徒然なる毎日
7/1 備えあれば…
早いものでもう7月です。生徒のみなさんは来週の期末試験に向けて頑張ってください。
今日は朝から、雨が降り続いています。天気予報によればこれは梅雨末期の雨で今週末にかけてかなりの雨量が予想されるとのことです。本校は敷地の西半分が崖下なので、あまり雨が続くと水が出る心配があります。そんなわけで今回は少し防災関連について書いてみます。
上の地図はいつものように埼玉大学の谷先生の「今昔マップ」からいただいてきたものですが、左が「明治迅速図」、右が「治水地形分類図更新版」です。両方の図の赤い囲みが本校の大体の位置です。
右の図で見ると本校のテニスコートからグラウンドの西側にかけて水色になっています。この部分をもっと大きな範囲の地図で見てみます。地図上の黒丸が本校の位置です。
本校の西側に濃い水色の蛇行した部分が見えますが、これは鴨川の数百年前の旧河道です。今の鴨川は静かな都市河川といった感じですが、昔は入間川から分流した大きな川で、かなりの暴れ川だったようです。
本校に南側のうす水色の部分は、上記よりさらに古い鴨川の河道に流れ込む水が開析した谷(谷戸)であることがわかります。こういった谷戸は古い時代から、水田として利用されることが多いのですが、左側の明治迅速図で見ると本校の南側も水田として利用されています。この水色の部分は今はすっかり陸化しているように見えますが、ひとたび大雨が降ると太古の姿に戻ろうとします。
そんなわけで大雨の際に本校の敷地西半分に水が出やすいのは、なかなか防げないだろうと思います。
同様のことは、我々個人の住宅についても言えます。まず自分の家が、どのような地形にあるのかをしっかりと把握する必要があります。市町村が配布したハザードマップでもよいのですが、できれば、もっと原点に立ち返って、国土地理院の地形図とか、上で引用した「治水地形分類図」などを見ておきたいものです。
下の地図は、一昨年の台風でマンションの浸水被害があり話題となった武蔵小杉駅周辺の「治水地形分類図」です。
黒い〇が武蔵小杉駅です。見ての通り、武蔵小杉駅周辺は多摩川の自然堤防に挟まれた氾濫原であり、すぐ東側には多摩川の蛇行した旧河道が何本も通っています。被害に遭った方には大変気の毒ですが、地形的には極めて水害が起きそうな場所です。
もし、地形を調べて自分の家が災害が起こりそうな場所にあるのであれば、その際の対応策を考えておくべきでしょう。
たとえば本校の場合、敷地東側は台地上ですから、重要物品はそちら側に置くとか、万が一の場合は素早く物品を移動・避難させる段取りを考えておくなどの対策が考えられます。
科学や文明が進歩しても、いまだに自然の力にはなかなか対抗できません。しかし、その中でどうやって上手に生きていくか大切だと思います。
6/18 まさに徒然
今日はいい天気ですが、ここのところ雨続きでしたし、学校の方も今週は三者面談週間で、行事らしい行事もなかったので、更新間隔が少し開き気味になってしまいました。ここは、かなり無理やり書き込んでみます。
まず、無理やりの話題1番目の「歩幅を広く」から。
このブログを一体どんな方が読んでいるのかわかりませんが、中高年で、最近どうも歩くのが遅くなった、という方はいませんか。私は、近年それをひどく自覚しています。昔は、出退勤時に生徒に追い抜かれることなどなかったのに、最近は小柄な女子生徒にもホイホイ追い抜かれてしまいます。また、数年前までは、ちょっと頑張れば1kmを4分30秒のペースで5~10kmくらいのランニングができましたが、今は1km5分がやっとです。
それがなぜかというのは実はわかっています。1歩当たりの歩幅が短くなったからです。この数年運動時にはGPSで距離が測れる時計を使っていますが、以前の記録と比較するとウォーキングで5cmくらい、ランニングで10cm近く歩幅が短くなっています。加齢による衰えもあるのでしょうが、いつもと同じように歩いたり走ったりしているつもりなのに、だんだん記録が落ちてきています。
というわけで、昔の力を取り戻すべく、最近は歩くときも走るときも意識的に歩幅を広くとるようにしています。その際、股関節から脚を動かすのではなく、その上の腰骨全体を脚の動きに合わせて左右に振り出す感じで体を使うと、歩幅が少しづつ長くなります。この歩き方(走り方)は筋肉への負担が高くて疲れるのですが、確実に早く歩け(走れ)ます。意識しなくてもこの動きができるよう身体を慣れさせていこうと思います。
