校長室ブログ

徒然なる毎日

10/26 今日は球技大会です

 学校のWEBページなのだから学校のことも書かないと、というわけで、今日は球技大会です。

 

 

 

 種目はバレーボール、ドッヂボール、サッカーの3種目です。昨日が1日目、今日が2日目です。今日は朝方、雨が降ったのでサッカーの実施が危ぶまれたのですが、天候が回復したので、気持ちのよい青空の下の大会になりました。

 久しぶりの全校行事で、生徒たちの応援の声が響いてきます。やはり学校はこうでなくては…。

10/20 教養が尊重された時代

 前回の続きです。

 前回、高校生の頃の私が「小林秀雄の文章はくだらない」と言ったという話を書きました。(今から思えば、実に生意気で嫌なガキですね…。)

 さて、前回は小林秀雄について、かなり批判的な感じになってしまいましたが、その一方で小林秀雄が評論の分野で並ぶもののない大家として君臨できた時代というのは、いい時代だったのだなと思います。

 小林秀雄の手法というのは大体以下のように分析できます。

①圧倒的な教養・博識(あるいはリサーチ)に基づく蘊蓄で、読者の出鼻をくじく。

②ゲーテやトルストイなど西欧の大家・偉人についても、まるで自分の友達か何かのように扱って読者をびっくりさせる。

③古典からの引用等を何の説明もなく、読者の前に放り出して「当然これくらいわかるよね」というプレッシャーをかける。

④比喩を交えてぼやかしながら自分の考えを断定的に述べる。説明は中途半端に投げ出して、読者にそこから先の解釈を強要する。

 このような文章スタイルは、現代ではおそらく通用しないでしょう。現代は「知識だけあっても、思考力がなければ」とか「知力よりも人間力」のような考えが主流で、「教養」や「博識」が評価されない時代だからです。トリビアな知識を誇るクイズ王のような人を持ち上げるテレビ番組などもありますが、それらは珍獣と同じような扱いで、決してみんなが目指すべきモデルとして扱われているわけではありません。小林秀雄のような「知識をひけらかして、何を言っているかよくわからない文章」は、社会一般に多くの読者を獲得するのは難しいと思います。

 しかし、小林秀雄が活躍した第二次世界大戦前から1970年代くらいまでの読者は、小林秀雄の教養・博識に素直に感心し、それにあこがれたのだと思います。大学生などでは自分も小林秀雄のような教養を身に着けたい、同等の知識を身に着ければ、小林秀雄の言っていることが理解できるに違いないと考えて頑張っていた人が沢山いました。私が高校生や大学生だった1980年代にもまだ小林秀雄は神様のようなもので、私の周囲にも「自分(だけ)は小林秀雄の評論を理解している」と称する連中が何人かいたほどです。

 昔の方が良かったとは言いませんが、しかしその一方で、現代における教養や知識に対する軽視は行き過ぎていると感じます。半端な創造性より、確実な知識の方が圧倒的に有用であり、生きていく上での強力な武器です。現代ではそれが軽視され過ぎています。

 以前、評論家の呉智英さんが何かの本に次のような話を書いていたと思います。

 ある所に、貧しいが大変賢い少年がいました。少年は働くために学校をやめることになり、それを惜しんだ先生は「学校をやめても頑張るように」と励ましました。数十年後、先生のもとに大人になった元少年が訪ねてきました。「私は一人で勉強を続け、どんな2次方程式でも解ける公式を発見しました」。先生は愕然とし元少年にかける言葉を持ちませんでした。

 私は小林秀雄ではないので、きちんと解説します。元少年が発見した「どんな2次方程式でも解ける公式」とは、高校で習う解の公式のことです。元少年は、誰にも教わることなくこれを独力で導き出したのですから、素晴らしい数学の才能です。しかしこんな公式ははるか昔に見つかっており、学校で教われば1時間で理解できてしまいます。元少年の傾けた長年の努力と才能は完全な徒労です。先生は、この悲惨な事実を前に元少年に何と言ったらいいかわからなくなってしまったわけです。

