校長室ブログ

徒然なる毎日

8/1 吹奏楽コンクール & プチ史跡巡り(13)所沢航空記念公園

 先週の土曜日(7月30日)に、所沢ミューズで行われた埼玉県吹奏楽コンクール(高校B)に行ってきました。

 私は吹奏楽の経験はありませんが、高校時代になぜか合唱部に入っていてコンクールにも出ました。当時の合唱はトップ数校はとても上手でしたが、後はそうでもない学校もあり、結構のんびり、ほっこりしていました。ところが、近年の吹奏楽はどこの学校もみんな上手で、ハイレベルでしのぎを削っている感じで聞いていて息苦しくなるほどです。

 当日は新型コロナウイルス対策で大きなホールに100人くらいしか聴衆がいませんでした。こんな素晴らしい演奏をしているのにこれしか聞いている人がいないのはとてももったいない気がしました。

 会場となった所沢ミューズの最寄り駅は西武新宿線の「航空公園駅」です。駅を降りるとすぐ目の前に、YS11がドーンとおいてあります。

 

 YS11は1962年から2006年まで現役だった(自衛隊では2021年3月まで最後の1機が運用されていました)国産の旅客機です。優れた信頼性から日本だけでなく世界中の航空会社にも採用され、戦前・戦後を通じ、唯一成功した国産旅客機です。

 自分の国の設計で飛行機を製造できるというのは自立した工業力の証明です。

 日本の飛行機の歴史は、1912年に所沢航空公園の場所にあった飛行場で、陸軍の徳川大尉がアンリ・ファルマン機で飛行したのが始まりとされます。この時のアンリ・ファルマン機もフランス製でしたが、その後、日本では飛行機国産化のための努力が続けられました。そして第2次世界大戦前夜の1930年代には世界の水準にほぼ追いつき、旅客機も何種類が作られました。しかしそれらは軍用の爆撃機や輸送機をベースにしたもので、しかもすぐに戦争に突入してしまったため国産の旅客機が本格的に作られることはありませんでした。

 第2次世界大戦に敗北した後、日本では占領軍によって飛行機開発が禁じられていましたが、1952年にサンフランシスコ講和条約を結んだことで禁止が解除されました。そして日本の工業復興の象徴としてYS11のプロジェクトが各社協同で始まりました。

 その結果、YS11の開発チームには、零式艦上戦闘機の堀越二郎氏をはじめ、二式大艇や紫電改の菊原静男、一式戦闘機隼の太田稔、三式戦闘機飛燕の土居武夫、航研機の木村秀政など、第二次世界大戦の前後にその名をとどろかせた傑作機の設計者たちが勢ぞろいとなりました。その点ではYS11は戦前の大日本帝国の航空技術の集大成だったのかもしれません。

 いきなりマニアックな話になってきましたが、何を隠そう私は結構な飛行機マニアだったりします。

 マニアックついでに書くと、よく誤解されているのですがYS11はジェット機です。「えっプロペラ機じゃないの」と言う人もいるかもしれませんが、YS11のエンジンは「ターボプロップ」というジェットエンジンの一種です。

 通常のジェットエンジン(ターボファン)は、エンジン前方と後方に回転タービンがついています。前方のタービンで空気を圧縮し燃料と混ぜて燃焼させ、燃焼ガスを後ろに噴出して飛びます。その時にガスのエネルギーの一部で後方のタービンを回転させ、その力でまた前方のタービンを回転させる仕組みです。ターボプロップは後方のタービンで発生させた回転力を前方のタービンだけでなく、プロペラを回すことにも用います。要するにジェットの力でプロペラを回すわけです。

 日本ではその後、三菱が小型ジェット旅客機を開発しようとしていましたが、さまざまなトラブルから現在開発中止状態になっています。現在日本の製造業はすっかり海外に後れを取っていますが、三菱のジェット機の開発中止はその象徴のようです。

 YS11の開発時には、海外のメーカーからさまざまな横やりが入り、また国内にも外国製の飛行機を買う方が安上がりだという声が強かったようですが、自前の飛行機を飛ばして日本の復興の象徴としたいという思いで乗り切ったとのことです。三菱でもどこでもいいですから、何とか頑張って世界に胸の張れる日本製の旅客機を作ってほしいなと思います。