無理やりの2番目は、「星がチカチカ、って本当にあるんですね」という話です。
上記のようなわけで、先週の土・日にはちょっと長めのランニングをしてみたのですが、次の日の明け方、足がつりました。ふくらはぎの筋肉が勝手にビクビク動いて、強い痛みが走ります。痛みをこらえるためにギュッと目をつぶると、まぶたの裏に沢山の青い光点がチカチカしているのが見えました。昔の漫画で、何かに激突したり人に殴られたりした時に、目の前に星が飛んでいる表現がよくありましたが、それにそっくりです。どういう作用でチカチカするのか不思議ですね。
足がつるのは、筋肉の疲労や水分やミネラルの不足によって引き起こされるようですから、栄養分の補給とともに、ランニング等の運動にあたっては無理をしすぎないことです。とはいえ、私のような気の短い中高年は、無理をしてしまいがちなのですが…。
今回は、若くて元気な人には関係のない話題ばかりで恐縮です。しかし、新型コロナウイルスによる自粛ムードで家にこもりがちな昨今、運動不足で筋肉が減り、熱中症になりやすくなってしまう人が多いそうです。ウォーキングやランニング(そのついでに史跡巡り)は一人で黙々とできる運動ですから、せっせと取り組みたいと思います。
6/7 三貫清水緑地の「鎌倉街道」(道と史跡10)
皆さん、休日はどう過ごしていますか。
私の場合、ごろごろ寝っ転がって過ごすというのが、どうも苦手です。とはいってもどこかへ遊びにいくお金もないので、公営のスポーツセンターへ行ったり、近所を走ったりしています。その成果を発表します。
このページでは鎌倉街道「羽倉道」について断続的に書いています。今回もその続きです。本校の前から本町通を北上し、6/1の本欄で取り上げた氷川神社から並木南町分岐を右にとって進みます。2~3kmくらい行くと、4/19の本欄で取り上げた櫛引の板碑や日進神社です。さらにこの道を突き進むと日進駅の西側で埼京(川越)線を渡り、17号バイパスも横切って、さいたま市立大宮北高校の近くへ出ます。
大宮北高校のグランドの南側に「三貫清水緑地」という公園があります。その公園を南北に貫いている道が昔の「鎌倉街道」とされています。台地から鴨川の低地に下る斜面林の中にあり、がけ下にはかつて太田道灌公が激賞した名水が湧出しているという、隠れた名所です。まさに鎌倉街道という風格を感じさせる道で、ご近所の方の絶好の散歩道となっています。
この道の北側の突き当りは大宮北高校のグラウンドですが、高校敷地の西側に沿ってきれいな水の流れる側溝があり、北西の角に「弁財天」の祠があります。弁財天(弁天様)は元はインドの川の神です。日本では、ほとんどが水辺(有名なところでは江の島や琵琶湖の竹生島、近場では与野公園の天祖神社の池の小島など)に祀られています。ここに弁財天があるということは、この地域に水にまつわる信仰があることを示しています。
大宮北高校グラウンドの北側の辺から北上する路地を進むと太い道との交差点に古い道標と馬頭観音が立っています。道標には、東は「あげおいわつき道」「ぢおんじ道」、西は「あきば道」、南は「よの道」などど書いてあります。この東西に交差する道も秋葉神社に参詣する人が通った古い道筋です。いやあ風情がありますねぇ。
さて、しかし、ここまで書いておいて何ですが、ここで私は「上に写真を載せた『鎌倉街道』は本当に鎌倉街道なのか?」という疑問を提出したいと思います。
「さいたま市教育委員会が指定してしているものに文句をつけるなよ!」という声が聞こえてきそうですが、私にも疑問を提出するだけの根拠はあります。
まず、この道の通っている場所です。昔の街道はたいてい台地の鞍部(一番高いところ)を通っていることが多いものです。その方が水害等に強くなりますし高低差も少なく工事が楽です。三貫清水緑地の「鎌倉街道」は雰囲気は素晴らしいですが、この原則に外れ、斜面林のかなり崖下に近い場所を通っています。これでは鴨川があふれたらすぐに水につかってしまいそうです。