 これは極端なたとえ話としても、若い人たちは創造性云々を言う前に、基礎知識をしっかり身に着けるべきだと思います。基礎知識を身に着けるための勉強に時間や力を傾けたとしても、創造性は減ったりしません(その人が本当にそれを持っているのであれば)。むしろ十分な知識という素材を創造性で組み合わせることで、素晴らしい結果を出せるはずです。今後の日本が力強く発展していくためには、「教養」の価値を見直すことが必要ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

10/18 秋深し、灯火親しむ頃です

 秋が深まってきました。

 今日の朝は冷え込みが厳しく、電車の座席にヒーターが入っていました。最近は空気がさえわたり、与野本町駅から見る夕焼けもひときわ鮮やかです。

 

 最近、小林秀雄の「モオツァルト・無常ということ」(新潮文庫)を読み返しています。先日来、先生方の授業の見学をしているのですが、その時にふと、高校生の時の授業の思い出がよみがえったからです。

 私が高校生の時に、国語の教科書に小林秀雄の「蘇我馬子の墓」(上掲「モオツァルト・無常ということ」に所収)の後ろ半分が載っていました。この文章の感想として、「大したことを言っていないのに、論旨を二転三転させたり、必要もない比喩を使ったり、読者を戸惑わせ煙に巻くことを狙ったつまらない文章だ」と述べたところ、国語の先生に「それは君に小林秀雄の思想を理解する力がないからだ」と言われたことがあります。「では、先生は理解されているのですか」と言いそうになりましたが、さすがに失礼なのでそのセリフは飲み込みました。

 そんなことを思い出したので、今、「蘇我馬子の墓」を読み返したら何か新しい発見があるだろうかと思い、読み直してみたわけです。その結果、高校生の頃の理解は基本的に間違っていない、という確信を深めました。ただ、その一方で、この文章の何とも言えない歯切れの悪さの理由が分かった気がしました。それは新潮文庫には「『芸術新潮』昭和25年2月号」と、この文章の初出の年月日が書いてあったからです。

 昭和25(1950)年といえば、昭和20(1945)年の敗戦からまだまもなく、日本は連合国軍の占領下にあった時代です。民主主義やアメリカ的な価値観が流れ込み、それまでの日本の伝統的な価値観が何もかも悪しきものとして否定されることに、小林秀雄はこの文章の中でささやかに抵抗していたのではないか、と思います。

 同じ文庫本に太平洋戦争中の昭和18年に発表された「実朝」という文章が収録されています。この中で小林秀雄は、源実朝の「山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」という歌を挙げ、「ここに在るわが国語の美しい持続というものに驚嘆するならば、伝統とは現に眼の前に見える形あるものであり、遥かに想い見る何かではないことを信じよう」と、力強く日本の伝統の価値を主張しています。

 ところが、敗戦後の「蘇我馬子の墓」では、大和三山の美しさについて述べた後、「『万葉』の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分たちの感覚や思想を調整したであろう(中略)伝統主義も反伝統主義も、歴史という観念が作り上げる、根のない空想に過ぎまい」として、民主主義になろうが何になろうが、時代に流されない美や道徳の基準はあるということを、遠慮がちに述べています。

 民主化の名のもとに伝統的価値観が完全否定された時代には、これだけのことを言うのにも勇気が必要だったのかもしれません。この文庫に入っている小林の他の文章では、知識をひけらかして読者をはぐらかすテイストは同じですが、結論は割とはっきり述べているように思えます。高校生のころは、こういった歴史的背景にまでは考えが及びませんでした。