7/20 一学期終業式でした

 今日は一学期の終業式でした。明日から生徒は夏休みに入ります。

 終業式では、先日報道があったニコンが一眼レフの開発をやめることを決定したとのニュースを取り上げて話をしました。

 ニコンの歴史は、第二次世界大戦の敗北から日本が復活し高度経済成長を達成したサクセスストーリーそのものです。

 戦後の焼け跡の中で、ニコンはコンタックス(外国製の有名なカメラ)の互換機(正直に言えばコピー、悪く言えば偽物)作りから始めました。しかし頑張って技術を磨き、本家に負けない性能で市場を獲得し、やがては一眼レフという新たな分野に挑戦して世界一のカメラメーカーに成長しました。

 近年、スマートフォンの普及で一般向けのカメラは売れゆきが急低下していたそうです。誰もが持っているスマートフォンでそこそこきれいな写真(下は私の安物スマホで撮影した秩父鉄道武川駅の景色)が撮れてしまう時代には、一眼レフの開発中止もやむをえないことかもしれません。

 しかし世界に冠たる日本のカメラ産業の、しかもトップメーカーであるニコンがその技術の象徴である一眼レフの開発をやめるというのはショックです。今日の日本の産業の衰退ぶりを物語るかのようです。

 終業式では、生徒諸君が将来家庭や子どもを持った時に、自分たちが享受してきたような生活を子供たちに与えるためには、日本の衰退からの脱却・復活が必要であること、そのためには、まず夏休みに向けて自分の目標をしっかりと決めて、自らを磨く努力をしてほしいと述べました。

 最近の急激な円安の進行により、長年にわたり経済成長がなく国民の賃金も低く抑えられてきた日本では、必需品の値上げによる生活の圧迫が避けられません。コロナ対策も大切でしょうが、まず産業経済の衰退を食い止めることが急務だと思います。

 

 

 

7/13 近況+プチ史跡巡り12(ラジオ塔ほか)

 このところ更新をさぼっていましたが、久しぶりに更新します。

 この前に日曜日には、野球部の夏の大会の応援に熊谷さくら運動公園に行きました。結果的には早大本庄高校に6-7で敗北を喫しましたが、5点差で迎えた9回に4点を返し1点差に詰めよるなど最後まで攻撃精神を失わない立派な試合でした。

さて、今回のプチ史跡巡りは、浦和周辺です。下の写真は埼玉会館の西側の路地にある石仏です。

 観音様だと思いますが、私は詳しくないので何観音なのかはわかりません。きちんと祠の中におさめられているおかげで保存状態は良好で、お顔は剥落していますが碑文ははっきりとしています。建立の日付は「元禄二年十一月十八日」とあり、これは私の知っているさいたま市周辺の石仏や庚申塔の中でも極めて古い部類です。元禄2年(1689年)は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅をした年で、有名な赤穂浪士の討ち入りより10年以上も昔です。

 寄進した人の名前も左下の方に彫ってあり「丸〇又右エ門」のように読めます。〇の部分は、「蓑」とか「莨」のような字ですが、私には読めません。こういった石仏を300年以上も守ってきた心をこれからも大事にしていきたいものです。

 次は浦和第一女子高校の近くの調宮公園に立つ謎のコンクリート塔です。

  今、「謎」と書いてしまいましたが、実はこの塔は謎ではなくて「ラジオ塔」と言うものです。しかし大方の皆さんは、そもそも「ラジオ塔」って何?と思ったことでしょう。

 日本でラジオ放送が始まったのは大正14年(1925年)でしたが、当時はラジオの価格が高く、なかなか一般家庭への普及はすすみませんでした。素早い情報伝達のためにラジオが役に立つ事はわかっていたので、昭和に入り戦時体制が準備される中で、全国各地の広場などに作られたのがこのラジオ塔です。この塔の中にラジオとスピーカーが設置され、近隣住民がラジオ放送を聴ける仕組みでした。この調宮公園のラジオ塔も裏側に昭和15年に日本放送協会が寄贈したという銘板があり、まさに戦時下の情報伝達手段として建設されたことが分かります。

