6/5 プチ史跡巡り(22)「氷柱を見た」
今年度に入ってから更新間隔が長くなっています。
学校の方は中間考査も終わり、明日は体育祭です。本当は先週金曜日に予定されていたのですが、台風2号と線状降水帯とやらのせいで延期になりました。昔は体育祭というと秋9月~10月にやっていたものです。しかし、20世紀末ころから残暑が厳しくなったため、5月末~6月初めに時期を移しました。ところが近年では梅雨の開始が早くなり、この時期だと雨の心配が出てきました。現在、進行中と思われる気候変動は一体どこまで進むのでしょうか?
話は変わりますが、この数年、「昭和レトロ」ブームで、昭和風の飾りつけをした居酒屋や、昭和風の玩具や雑貨などが若者にも人気のようです。しかし、これらは、実際に昭和を生きてきた私などからすると、ずいぶんとおかしなものに見えます。昭和は60年以上続きました。大正デモクラシーの名残りのモダンさが漂う昭和初期から、戦争一色の昭和10年代、敗戦からの復興を遂げた昭和20年代~30年代、高度経済成長を達成した昭和40年代~50年代、バブル景気に沸いた昭和60年代と、全く様相の違う時代を、「昭和」でひとくくりにしてしまうことには無理があります。
私は昭和38(1963)年生まれですが、私が子供だった昭和40年代は、きわめて変化の大きい時代でした。私の覚えている一番古い大宮の風景では、まだ大宮駅に駅ビル(今のルミネ)がなく、木造平屋建ての駅舎で改札の外は、すぐに東口のバス広場になっていました。京浜東北線にはまだ茶色の片開ドア車両が残っており、大宮駅の整備工場では、蒸気機関車もよく見かけました。(下の地図はそのころのもの。大宮駅の形状に注意)
その頃のことですが、当時中山道の交差点にあった「富士銀行」だっと思います。石造風の立派な玄関を入ったロビーに、夏になると大きな「氷柱」がおいてあったのを憶えています。「氷柱」とは文字通り、氷屋さんから買った大きな氷の塊で、夏に涼をとるために置くものです。私が子供のころでも、さすがに役所や銀行には冷房施設を備えた場所が多く、氷柱を置いているのはここだけだったと思います。おそらく私は「氷柱」というものが実際に使われているのを見た最後の世代でしょう。
また同じように、当時は病院の待合室などには冬に大きな火鉢がおかれているところがありました。真っ赤に燃えた炭から発せられる顔が焼けるほどの熱線の感触をまだ憶えています。
1970年代にはいると「氷柱」や「大火鉢」は姿を消し、砂利道や木造モルタル建築から、アスファルトと鉄筋コンクリートへと町の景観は急速に変わっていきましたが、私が小学校に上がる前には、まだそういった戦前の名残のようなものがありました。