徒然なる毎日
4/14 最近の気候でふと考えました。
今日は朝から小雨が降り気温も低めですが、おとといや昨日は暑かったですね。4月に入ったころは花冷えでまだコートが必要な感じでしたが、たった10日ほどの間に上着を着ているのがつらいほどの陽気になりました。
華道部のみなさんが差し入れてくれる生け花も、今週は早々とひまわりでした(これはおそらく温室で育てたものだと思いますが)
ほんの半月の間にコートから一気に半袖になってしまうような状況に対し、私と同年代の人は「温暖化が進み、季節が冬と夏しかなくなってしまったようだ」と感じ、「何とかせねば」と考えると思います。
私は温暖化の事実は否定しません。またそれを少しでも食い止めるために炭酸ガス排出量を削減しようという現在の温暖化対策も、やってみる価値はあると思います。しかし、これらによって気候が私が子供だった1970年代に戻るとも思いません。なぜなら現在われわれが経験している気候の変化が、二酸化炭素という一つの原因で説明でき、それさえ何とかすればよいという単純なものだとは到底思えないからです。
現在、様々な科学的な証拠から過去10万年くらいの気候については変化の様子がおおよそわかっています。それによればこの10万年のうちには、現在より気温が高かった時期もぐっと冷え込んだ時期もあり、しかも寒暖の変化が極めて短い期間に起きたケースもあった事が分かっています。現在の我々が「普通の」気候と考えているものは、ついこの数世紀間の比較的安定した時期のものであり、過去10万年の中では、むしろ例外的なものです。
地球の気候がそのように変化に富んだものだとすれば、現状維持のために温暖化防止に取り組むよりは、温暖化を避けられない変化として受け止め、それへの適応に努める方が有効なのではないか、と思います。世界各地の気温と降水量が変化すれば、農業に適した場所も変化するでしょうし、生物相も変化するでしょう。それに合わせてどうやって能率的に食料を生産し、世界中に不公平なく供給していくかを考えるべきだと思います。
と、まあ最近の寒暖の変化で考えてしまったわけです。その際にふと思ったのですが、今の高校生は知識として地球温暖化の問題は知っていても、そのことを実感してはいないのではないでしょうか。なぜならば、彼らにとっては、生まれてからずっと今の様な気候だったからです。彼らの世代に任せれば、自分たちの環境に合わせた新しい生存の方法を考え出してくれるかもしれません。
4/5 プチ史跡巡り8 第六天神社
今、学校は春休みで、新学期に向けた準備をしているところです。
今回のプチ史跡巡りは、ちょっと足を延ばして浦和の岸町にある第六天神社です。昨日、出張で浦和第一女子高校に出かけたので、そのついでに寄ってきました。浦和一女の近くで有名なのは調神社ですが、第六天神社は、調神社の北側の住宅地の中にひっそりと立つ小さな社です。
境内の看板に書かれた縁起によれば、祭神は面足命(オモタルノミコト)と吾屋惶根命(アヤカシネノミコト)とされていますが、第六天とは、本来は仏教の他化自在天(第六天魔王)のことを言い、この神社も昔はそれを祀っていたと思われます。
第六天魔王というと、ゲームや戦国時代が好きな人は、織田信長を思いだすかもしれません。仏教では世界は欲界・色界・無色界の三界に分かれ、各界の中もさらに細かく分かれた重層的な構造をしているとされます。第六天は欲界の最上層で、そこの王である他化自在天(第六天魔王)は仏教に敵対し。仏教の修行者の邪魔をする悪魔です。だから、比叡山や本願寺などの仏教勢力と激しく対立していた織田信長は自分を第六天魔王になぞらえていたといわれます。そんな悪魔がなぜ神として祀られるのかというと、他化自在天も他の多くの仏教の守護神と同じように、悪行を重ねた末に、釈迦に帰依し仏教の守護者に変化したといわれているからです。
ウィキペディアによれば、第六天神社という名前の神社は、江戸時代には武蔵の国を中心に関東に数百社もあったとのことですが、現在は36社しかないそうです。これは以前にも書いたように、明治時代に廃仏毀釈・神仏分離(仏教を弾圧し神道を国教化する動き)が行われたときに、仏教や道教由来の神をまつる社は廃されたり、日本の神々に祭神を変更したりしたからです。岸町の第六天神社も、他化自在天の垂迹(日本における化身)とされるオモタルノミコトを祭神として存続を図ったのでしょう。