 第2次世界大戦が終わり、戦時体制が解除されラジオの普及も進むと、全国各地のラジオ塔は撤去されていきました。ラジオ塔は現在全国に37基しか残っていないとのことで、大変貴重な史跡です。埼玉県内だと他に川越の初雁公園にもラジオ塔が残っているそうですから、そのうち見に行きたいと思います。

 この話は、前任校でもブログに書いたのですが、そちらはもう削除されて読めなくなっているようなので、また書かせてもらいました。

 

 

6/21 プチ史跡巡り11.5 「お女郎地蔵」に関する補遺

 学校の方は、この間中間考査が終わったと思ったら、もう期末考査が近づいてきました。生徒の皆さんは、怠りなく準備を進めてください。

 さて、今回は前回紹介したさいたま新都心駅前の「お女郎地蔵」に関する追加情報です。

 お女郎地蔵には「昔大宮宿にいたお女郎の千鳥が、将来を言い交した若旦那との恋がうまくいかないのを苦にして、川に身を投げた」という言い伝えがありますが、この話をもう少し調べてみたら、なかなかびっくりでした。

 千鳥の「恋がうまくいかない」原因は何だったのか、と言うと、それは当時関東で暴れまわっていた真刀徳次郎という大盗賊でした。この徳次郎が千鳥に横恋慕し、「自分のものにならなければ大宮宿を焼き払う」と脅しをかけてきたため、千鳥は若旦那への思いと、孤児だった自分を育ててくれた大宮宿の人々への恩義の板挟みになって自殺した、ということだそうです。

 徳次郎は後に幕府に捕縛され、大宮宿のはずれの下原刑場で処刑されましたが、この時、徳次郎を捕まえたのが火付盗賊改方の長谷川宣以、あの鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵でした。千鳥の話はともかく、長谷川平蔵が徳次郎を捕らえたのは史実のようです。

 いや、びっくりですね。長谷川平蔵が実在の人物なのは知っていましたが、本当にこんなドラマチックな活躍をしていたとは…。それに「宿場を焼き払う」とかいう大悪党が時代劇の中だけでなく、本当にいたんですね。天下泰平な江戸時代のイメージを覆すようなバイオレンスなお話です。

 池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の作品中には、埼玉県内の土地は何回か登場し、長谷川平蔵や部下たちが、深谷や越谷に出動して活躍する話もありましたが、この大宮宿の話を直接モチーフにした回はなかった気がします。今度確認してみたいと思いますが、何しろ全23巻+番外編がいくつかという分量ですし、確認のため本を開いて、うっかり読みふけってしまったりすると大変です。

 余談ですが、上で「恋がうまくいかない」というところは、最初、「恋の先行きをはかなんで」と書いたのですが、読み返してみて「はかなむ」は、もう死語かもしれないと思って書き換えました。若い人たちは「はかなむ」という語の意味をすっと理解できるでしょうか。まだいきている言葉なのでしょうか。

6/17 プチ史跡巡り11(さいたま新都心)

 来年度入学者用の学校案内が出来たので、今、あちこちに配り歩いています。先日は、新都心から北与野方面を徒歩で回ったので、ついでに見かけた史跡をいくつか紹介します。

 さいたま新都心の駅を降りてすぐの中山道の歩道の上に、小さな祠が立っています。

 中には2つの小さな石塔がありますが、右側が「お女郎地蔵」、左側が「火の玉不動」と呼ばれているものです。

 「お女郎地蔵」については、「昔、大宮の宿場女郎に千鳥という評判の美女がいたが、将来を誓い合った若旦那との仲がうまくいかず、高台橋(この後、紹介します)から身を投げて死に、そのあとこの近辺に人魂が飛ぶようになったので、供養のためこの地蔵が建てられた」という言い伝えが残っているそうです。「火の玉不動」には、「昔、このあたりには火の玉が飛ぶということがよくあり、ある日、度胸自慢の男が火の玉に切ったところ、不動様に切りつけてしまったので、ここに不動を祀った」という言い伝えがあります。

