会があり、金沢市へ行ってきました。

 一日目は分科会、二日目は記念講演がありました。分科会は、慶應大の中室教授とはなまる学習会の高濱先生がパネリストを務められた第一分科会に参加しました。

 

 中室教授は6~7年前に「『学力』の経済学」という著書を出版され、「教育経済学」の認知度を高めた功労者です。私的には、先の著書も含め、中室先生の説明はきれいに物事を片付けすぎていてちょっと眉唾なところがあるように思っているのですが、今回の分科会で紹介していた事例には一つ面白いものがありました。

 「とある進学校では入試時の成績と1年生最初の試験の間には相関がほとんど見られない。ところが最初の試験と学年末の試験の間には強い相関がみられる。」というものです。より具体的に言えば、入試時に上位合格した生徒でも最初の試験で低い成績をとると、そのあとの成績も低くなり、ぎりぎり合格した生徒でも最初の試験でよい成績をとると、そのあとの成績もよくなる傾向があるということです。

 つまり最初の試験で自分について「自分は勉強ができない」というイメージを作ってしまうと、本来のその生徒が持つポテンシャルにかかわらず、そこから脱却するのは難しくなってしまうのです。我々学校関係者にとっては、興味深くもあるが深刻な課題です。

 二日目の記念講演では、元ファミリーマートの社長の澤田氏が「経営はどこまでもお客と加盟店のためを考えるべきである」と力説されていました。私たち県立学校の職員としては「生徒のために」と置き換えて考えるべきかと思いました。

 二日目の午後は、せっかく金沢まで行ったので(年休をとって)駆け足で兼六園や主計町茶屋街を回ってきました。金沢は戦争中も空襲を受けなかったので、旧市街には歴史的な街並みがよく保存されています。

 上の写真1枚目は兼六園の夕顔亭という茶室、2枚目は霞が池です。

 下の写真左側は茶屋街の中でも人気スポットの「明り坂」右は表通りにあった洋風建築のお店です。

 

 まだまだ見られなかったところが多いので、そのうちゆっくりと観光に行きたいものです。

 

8/17 身辺雑記(2)通勤ネタです。

 お盆休みも終わり、気が付けばだいぶ日が短くなってきました。とはいえまだ暑いですが…。

 さて、先週ですが私は数年ぶりに痛風の発作が起き、右足の膝がはれ上がってうまく曲げられなくなってしまいました。そうなってみると、普段感じないようなことにいくつか気が付きます。

 1点目ですが、日本の通勤環境は弱者に厳しい、ということです。特に駅のエスカレーターですが、あれは上りではなく下りで運転をすべきではないかとおもいます。

 膝や足首に故障があり関節の動きが制限されていると、階段を下りるのは非常に困難です。故障している足を下の段に降ろして体重を支えるのはつらいので、故障してない方の足から降りるようになりますが、その場合も、上の段に残っている故障した足がうまく曲げらないので、片足とびで降りていくような感じになります。この降り方は非常に不安定で怖いだけでなく、強い衝撃が足にかかるので、いい方の足まで故障しそうになります。その一方、階段を上がる方はゆっくりと上がれば何とかなります。山登りなどをした時によくわかりますが、もともと元気な時でも足に負担が大きいのは上りより下りです。

 駅で見ていると、横切るのに苦労するほど長い上りエスカレーター待ちの列ができていることがよくありますが、元気な人たちの横着に迎合するのではなく、足に故障や障害を抱えた人のことを考えて駅のエスカレーターは下りで運転をするべきだと思います。

 2点目ですが、最近また電車の中づり広告が増えてきたような気がします。

 

 近年は、広告はドアの上のモニターで流れるようになったり、みんなが手元のスマホを見るようになったりで、すっかり数が減っていた中吊り広告ですが、今朝乗った埼京線では久しぶりにたくさんの中吊りを見ました。

 電車内でスマホを見ていると、スマホと目の距離を確保するために、腕を前に突っ張り、背中をのけぞらせた姿勢になります。最近は怒りっぽい人が増えたので、その姿勢がトラブルのもとになったりします。視線を動かすだけで読める中吊りの方が、暇つぶしとしては優れています。

 昔は新聞や文庫本を持たずに電車に乗ってしまった時は、他にやることがないので中吊りを見ていたものでした。週刊誌の中吊りなどはライバル誌(週刊ポストと週刊現代とか、女性自身と女性セブンとか)が張り合って中吊りをだすので論調の比較ができましたし、書籍の中吊りでは、怪しい健康法やビジネス書に「初版たちまち何万部!」みたいな文句が書いてあって「本当かな!?」と思ったり、なかなか楽しいものでした。みんなもっと中吊り広告を楽しみましょう。