 やはり、読書には新しい発見がありますね。灯火親しむ秋、読書にいそしみたいと思います。

10/13 授業見学しています

 私事ですが、先週末にワクチンの2回目の接種を受けてきました。翌日、副反応で39度を超える熱が出て次の日まで寝込んでしまいました。病気予防のためのワクチン接種で病気になるのも何だかなぁ…と思いましたが、ワクチンに期待通りの効果があれば、接種率が上がれば上がるほどコロナの流行は終息に近づくはずです。一日も早い平常復帰のためにはやむを得ないところかもしれません。

 さて本題です。今月に入ってから、授業見学を行っています。様々な教科の先生方の授業を見せてもらっているのですが、本校の生徒の皆さんの授業へ取り組む姿勢は本当にまじめです。また先生方にも丁寧でわかりやすい授業に努めていただいています。

※授業風景や授業の様子は下記のリンクからご覧いただけます。

 〇学校紹介スライド授業編

https://www.youtube.com/watch?v=GYfGt2tIuLA

〇与野高生がナレーターをつとめる 学校紹介動画

 http://www.net-shien.com/shinken/pv/yono/

 

 私自身はもう何年も自分では授業をしていませんが、将来的に再任用などで教える機会もあろうかと、それぞれの先生方の工夫や指導技術を学ばせてもらっているところです。教材や教具も進歩しています。特にパソコンやタブレットにつなげるプロジェクターが各教室に配備されたのは、すごい進歩です。以前であれば、視聴覚室など特別教室に場所を移動しなければ見せられなかった映像や動画を各教室で簡単に見せられるのだから、授業の幅が広がるはずです。

 こういった技術の進歩やそれそれの先生の工夫や技術を一つに束ねて、生徒の皆さんの学力向上に確実につなげていければ、と考えています。  

10/8 天候が不順なんでしょうか?

 昨日の夜の地震にはびっくりしました。本日の朝方も交通機関の乱れが残っていたので、本校では1時間遅れの対応をしました。

 さて、地震も心配ですが、今年もなんか天候が不順な気がします。

 与野本町の駅前に何本かキンモクセイの木がありますが、9月の中旬に花が咲いて、いい匂いがしていたと思ったのですが、先週末から今週にかけて、また花が鈴なりになっていました。

 

 9月中旬に咲き始めた後、下旬が雨続きだったので花が開かず、今月に入って気温が回復してきたので、また咲き始めたのでしょうか? 私の記憶では、9月の中旬にすっかり花が散って「もうキンモクセイの時期は終わりか」と思ったのですが。また咲いているのはどうも不思議な気がします。それともキンモクセイはもともと2回咲くものなのでしょうか? みなさんのお住まいの地域ではどうですか?

 

9/30 命名「ふみ」と「たける」

 かねてより募集していた学校マスコットキャラクターの名前が決まりました。

 総数46件に及ぶ応募から厳正なる審査の結果、女子の方が「ふみ(文)」、男子の方が「たける(武)」と決しました。

 

 決定の理由としては、本校のモットー「二兎を追い獲得する」にちなみ、文武両道を追求する与野高生を象徴するのにふさわしいこと、また外部の方にもその意味が分かりやすいことが理由です。

 ちなみに「文武両道」の「武」については、武道とかスポーツだけでなく、学業以外の幅広い学校生活や活動の全てを含むものと考えていただければ、よろしいかと思います。

 今後、このキャラクターには様々なところで活躍してもらいますので、末永くよろしくお願いします。

 

 

9/29 "Dreams never come true."(夢と言っているうちは…)

 いきなりですが、昨晩またいやな「夢」を見てしまいました。私は「夢」があまり好きではありません。

 夏目漱石に「夢十夜」という連作短編があります。この作品には、様々な人が心理的な解釈や寓意的な解釈をつけていますが、私は夏目漱石は単に自分の見た夢をなるべく忠実に、思い出したとおりに文章に起こしただけではないか、と思います。夢は見ているときは納得できているのに、後から思い出そうとするとつじつまが合わず、文章化しようとしても手に負えなくなってしまいがちです。さすがは文豪夏目漱石で、「夢十夜」では、その夢特有の不合理で不気味で不安な雰囲気がうまく再現されています。夏目漱石も多分、夢を見るのは嫌いだったのではないかと思います。