境内の看板によれば、岸町の第六天社は古くから地元の守護神として親しまれていたそうです。また現在の社殿は昭和45(1970)年に地元の人々が整備したもので、その時に毎年のお祭りも復活させたと書いてあります。直接的には書いてありませんが、これは明治の廃仏毀釈で荒廃した第六天神社への信仰が、地元の人々に受け継がれ昭和の後半になってから復活したということでしょう。
昭和45(1970)年を大昔と感じる人もいるかもしれませんが、1970年と言えば、ぞの前の年にアポロ11号で人類が初めて月に行き、大阪では科学技術の進歩を誇る万国博覧会が開かれていた時代です。そんな科学万能の時代に、地元の信仰を復活させた岸町の皆さんの心意気に感心します。
3/24 春本番、与野・圓乗院(プチ史跡巡り7)
このところ寒い日が続いています。そのせいか、今年は桜の開花が少し遅いようですが、与野高校の桜は日当たりの良い側から咲き始めました。
今週ついに「まん延防止」が解除されたので、今、2年生が念願の修学旅行に行っています。春の訪れとともにコロナウイルス関係の諸々が終息してほしいものです。さて、写真の下からは久しぶりに「プチ史跡巡り」です。
春と言えば、与野高校のすぐ南側にある古刹圓乗院のしだれ桜の名木「千代桜」も、そろそろつぼみが開き始めているようです。圓乗院には、広大な境内に赤く塗られた立派な多宝塔や先述の桜の木などがあり、境内に入ると一瞬自分が与野にいることを忘れ、京都あたりにでも行ったような感じがします。(一見の価値がある御寺ですが、圓乗院さんは観光客に騒がしくされることを好まない真面目なお寺ですから、見学は控えめにしてください。)
圓乗院は、山号寺号を安養山西念寺といい、鎌倉時代の建久年間 (1190-1199)に畠山重忠によって創建されたと伝えられています。畠山重忠は、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」にも登場(中川大志さんが演じています)する有名な武将です。ただし、この時は今の桜区道場(プラザウエストの近く)に立てられ、慶長年間(1596-1615、関ヶ原の合戦のころ)に、現在の位置に移転したそうです。ちなみに圓乗院が元々あった道場には同じ山号を持つ安養山金剛寺というお寺も残っています。
これだけでも圓乗院は創建以来800年、移転してからでも400年の歴史がある由緒正しいお寺だということになりますが、「新編武蔵風土記稿」という古い本には、このお寺の起源について興味深い話が載っているそうです。
それは、もともと道場には大きなお寺(大伽藍)が立っていたが、このお寺は保元の乱(1156年?)の際に焼けてしまった。建久年間に畠山重忠が、焼け跡から仏像を発掘し、それを祀る道場(仏道修行の場所)を立てたのが、今の安養山金剛寺で、道場という地名の由来である、という話です。これによれば、今の圓乗院につながるお寺の系譜はさらに平安時代以前にさかのぼることになり、道場にはその時代から、「大伽藍」と表現されるほどの大きな寺があったことになります。
なぜ、この場所にそんな大きなお寺があったのか、ということを私なりに推理すると、それは古代の水運によるものだったのではないか、と思います。
昔の河川の流路などが分かる「治水地形分類図更新版」という地図によれば、桜区道場の安養山金剛寺のある場所は、昔の鴨川の流路と入間川にはさまれた自然堤防の上になります。鴨川は今は桶川市内に源流を持つ小さい川ですが、昔は今の指扇駅の西側で入間川(荒川)から別れた大河でした。道場に「大伽藍」があったのは、この鴨川の水運を利用した物流があったからではないでしょうか。また金剛寺の場所から1km弱北方には、羽根倉街道も通っており、まさに交通の要地です。
同じような立地で思い出すのが、桶川の川田谷にある泉福寺というお寺です。山号は東叡山、院号は勅願院といい、平安時代に天皇の命により、円仁(遣唐使の船で中国まで留学した名僧で天台宗の三代目座主)が開いたという、驚くべき由緒を持ったお寺です。このお寺は今でも仁王門などがあり、境内も広くてなかなか立派ですが、平安時代には天台宗の関東根本道場(中心)として無数の堂塔伽藍がある大寺院だったとのことです。
このお寺も荒川を望む自然堤防の上にありますが、無数の堂塔に住んでいた多数の僧侶を支えた物資は川の水運を利用していたのではないでしょうか。先ほどの仁王門なども全て川に面して建っており、このお寺の正面が荒川を向いていたことを思わせます。