 この二つの言い伝えですが、なんとなく「恨みを残して死んだ千鳥が火の玉となり、それを退治しようとしたところ不動に切りつけてしまった」という流れなのかな、と思いますが、建てられた年代をみると不動様が寛政(1800年代)、地蔵様が天保(1830年代)なので、この解釈は成り立ちません。

 このあたりは大宮宿の南の境目であることや、この場所(今のコクーンシティ)が江戸時代に罪人の処刑が行われた下原刑場だったことを考えると、この地蔵様や不動様は、宿の境界を守るためや罪人供養のためのものとみるべきで、上の言い伝えは後付けの様な気がします。

 この祠と中山道を挟んで反対側には、明治時代に作られた高台橋の遺構があります。

 この橋は中山道と鴻沼用水が交差する地点にかけられたものですが、現在は用水の東側部分は暗渠化され、橋そのものも中山道の舗装の下に埋められてしまい、橋の西側側面だけが露出しています。近くで見たいのですが、柵とロープで囲われていて入り込むと怒られそうなので、さいたま新都心駅の京浜東北線のホームから観察します。

  精密に積まれたアーチが良く残っていて実にきれいです。現在もコクーンシティを運営する片倉工業がここに製糸工場を建てたのが明治34(1901)年ですから、おそらくそのころに作られたものでしょう。

 こんな美しい橋のうえにコンクリートをかぶせ無粋な舗装道路にしてしまったのは残念ですが、取り壊されずに埋められているのは、道路工事をした人たちにもこの橋を惜しむ気持ちがあったからかもしれません。これだけ保存状態のいいレンガ積みは珍しく、一見の価値のある貴重な遺構です。

 

 

 

6/13 歩き方考

 この土・日に家でテレビを見ていたら、帯状疱疹ワクチンの接種を呼び掛けるCMを何回も見ました。ナイス中高年な感じの男性が、海の見える公園で意気揚々とウォーキングをしている映像です。帯状疱疹の流行原因についても世間では色々言われているようですが、それは置いておくとして、このCMで気になることがあったので、それについて書きます。(今回も全く学校や教育活動と関係がないですね。)

 何が気になったのかというと、それは男性の歩き方です。胸を張って腕を大きく振り、膝をまっすぐに伸ばし足を振り子のようにけり出して歩く、という歩き方をしています。これはウォーキング入門の雑誌や新聞の記事、インターネットのサイトなどでよく見る歩き方で、良いフォームとして推奨されているものです。

 しかし、私はこの歩き方は足腰を痛める歩き方だと断言します。

 この歩き方が推奨されているのは、腰の関節を回転軸とし足の裏を大きな車輪の一部と見て、これを地面に転がすように歩けばエネルギーの無駄がないと考えたからだと思います。しかし、これは机上の空論です。この歩き方をすると、足はかかとから接地することになり、膝も突っ張った状態なので、着地の衝撃はまっすぐ膝や腰に伝わってしまいます。試しに硬い床の上で裸足でこの歩き方をしてみましょう。かかとが痛くて長くは続けられないはずです。

 現在のウォーキング用の靴は衝撃吸収性能が優れているので、この歩き方でもすぐに膝を痛めたりはしないでしょう。しかし、張り切って長い距離を歩いたりすれば確実に膝や腰を痛めてしまうと思います。人間の足には、足首の関節や土踏まずのアーチなど衝撃を吸収するための構造が備わってるのですから、これを生かした歩き方をするべきです。

 ではどんな歩き方ならよいのか、というのは難しいですが、私が実践している歩き方は次のようなものです。

 まず、足は振り子のように前にけり出すのではなく、後ろ側の足で体を前方に押し出しながら、前側の足はなるべく水平に前に出します。そして膝もまっすぐ突っ張るのではなく、少し緩めた状態で、足裏全体をまっすぐ下におろして着地させます。全体としてはすり足のような動きで、胸も後ろへそらすのではなく、力を抜いて前に体重を落とすような感じになります。この歩き方は前に進むために、後ろ脚のふくらはぎの筋肉を使うので、始めたばかりのころはふくらはぎが疲れますが、着地の衝撃は土踏まず、足首関節、膝関節と分散吸収するので、膝や腰への負担が軽くなり、長い距離を歩いても痛めることがありません。