次に、この「鎌倉街道」は以前紹介した櫛引の板碑と日進神社のあるルートの延長上にありません。下の地図は、左側が例の「明治迅速図」で右が今の地図です。三貫清水緑地の「鎌倉街道」とされているところは地図上に「〇」をつけた場所です。
ご覧の通り、左の迅速図ではここには道が書いてありません(少なくとも太い道はありません。曲がった細い線は等高線です)。地図上に赤線で書き加えたものが、櫛引の板碑からまっすぐに北上するルートで、三貫緑地公園の「鎌倉街道」より100mくらい東側になります。赤い線の北の突き当たりが先述の道標と馬頭観音になります。この赤い線は今の地図では大宮北高校の敷地で分断され、東寄りに迂回した新しい道が作られていますが、このルートであれば、斜面林を登り切った台地上を通るルートとなり、先ほどの昔の街道の原則も満たします。こちらが本当の鎌倉街道なのではないでしょうか。
さいたま市教委(旧大宮市教委)は、どのような根拠から三貫緑地公園の中の道を「鎌倉街道」に比定したのでしょうか。発掘調査の結果とかなら文句はありませんが、もともとはただの森の中の間道だったものを、いかにも古道らしい雰囲気に流されて「鎌倉街道である」としてしまった可能性も無きにしも非ずだと思います。私的には、上述のような理由から、この道が鎌倉街道というのは怪しい(本当に素晴らしい散歩道ではあるのですが)と思っているのですが。
6/3 体育祭速報(2)
体育祭午後の部です。心配された天候も持ち、すべてのプログラムを無事終えることが出来ました。
団対抗は午前中のリードを保ち黄団が優勝しましたが、青団、赤団も頑張り、とても面白い体育祭になりました。
特に大トリのブロック対抗20人リレーは、男女各10人でトラックを10周もするレースでしたが、どの団も精鋭を集めたのか、1位と2位がほんの1歩差という接戦でした。
【青組ブロック演技】(女子のセーラー服や男子の青いシャツとネクタイはダンス用の衣装です。本校の制服ではありません。念のため…)
【黄団ブロック演技】(男子もいたんですが映ってないですね。すみません。女子だけひいきしているわけでは、決して…おそらく…多分…ないです。)
【赤団ブロック演技】(この黒いセーラー服等もダンス用です。)
【忍者リレー】(前を走るチームの布を踏んでバトンを落とさせることが認められているので、順位が目まぐるしく入れ替わって面白い競技です)
【ブロック対抗20人リレー】(上記の通り、ゴールはこの僅差でした!)
それにしても、今日の体育祭を見て思ったのは若いって素晴らしい、ということです。地面を力強くけった足がきれいに跳ね上げられ、前にすっと伸びていくのは、年寄りには決してまねのできない美しい光景です。
本当にいい体育祭だったと思います。
6/3 体育祭速報
今日は体育祭です。天候にも恵まれ朝から熱戦が繰り広げられています。
団対抗ポイントは黄団が抜け出し、赤団と青団が競り合っている状態で午前を終えました。午後のブロック演技や各種リレーの結果次第で、まだまだ勝敗の行方は分かりません。
男子100m予選
ボール運び
大縄跳び
部活対抗リレー
6/2 体育祭予行
今日は体育祭予行でした。体育祭本番に向けて、団体種目の練習や会場準備を行いました。
ここのところはっきりしない天気が続いていますが、今の時期、気持ちよく晴れると、熱中症の心配もありますし、今日のようにほどほどの曇りで、熱くもなく寒くもなくという天候がベストだと思います。本番も同じような天気になってくれるとよいのですが。
6/1 もう6月ですか。& 氷川神社探訪(道と史跡9)
はや6月になりました。
学校の方は体育祭の準備が本格化していますが、今年度はコロナウイルスの状況に鑑み、保護者の方への公開も行ないませんので、ご理解願います。体育祭当日の様子は、このブログや他のコーナーでもお伝えしていきます。
さて、昨日の昼休みに上町の氷川神社まで行ってきました。本校から本町通を1kmほど北上したイオンモール与野のすぐ南側の道の屈曲部にあります。昼休みの時間内に足を延ばせるのは、ここら辺が限界でしょうか。
本家本元の大宮の氷川神社ほどではありませんが、なかなか立派な神社です。ここの本殿は300年ほど前の宝永年間に作られたもので、小ぶりですがかっこいい建物です(写真は撮り忘れました (-_-;) )。