古代には、現在われわれが都市を築いている関東の平野部は、河川が洪水を繰り返し芦原が生い茂る手の付けようがない荒地でした。人々の住む集落は丘陵と平野の境目や河川の自然堤防上に築かれ、交通には草木をかき分けながら進まねばならない陸上よりも、網の目のようになった川や沼の水上の方がはるかに便利でした。
圓乗院は、元はそんな古代水運の要所に立てられ、そのあと大規模な河川改修と平地の開拓がはじまった近世になって、陸上交通の幹線である羽根倉街道の宿場の与野に移転したことになります。実に興味深い(って私だけ?)ですね。
また、今回の話の本筋からは離れますが、圓乗院の前身にあたる大伽藍が保元の乱で焼け落ちた、というのも気になる話です。この保元の乱は、日本史の教科書に載っている後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱と同じものなのでしょうか。京都における保元の乱はほんの1週間くらいの出来事でしたが、関東にもそれが波及して戦いが行われたのでしょうか? 当時の情報伝達や政治経済のネットワークがどうなっていたのか、これも興味深いところです。
3/18 あっという間の…
激動の令和3年度が終わろうとしています。本当にあっという間でした。
別に「激動」したかったわけではないのですが、コロナウィルスをはじめとする諸般の事情から何かと激動がちな1年間でした。(「激動がち」ってそんな日本語はないだろう、と自分で自分に突っ込みを入れておきますが。)
先生方には様々な行事の中止や予定の変更に対応していただきましたし、生徒の皆さんも、夕方突然学校からメールで明日からの分散登校やオンラインの指示が来るといった出鱈目な状況によく耐えて頑張ってくれました。
さすがのコロナウィルスも、もうそろそろ終息でしょう。来年度は平常への復帰と学校生活の立て直しが課題になってくると思います。というか、思いたいものです。
3/11 卒業式の奇跡
今日は卒業式でした。(式辞はこちら令和3年度第67回卒業式式辞.pdf )
本校の卒業式では、式歌として「旅立ちの日に」を歌います。
ご存じの方も多いと思いますが、「旅立ちの日に」は、今から30年くらい前に秩父市立影森中学校で生まれ、今では埼玉県内だけでなく全国の学校の卒業式で歌われるようになりました。
30年前は、ドラマ「金八先生」などでも取り上げられていたように、校内暴力に苦しむ中学校・高校が多い時代でした。そのような状況に心を痛めていた影森中の校長先生が、一晩で歌詞を書き上げ、音楽の先生が一日で作曲し、卒業式のサプライズとして披露したという奇跡の様な一曲です。
作詞者の校長先生の世代を反映したのか、歌詞はちょっと1970年代のフォークソング風で、メロディーもちょっとアマチュアっぽくて、はっきり言ってベタな感じですが、逆にそれだけに影森中の先生方の生徒を思う気持ちがストレートに伝わってきて、私はいつもこの曲を聴くと、頭の芯がしびれるような気がします。
さて、本日の与野高校の卒業式でもこの曲を合唱する予定だったのですが、コロナ禍のため歌唱はできないので、伴奏に合わせて各自が心の中で歌う、ということになりました。
ピアノ伴奏がはじまり最初の数小節のあと、気のせいでしょうか、かすかにしめやかに歌声が流れてくるような…。マスクを外している人は一人もおらず、だれも歌唱していないのに…。卒業生みんなの心のエネルギーが空気を振動させたのかもしれません。
卒業式の日にはそれくらいの奇跡が起きても不思議ではないと思います。(写真は、卒業祝いのうさぎ饅頭)
3/9 三年生を送る会
今日は三年生を送る会でした。
明後日11日の卒業式を控え、1・2年生が3年生を心を込めて送り出す会…だったのですが、コロナウィルス感染拡大防止のため、会場の体育館に入れるのは3年生と1・2年生の出演者だけとなりました。
それでも、力のこもった演技や演奏で、3年生の皆さんにしっかり想いは伝わったのではないでしょうか。
最初に新型コロナウィルスの発生が報じられたのは、2019年の12月でしたから、コロナウィルスをめぐる騒動ももう3年目に入りました。