 ちなみにランニングの方ではフォアフット(つま先)着地やミッドフット(足裏)着地がよい走りとされ、かかと着地はヒールストライクと呼ばれあまりいい走り方とはされていません。(最近、厚底シューズのブームで靴の性能が上がり、ヒールストライクも復権してきましたが…)

 なぜ、ウォーキングではヒールストライクが推奨されているのか、不思議です。このページを読んでいる皆さんがもしウォーキングをしていたりこれから始めようとしているのなら、ぜひ安全な歩き方を工夫してみてください。

 

 

 

 

 

 

5/26 一学期も後半戦&プチ史跡巡り10

 与野高校では昨日で中間考査が終わり、今日から1学期の後半戦です。

 生徒の皆さん、中間テストの調子はどうでしたか? 特に1年生の皆さんはどうですか? 思ったような点数が取れそうもない、とショックを受けている人もいるかもしれません。 皆さんも高校生である以上、点数や成績は気になると思いますが、気にしすぎることはありません。

 もちろん高校の各教科の内容は、どれも将来のためにマスターしておきたいごく基本的な知識ばかりですから、できるに越したことはないのですが、満点を狙う必要はありません。数学を例にとってみれば、三角関数やら微分・積分やらの計算は、現実の社会ではコンピュータにやらせているはずです。人間が手で計算する必要はなく、その点では皆さんも全員が高い計算能力を持つ必要はありません。しかし、「微分・積分とはどういうものか」という考え方や手順を理解していなくては、コンピュータを働かせることが出来ません。高校で勉強することには全てそういう意味がありますから、皆さんは思うように点数が取れない苦手科目でも理解しようとする意欲は持ち続けてください。その意欲さえあれば、おそらく赤点にはならないでしょう。

 さて話は変わって、先日北浦和の駅の近くで開かれた会議に出てきました。そのついでに会場近くの2つの神社を駆け足で(本当に走って)見てきました。

 1社目は「八雲神社」です。以前にも書いたように「八雲神社」は京都の八坂神社(祇園さん)の系統で、疫病退散に御利益のある神様として全国に無数の末社があります。北浦和周辺にもいくつかの八雲神社があり、元町に比較的大きな社があるようですが、この日、訪れたのは北浦和1丁目の「八雲神社」です。

 北浦和1丁目 八雲神社

 住宅地の真ん中にある小さな神社ですが、きれいに手入れされています。私は地元の方の信仰心に支えられたこういう感じの神社が大好きです。

 次は、もう少し離れたところにある「豊川稲荷」です。名前からして愛知県にある「豊川稲荷」の末社なのでしょうが、愛知の「豊川稲荷」は千手観音を本尊とし併せて吒枳尼天(だきにてん)も祀るお寺です。なぜ稲荷なのにお寺なのかというと、明治の神仏分離の時に神社ではなくお寺になる道を選んだからです。吒枳尼天(だきにてん)は仏教の他の「○○天」と同様に、仏教に敵対する悪鬼羅刹だったものが、仏教に帰依して守護神となったインドの神様です。そして、これが垂迹し日本に顕現したものが稲荷神とされます。お稲荷さんは五穀豊穣から転じて商売繁盛にも験があるとされるので、繁華街の一角によく祀られています。

 豊川稲荷 一番街

 今回訪ねた「豊川稲荷」も、現在は隣の家に「大衆酒場」という看板が残っているだけですが、周囲の様子は、かつては飲食店の並んだ横丁だったことを偲ばせます。「大衆酒場」の看板と小さな稲荷社の組み合わせが昭和の雰囲気を醸し出しており、丸ごと文化遺産に指定したい感じです。

 それにしても、ここは駅からちょっと距離がありますし、昔から近くに大きな会社や工場はなかったと思うのですが、かつては繁盛していたのでしょうか。横丁の入り口の電柱に「浦高通り一番街」という表示が残っていますが、いくら昔は今より大らかで先生方にも豪快な人が多かったといっても、まさか浦和高校の先生方だけで横丁一区画を支えるほど飲食していたわけではないでしょう。ちょっと不思議です。