境内にはたくさんの摂社(一緒に祀られている小さい神社)や地元の方が献納した灯篭などがたくさんありますが、その中でも目を引くのが、この庚申塔です。享保4(1719)年とあるのでちょうど300年くらい前のものです。
なぜか境内に立っていますが、庚申塔は道端に道標を兼ねて立てられることが多いのでどこかから移築されてきたものと思われます。両側面を見ると「これより左川越道」「これより右大宮道、奥州道」と道案内が書かれています。
この「右・左」をさいたま市HPなどでは、この氷川神社の所の分岐であるとしています。だとするとこの庚申塔は鳥居前あたりにあったことになります。ですが、私はこの庚申塔は、本町通を北へ1kmほど行った「並木南町」バス停の近くの分岐に置かれていたものではないかと思います(私の考えすぎで、さいたま市HPの記述には確かな根拠があるのかもしれませんが…)。
理由ですが、まず例の「明治期陸軍迅速測図」でみると、神社の所から右に分かれる道も確かに大宮方面へは行きますが、非常に細く描かれていて街道筋のようではありません。次にこの道だと「大宮道」はともかく「奥州道」への接続があまりきれいに描けません。一方、「並木南町」の分岐点から伸びる道は、はっきり太く描かれているだけでなく、以前紹介した「櫛引の板碑」の場所へつながる旧羽倉道の想定ルートであり、上尾近辺から菖蒲・幸手方面へ抜ける道がたどれます。
あとこの庚申塔でちょっと謎なのは、「川越道」の面は流麗な行書っぽい書体なのに、反対の「大宮道・奥州道」の面は律儀な楷書体で彫ってあることです。どちらかの面は後から彫り足されたりしたのかもしれません。
学問的に正しいのかはともかく、こんなことを考えながら歩くと、退屈しません(ブラタモリみたいですね)。
氷川神社の近くには「出世稲荷」や、「与野聖人」と呼ばれた大学者の西澤曠野先生の墓所などもあります。生徒の皆さんは出世稲荷にお参りしておくとよいかもしれません。
5/24 一山行者カムバック!(道と史跡8)
今日から中間考査です。
いつも静かな与野高校ですが、試験中は一段と静かでまるで人がいないようです。ただ休み時間になると、緊張から解き放たれるせいか、悲鳴とも雄たけびともつかない声が聞こえてきたりします。
さて、今回はちょっと妙なタイトルですが、天気も良いので久しぶりの近隣史跡巡りシリーズです。
いつもおなじみの本町通を本校の位置から200mくらい北上します。ファミリーマートの向かい側に「一山神社」の看板と赤い灯篭が立っています。そこから、石畳の参道を入っていくと、普通の民家の庭先のようなところに入ってしまい一瞬戸惑いますが、そのまま奥に進みます。
すると突然異次元の世界に入ったかのように、立派な石の鳥居とうっそうたる境内林、立派な社殿を持った神社が現れます。
社殿正面の透かし彫りも見事です。
表通りからちょっと入っただけでこんな森厳な空間が現れるとは、ちょっとびっくりですが、これが「一山神社」です。
この神社は何をお祀りしているのかというと、少彦名命、誉田別命、一山大神とのことですが、やはり中心は社名にもなっている一山大神でしょう。この一山大神とは、江戸時代後半に各地に木曽御嶽山の信仰を広めた一山行者を神格化したものです。
一山行者は相模国(神奈川県)津久井村(相模湖の近く)で生まれ、与野の井原家の婿となりました。しかし、ある時発心して円乗院(本校の南隣のお寺)で僧となり、木曽御嶽山などで修験道を修め行者となりました。各地で尊崇を集め、与野にもたくさんの信者がいました。そして行者が亡くなった後、与野の一山講(信者団体)が、木曽御嶽の神と一山行者を祀るために、元は八幡神社であったところを、一山神社としたとのことです。
こうしてみるとすっかり与野の人ですが、なぜかネットで一山行者を検索すると、与野の一山神社ではなく、東京都大田区の御嶽神社のHPが最初にヒットします。また2年前に大田区立博物館で特別展「嶺の御嶽山と一山行者」という展覧会も開かれたようです。これらのHPを見ると「一山行者は荏原郷嶺の木曽御嶽を祀る祠を再興して御嶽神社を開き、大いに御嶽信仰を広めた」的なことが書いてあり、与野出身であることにも一応は触れていますが、まるで大田区が一山行者の活動の中心、本場であるかのようです。
これって、なんとなく「横どられ」感がないですか?