私のような中高年にとっては、2年や3年はあっという間に過ぎてしまいますが、成長過程にある高校生にとっては、非常に長く貴重な年月です。今度卒業を迎える3年生の皆さんに、昨年、一昨年と様々な学校行事を体験させてあげられなかったことは、いかにも残念ですが、卒業後は本校で学んだことを生かして、様々なことにチャレンジしてください。
風はまだまだ冷たいですが、日の光は日々力強さを増してきました。華道部の皆さんが活けてくれた花も春っぽい感じです。春の訪れとともに、コロナの騒動が去ってくれるとよいのですが。
2/21 「前向き時計」を作ってみました。
今週24日は、いよいよ埼玉県公立高校の入学者選抜です。本校をはじめとして各県公立高校へ出願した中学生の皆さん、試験を乗り切るために最も大切なのは体調管理です。また本校の3年生で国公立大学にチャレンジする人も、もうここまで来たらあとは体力勝負です。少しでも多く勉強したいと思っているかもしれませんが、栄養のあるものを食べて、睡眠をしっかりとるようにしてください。あとは前向き(ポジティブ)な気持ちです。
さて、実は私、職員室の一角に破損した時計が放置されているのが、以前から気になっていました。文字盤が破れたところに、曲がった短針が引っかかって動かなくなっていますが、秒針はぴくぴく動いています。文字盤を交換して針の曲がりを直せば、まだ使えるのではないか? と思ったので思い切って修理をしてみました。
まずは分解して、曲がっていた秒針、長針、短針を取り外してまっすぐにします。次に風化してボロボロになっていた文字盤は、ケント紙にカラープリンターで印刷したものと交換します。デザインとして、各時刻の所に前向きなニュアンスの英語のことわざや名言をあしらってみました。
12時 Leap before you look. 見る前に跳べ。
1時 Every Man is architect of his own future. 自分の未来は自分が決める。
2時 Who dares wins. 敢えて挑むものが勝利する。
3時 Keep your head up. うつむくな。顔を上げろ。
4時 What done is done. 過ぎたことを悔やむな。
5時 Anything is possible. 何事も可能だ。
6時 I can do it. 自分はやれる。
7時 It always seems impossible until it's done. どんなこともやってみれば大したことはない。
8時 Tomorrow's another day. 明日はうまくいく。
9時 Look on the bright side. 明るい面を見よう。
10時 What there is will, there is a way. 意志ある所に道は開ける。
11時 Nothing ventured nothing gained. 挑戦しなければ成果もない。(虎穴に入らずんば虎児を得ず)
そしてとどめに本校のマスコットキャラクター「ふみちゃんとたけるくん」が"Go ahead!" 「前へ!」と応援してくれます。いやがうえにもポジティブな気分が盛り上がる「前向き時計」の完成です。
2/3 大野知事の本校訪問がありました
昨日(2月2日)、大野埼玉県知事に本校へ御来校いただきました。
県立高校における新型コロナウイルス感染予防対策とオンラインを活用した分散登校・授業についての視察ということで急遽決定したものです。
本校では5時間目の授業の様子を中心にご覧になりました。理科のグループワーク形式の授業では、知事から図書館にいる生徒と自宅からオンラインで参加している生徒の両方にお声をかけていただきました。突然の知事の登場に生徒はびっくりしていたようですが、大いに励みになったと思います。ありがとうございました。
本校では、まん延防止措置の一環として、先月末から分散登校と自宅に待機している生徒へのオンライン授業配信を始めています。これまでの授業は、教員と生徒が直接対面して行うのが原則でしたから、オンライン配信に関しては、まだまだ不慣れなところはあります。しかし、今回の待ったなしの状況の下、「まずはやっていこう」という試行錯誤の中から様々な工夫が生まれてきています。
昔から「災い転じて福となす」ということわざもありますから、現在のコロナ禍の中で蓄えられたノウハウを、コロナ終息後にも活用できるよう熟成させていきたいと思います。
2/1 春を待つ
暦の上ではもうすぐ立春(2月4日)です。