 今回、回ったのは、いずれも家内安全や商売繁盛などを願った近隣の人びとによって作られた小さな社です。このように神様を勧請してくれば(あるいはお祀りする気持ちさえあれば)、どこにでも神社が出来るという自由さ、大らかさが神社の魅力だと思います。

 

 

5/18 プチ史跡巡り9 本太氷川神社と中山道の謎

 先日、さいたま市立浦和高校まで行ったので、途中、本太氷川神社を見てきました。

 中山道から1km弱東のさいたま市立本太小学校の北側にあり、石畳の参道やうっそうとした境内林などなかなか趣のある神社です。本太という地名の由来ですが、本太氷川神社の扁額には「元府址(もとふと)」と書いてあり、かつてここに「府(何らかの役所)」があったからだという説があります。(地形に由来するという別の説もあります。)

 

 しかし、古代の武蔵国府は国分寺市にあったことが明らかですし、足立郡衙の候補地は、大久保領家遺跡(埼玉大学の近く)や氷川神社東遺跡(大宮公園一帯)が有力視されています。説の通りここに「府」があったとすると、何の役所だったのでしょうか。本太氷川神社にはそのような謎がありますが、そこで思い出したのが、かねてより私が不思議に思っている中山道の謎です。

 謎の一つ目は「中山道と一体何だったのか」というものです。

 今回訪問した本太氷川神社もその一つですが、大宮の氷川神社や上記の氷川神社東遺跡、浦和の調神社、蕨の蕨城跡など、中山道の近辺には多数の史跡が存在します。中山道が街道として整備されたのは徳川家康が江戸に入った後ですが、史跡・遺跡の分布を見ると古代・中世から有力な交通路だったことは、間違いないでしょう。しかし、一体、何という道だったのかが、わかりません。

 中山道の前身となった古代の東山道は上野(群馬)から下野(栃木)へ向かうのが本線で、埼玉県内を通っていた支線の武蔵路は、吉見から川越、所沢を通り国府(東京・国分寺市)へ向かう(今の関越自動車道に近い)ルートだったことが分かっています。もう少し時代が下がった中世の鎌倉街道は、東山道武蔵路をなぞるように県西部を通る「上つ道」、川口、岩槻、杉戸、幸手と県東部を抜けていく「中つ道」(今の東北自動車道に近いルート)と、所沢、志木から与野高校のすぐ東側を通り、上尾、幸手と抜けて「上つ道」と「中つ道」をつなぐ「羽倉道」などが県内を通っています。

 しかし今の中山道のルートはこれらには該当せず、古い時代に何と呼ばれていたのかが分かりません。一次資料である古文書や本格的な研究論文などを調べればいいのかもしれませんが、普通の郷土史の本やネットで引っかかるような範囲では、中山道の歴史は徳川幕府の五街道整備から登場し、それ以前については東山道武蔵路など直接関係のない話が書かれていて微妙にはぐらかされている感じです。先述の通り有力な交通路で沿道もかなり発達していたことは間違いないのですが。

 謎の二つ目は、「江戸時代以前の中山道はどこへ向かう道だったのか」ということです。江戸時代からの中山道は、浦和、蕨、戸田から荒川を渡って板橋、そこから上野や東京大学の赤門の前を通って起点の江戸・日本橋に着きます。

 江戸は徳川家康がやってくる前は、さびしい漁村に過ぎなかったとされています。しかし氷川神社のある大宮、調神社のある浦和、経済や交通の要衝として蕨城の置かれた蕨を通る道の終点がさびれた漁村のわけはありません。中山道がどこか別の場所に向かっていたのか、それとも江戸がさびれた漁村ではなく向かう価値のある場所だったのかのどちらかでしょう。

 今の東京都内では品川や浅草は古代・中世から港町として栄えていたことが分かっています。江戸(狭い意味での)も徳川家康以前に太田道灌が城を作っていたくらいですから、言われているような漁村ではなく、それなりに繁盛していた町だったのではないかと思います。