 さて昨晩見た夢ですが、その夢の中では私はまだ新人のようでした。

 私が教員となったのは、パソコンが学校の業務に入り込みだした1990年代です。パソコンのような新しいものは、なんとなく流れで「若い人にお願いします」となり、私は新人1年目から校務分掌とは全く関係なく、成績処理や入試業務、機材のメンテナンスまでやっていました。しかも、当時は新人採用数が少なかったので、後輩が入ってくることもなく、私は初任校にいた8年間、ずっと「若い人」のままでした。

 さて、そんなわけで昨晩の夢では、なぜか新人時代の私がプリンターの修理に取り組んでいました。調子の悪くなったプリンターを分解・清掃して再度組み立てているのですが、メーカーも機種もバラバラで訳が分からなくなり、ようやく組み立てたかと思ったら用途不明の部品がポツンと余っているという具合…。またやりなおしか! ということが延々と繰り返されていき、途中でさすがに「これは夢だ」と思うのですが、夢からの出口が見つからない…。

 何か先週放送していた「鬼滅の刃 無限列車編」のようです。こんな感じで私の場合、覚えている夢はたいてい悪夢なので、夢はあまり好きではありません。

 「夢」という言葉は、キング牧師の"I have a Dream"のように、「夢」=「目標」のような意味でつかわれることがありますが、私は「夢」という言葉を、そういった形で使うのも好きではありません。自分が目指しているものについては、はっきりと「目標」と言うべきだと思います。「目標」であれば、達成のための道筋や手段を具体的に考えて、実現できるよう努力するだけです。それを「夢」と言ってしまうと、実現できなかった時に言い訳の余地を残してしまうようで、不愉快だからです。私は「"Dreams never come true"(夢と言っているうちは絶対にかなわない)」と思います。若い人たちは、漠然とした「夢」ではなく、具体的な「目標」をもちましょう。

 

9/14 キンモクセイで考える

 先週の終わりくらいから、歩いているとあちこちでキンモクセイのいい匂いを感じるようになりました。

 昨日は与野本町の駅前の遊歩道のキンモクセイも花が鈴なりでした。キンモクセイが咲くと「秋が来た」という感じがします。

 そこで、ふと思ったのが、こういう場合「匂い」と「香り」のどちらの言葉を使うべきか? ということです。

 ネット等で調べると、「匂い」は快く感じる場合も不快に感じる場合も両方で使うが、「香り」は快く感じるときだけ、というような説明が書いてあります。確かに「くさい匂い」とは言いますが「くさい香り」とは言いません。しかし、この説明だけでは私としては物足りない気がします。

 どういうことか、というと「匂い」の方が本能的で、身体に密着した直感的な言葉だと思うのです。キンモクセイの花をかいで、最初に頭に浮かぶのは「あぁ、いい匂い」という感情で、それを言語化するときに「キンモクセイの匂い」と表現するか「香り」というかを選んでいるわけです。そこに判断のフィルターが入っているわけで、「香り」の方が、理知的というか、他人事というか、ちょっとよそよそしい感じです。

 この説明を、もっと感覚的に言うならば、前に流行した瑛人の「香水」という曲の「ドルチェ&ガッバーナの香水のせいだよ」というような場合、歌の主人公が感じているのは「香り」ではなく「匂い」だと思います。って何となくわかっていただけるでしょうか。

 言葉の世界というのは奥深いですね。こんなことを考えているとあっという間に時間がつぶれます。

 

9/8 文化発表WEEK

 今年度も新型コロナウイルスのため文化祭が中止を余儀なくされました。

 文化祭実行委員や生徒会のみなさんが一生懸命準備をし、パンフレットの印刷なども済んでいたのですが、緊急事態宣言の延長とあってはやむを得ません。

 