校長室には華道部の皆さんが定期的に花を活けて届けてくれるのですが、先週は梅が届きました。ちょっとあるだけでも梅の花はとても良い匂いがします。この匂いをかぐともうすぐ春だな、と思います。
現在、学校は、3年生が家庭研修に入り、1、2年生は、コロナウイルスの感染拡大防止のための分散登校とすっかり人気が少なくなっています。分散登校ではオンラインによる学習保障等にも努めていますが、生徒の皆さんにとってはつらい3学期となっていると思います。ですが、明けない夜も終わらない冬もありません。この苦境を乗り切ればきっと春がやってきます。頑張りましょう。
1/24 こんなところに与野発見(プチ史跡巡り6)
この週末の土曜日、天気も良かったので上尾市平方の八枝神社に行きました。目的は疫病退散の札を頂戴することです。
現在、オミクロン株とやらがすごい勢いで拡大し、県内の学校でも学級閉鎖や臨時休校をするところが出るなど、本校にもその脅威がひたひたと迫ってきています。
平方の八枝神社は疫病退散に御利益があると言われる京都祇園の八坂神社(祇園さん)の流れをくむ神社ですから、ぜひ本校をコロナから守っていただこうとお札をいただいた(公費支出はできないので私費で)というわけです。
さて、その八枝神社には、立派な一対の狛犬があるのですが、ふとその台座を見ると「與野町平心講」と彫ってあります。(與は与の旧漢字)「こんなところにも与野とのつながりが!」とちょっと驚きました。
なぜ、ここに与野の人たちの奉献した狛犬があるのでしょう。
今でこそ平方地区は上尾市のはずれの川っぷち(失礼)ですが、江戸時代には、荒川の水運と川越街道の交差する河岸場(川港)として大変栄えていました。八枝神社も、近隣はもとより今の東京都内にまで信者のいる祇園信仰の拠点でした。この祇園信仰の信者の団体が「平心講」です。
このブログの第1回で、江戸時代に与野に住んでいた俳人・学者の鈴木荘丹が、桶川と与野を往復する途中に平方で亡くなったという話を書きました。江戸時代には与野ー平方ー桶川というルートは地方の主要な交通路で、与野と平方には強い結びつきがあったと思われます。その関係で八枝神社の平心講が与野にもあったのでしょう。それにしても大きさと言い、細工の見事さと言い、昔の与野の繁盛ぶりがしのばれます。
平方から与野へ来て、そこから羽倉街道をさらに進むと、志木から所沢、東京へ入り清瀬、日野と抜けて甲州街道に合流します。このルート上の清瀬市上清戸には現在でも平心講があり、八枝神社から御神体を借り受けて祭りを行っているそうです。八枝神社は見かけはそんなに大きな神社ではありませんが、実は非常に大きな信仰圏をもった神社なのです。
次に、そもそもなぜ八枝神社などの祇園系神社が疫病退散に御利益があるのかと言う話です。これについては5月14日のブログ「身辺雑記」でも少し触れました。八坂神社などの「祇園さん」は元々、仏教とともにインドからやってきた神様、牛頭天王と馬頭天王を祀っていた神社です。これまでに何度も出てきた本地垂迹説では、牛頭天王の日本での姿はスサノオノミコトとされます。で、スサノオノミコトについてこんな神話があります。
昔、スサノオノミコトが「武塔神(むとうのかみ)」と名乗って諸国を旅した時のことです。ある村に巨旦将来(こたんしょうらい)と蘇民将来(そみんしょうらい)という兄弟がいましたが、武塔神がやってきて宿を借りようとした時に、金持ちの巨旦将来は断り、貧しい蘇民将来は精一杯もてなしました。怒った武塔神は、疫病を流行らせて巨旦将来の一族を全滅させましたが、蘇民将来の家族だけは武塔神が病気をよける方法を教えてくれたので助かりました。
なんでスサノオはいちいち名前を変えるのかとか、ちょっとやりすぎだろうとか、突っ込みどころはたくさんありますが、そんなわけで牛頭天王(=スサノオ=武塔神)を祀る祇園系の神社は、疫病退散に御利益があるとされています。あと上の話から、「蘇民将来子孫也」とお札に書いて貼っておくと病気がよけて通るという信仰もあります。
その後、明治時代の廃仏毀釈の影響で、京都の八坂神社は祭神を牛頭天王・馬頭天王から、垂迹神であるスサノオノミコトに変えました。上尾の八枝神社も主神をスサノオノミコトに変え、牛頭天王は「八狛大神」ということにしていますが、疫病退散の神様であることに変わりはありません。コロナウイルスが退散するように毎日、八狛大神にお祈り(個人的宗教行為として勤務時間外に)することにします。