 徳川氏以前の江戸については、江戸を開発した徳川家康の偉大さを強調するため、不当にさびれた田舎ぶりが強調されている可能性があります。またなぜか昔から日本史業界では関西系の勢力が強く、西日本の先進性と東日本の後進性が強調されてきた感があるので、その影響もあるように思います。

 我々埼玉県南部の住民には日頃見慣れた中山道ですが、いろいろと考察すべき問題があります。

5/9 連休を振り返る

 連休が終わってしまいました。なんかあっという間でした。

 連休の間に与野ではあちこちでバラが咲きはじめました(写真左)。去年も書きましたが、与野は町中にバラが植えてあって本当にきれいです。

 さて連休中の私の行動を振り返ってみますと、お金もないので、自宅周辺を走るか、家で本を読むかで、大したことはしていません。

 それでもあえて書いてみますと、5月3日には上尾市民の憩いの場、丸山公園に行きました。自宅から往復約14kmと手ごろなランニングコースです。折からの行楽日和に多くの家族連れでにぎわっていました。

 私の目的は水生植物園だったのですが、何故か水が抜かれてただの草原になっていました(写真右上)。昔、我が家の子供が小さいころには、一面の菖蒲田で大変きれいだった記憶がありましたので、今年もきっときれいだろうと期待していたのですが…。もしかしてコロナウィルス対策で人が集まらないように、先回りして花をなくしてしまったのだとしたら、大変残念です(もちろん、ただの公園整備の一環かもしれませんが…)。

 仕方がないので、丸山公園の人気者、コツメカワウソ(写真中下)を見て帰ることにしました。しなやかな動きで走り回る様子に子供たちが歓声を上げていました。いや、なかなかかわいらしいものですね。

 その途中、丸山公園の近くで古い馬頭観音の石碑(写真中上)を見つけました。作られた年代は表面が剥落していて読み取れませんが、かなり古いもののようです。道標も兼ねていて、「北 あ(ぜよし?)、川田谷」「東 大(谷?)」、「西 か(わごえ?)」と彫ってあるようです。また願主「渋谷竹兵衛」とあるのも読み取れます。このご近所には今も何件か渋谷姓の御宅があるので、そのご先祖と思われます。こういうものを見て歩くのは楽しいですね。丹念に見て歩いて、一覧を作ってみてもいいかもしれません。

 5月4日には、与野高校吹奏楽部の定期演奏会に行きました。お客さんを入れて開催できるのは3年ぶりですよく練習した迷いのない元気のいい演奏でした。今年こそ、様々な教育活動が正常化できるといいのですが。

 

4/28 明日から連休

 明日から大型連休です。

 今日は久しぶりに気持ちよく晴れたので、お昼に与野公園まで行ったところ、もうバラの花が咲きはじめていました。与野公園のバラ園の見ごろは5月中頃から6月だと思いますが、真冬を除けばどの季節にも咲くバラがあり、一年中散策が楽しめます。本来1年で最も陽気のいい季節ですから、連休中ずっと好天ならいいなと思います。

 

 さて、そこで去年の今頃私は何をしていたのか、と思ったらこのブログで超大作「与野塚巡り」を書いていました。その後、特に研究もしていないので、昨年提起した「与野高校の周りに密集する塚は古墳かも」説の進展はありませんが、今日も与野公園の塚の痕跡とおぼしき砂場(下の写真)を見ていたら、ますます古墳群ぽく思えてきました。

 与野公園の砂場は写真の通り、いかにも墳丘の頂部を平らに削ったような形をしています。これがもし古墳で、これだけ頂部を削ったのなら、工事の際に石室や石棺などが現れたのではないかと思うのですが、どこかにそういった記録はないのでしょうか。

 行田のさきたま古墳群や千葉県風土記の丘の龍角寺古墳群でもそうですが、古墳群では狭い範囲にものすごい密度で古墳が作られることが珍しくありません。埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)で古墳とされている富士浅間塚、大国社、御嶽社の3つの墳丘に、与野公園内の富士塚、天祖社の墳丘、この砂場の塚の痕跡(?)を加えると、小規模ながらいかにも古墳群らしい景観となります。すごく気になります。