 しかし、各部や各クラスではぎりぎりまで準備を進めていましたので、その成果をせめて校内では共有しようということで、今週は「文化発表WEEK」として、校内で作品の展示やステージ発表予定だった団体のビデオ発表などを行っています。

 

 科学研究部のコーナーで、サボテンの配布を行っていましたので、私も目が(?)あった鉢を一株いただくことにしました。そういえば、昔、サボテンは人の言葉がわかるとか、音楽を聞かせながら醸造するとお酒がうまくなる、とかいう話がありました。そんな話は信じていませんが、いただいたサボテンは心の友として大事に育てたいと思います。

 

 それはともかくとして、コロナ禍が去って、生徒のみなさんがのびのびとした学校生活が送れる日が、一日も早く来ることを祈るばかりです。

9/2 製作過程

 前回、ついにそのベールがはがれた(大袈裟ですね…)夏休みの秘密プロジェクト、本校マスコットの制作過程を大公開します。この記事の通りにすれば、だれでも低コストでマスコット人形が作れるという大変実用性の高い(高いか?)内容ですね。

 まず、下が美術部の人にデザインしてもらった原図です。この原図は大変可愛いのですが、男の子の口の部分などが割と動物っぽさを残した表現となっています。これを立体でリアルに造形するとちょっと不気味な感じになりそうです。あとモフモフ感も表現が難しいところです。まあ、この辺は後で考えることとして(結局、後でも考えないのですが…)とにかく手を動かしていくことにします。

 

 

 ホームセンターで、発泡スチロールの板(5cm厚)を買ってきます。

 これを重ねて発泡スチロールのブロックを作ります。今回の人形は身長120cm程度、耳30cm、頭30cm、胴体60cmくらいの配分で考えます。ちなみに発泡スチロールは四角いブロック状のものも売っていますが、ブロックは価格が高いので、板を貼って作る方がお得です。

 ブロックを作ったら、マジックペンでおおよその当たりをつけます。あとはひたすら削って形を削り出していきます。使う道具は木工用の大型のカッターナイフだけです。

 まずは頭部からです。頭の髪の毛の部分や口元など、発泡スチロールではエッジが崩れてしまう部分は、100円ショップで売っているソフト粘土(ホイップ状のチューブに入ったものがお勧めです)で作ります。

  

 頭部ができたら胴体、腕、手、その他付属品と作っていきます。細かいことは考えず、ひたすら手を動かしていくといつの間にか形が出来てきます。

 

 形が出来たら表面に書道用半紙を貼っていきます。半紙は書道の先生から角が折れてしまった古いものを譲ってもらいました。これを小さく切って、水で薄めた木工用ボンドに浸し、貼っていきます。

 工程のこの部分は退屈な単純作業(なので写真は撮っていません)でつらいのですが、これをしないと表面の細かな凸凹や、発泡スチロールと粘土のつなぎ目などが目立ってしまいます。また、発泡スチロールが表面にむき出しになっていると、完成後の人形をちょっとぶつけただけで、削れたり欠けたりしてしまうので、表面の強化のためにも省略しない方がよいでしょう。

  紙が貼れたら色塗りをして仕上げです。面積が大きいのでコンプレッサーを使ってアクリル塗料をエアブラシで塗っていきます。この作業は楽しいのですが、あっという間に終わってしまいます。目の部分は塗装ではなく、色画用紙を切り抜いて貼り重ねたもので表現しています。というわけで完成です。原図とはかなりタッチが違いますが、これは解釈の差ということにしておきます。

 

  製作にかかった費用は2体で約1万円、工期は2週間くらいです。8月24日に予定されていた学校説明会や9月当初の文化祭でお披露目しようと猛スピードで作ったのですが、学校説明会も文化祭もコロナウイルスのため中止となってしまいました。「コロナのバカヤロー!」

 ちなみに今、この人たちの名前を募集中です。9月25日の学校見学会の前に発表する予定ですので、ご期待ください。