あえて平地に乱を起こそうとは思いませんが、せっかくの与野の生んだ歴史上の人物なのに、大田区に取られてしまっているようなのは残念です。与野(中央区)でも、もっと一山行者を顕彰し、郷土の偉人として奪還した方がよいのではと思います。
5/21 科学部の表敬訪問に行ってきました。
昨日(5/20)、科学研究部(虹班)の諸君と表敬訪問に行ってきました。
これは、科学研究部の「過剰虹のメカニズム」が、日本学生科学賞の全日本科学教育振興委員会賞を受賞したことによるものです。大野県知事(写真上中央)、木下県議会議長(写真中前列中央)、高田教育長(写真下中央)を訪問し、成果を報告するとともに激励の言葉をいただきました。
写真(3枚とも)で右側に立っているのが水吉君、左側が村田君です。上の2枚の女子生徒は、本校とともに日本学生科学賞(学校賞・旭化成賞)を受賞した坂戸高校の生徒です。
私などは、着任したばかりで今回の受賞にあたって何の役にも立っていないのですが、役職上、科学部の諸君のお供をさせていただきました。詳しくは科学研究部のページに乗ると思いますので、まずは速報まで。
5/14 身辺雑記
ここのところ、もう梅雨が来たか? という感じの曇りや雨の日が続いていましたが、今日は気持ちよく晴れています。
とはいえ、全国のコロナウイルスの陽性者は目立った減少を見せておらず、蔓延防止対策はまだしばらく続きそうです。世界に目を転じれば、パレスティナとイスラエルの紛争が再燃しているという話もあります。新しく買った靴は、かかとのパッドのあたりがきつく、靴擦れをするし…。なぜ、こううまくいかないのかと思うと気が滅入ってくる感はあります。
そんなときは、気分を変えてくれるような物事を身辺に探すしかありません。
1、バラがきれいです。
与野というと、与野公園のバラ園が有名ですが、旧与野市時代から「バラの町」づくりに取り組んでいたため、町のあちこちにバラが咲いています。与野本町の駅前広場のバラ園もきれいですし、住宅街の民家にもちょっとしたところにバラが植えてあります。
現代だと「○○の町」として、町おこしをするのは当たり前になりましたが、旧与野市は半世紀以上前からそれをやっていたわけです。町の特色を強く印象付けるだけでなく、見る人の心を和ませてくれる旧与野市の素晴らしい遺産だと思います。
2、こんな神社を見つけました。
先日、1号棟の廊下から何気なく外を見たところ、本校のすぐ北側に「八雲神社」という看板を発見しました。
夕方、帰宅のついでに見に行ってみると、仲町公民館と神社を兼ねた建物でした。鳥居もなく、外見も屋根がかまぼこ型をしたちょっとおしゃれな民家といった感じで、一般的な神社のイメージとはだいぶ違います。しかし、本来、そこに神様が祭ってあれば神社なのであって、社殿の有無や建築形式などは些細な問題です。神社の前に、この神社は近隣の方の厚意によって建てられたという石碑がありました。与野というのは、前の「塚巡り」の時も思ったのですが、非常に敬神の念の厚い土地柄のようです。
しかし、八雲神社とはありがたい(個人の感想です)。
社号を八雲神社というからには、おそらく京都の八坂神社の末社で、祭神はスサノオノミコトでしょう。スサノオノミコトは垂迹説では「牛頭天王」と同一視されます。牛頭天王とは字の通り牛の頭に人間の体をした古いインド系の神様です。この牛頭天王のまたの姿が「武塔大神(むとうたいしん)」といわれ、疫病退散に霊験があるといわれる神です。
前任校の近くにも、やはり「八枝神社」という八坂神社の末社がありました。昨年度、前任校で生徒・教職員に何人かコロナ陽性者が続いたことがありましたが、昼休みに八枝神社に行ってお札をいただいて(もちろん公費ではなくポケットマネーで)きたところ、そのあとはなぜかぱったりと陽性者が出なくなりました(因果関係は不明ですが)。というわけで、このコロナのご時世に本校の隣に疫病退散に霊験あらたかな八雲神社があるというのは、大変心強い気がしました(しつこいようですが個人の感想です)。