校長室ブログ

12/12 プチ史跡巡り(16)氷川神社の謎(続)「一宮論争」

 先週の土曜日(12月10日)、大宮の氷川神社では3年ぶりに飲食の屋台をともなう大湯祭が行われたという報道がありました。よいことだと思います。生徒の皆さんは期末テスト期間中でお祭りどころではなかったかもしれませんが…。

 氷川神社の現在の主神「スサノオノミコト」は、メジャーな神様だけあって複雑に習合し無数の神格を持ちますが、その一つが、疫病退散に霊験あらたかとされる牛頭天王や武塔大神です。その神様を祭る氷川神社の大湯祭は1年の穢れを払い、来るべき春に向かって人々の生命力を掻き立てるための祭りです。盛大に行ってコロナ退散を祈るべきでしょう(人が集まるので感染対策は必要だとしても)。

  さて、ようやく今回のお題の「一宮論争」です。

 「謎」というほどではありませんが、武蔵の国一宮である氷川神社に対し、「一宮は小野神社(多摩市)で氷川神社は三宮だ」という議論が近年わりと盛んです。この主張の根拠は鎌倉時代の「吾妻鑑」や南北朝時代の「神道集」の記述、武蔵総社の大國魂神社の六所宮(武蔵国内の各神社の出店のような小さな祠を祭った神社)における順番などです。一方、氷川神社を一宮とする記述は、室町時代以降に現れ、近世、近代を通じて定着し、あまり異論は聞かれませんでした。

 さて、この問題について私見を以下に述べていきます。まず、私は小野神社の「一宮」と氷川神社の「一宮」は別のものだと考えています。理由は後述しますが、こう考えると先の「一宮論争」がよく整理できます。

 先の「一宮=小野神社」の最大の根拠は、「神道集」の記述や大國魂神社の六所宮における順番とのことです。では次にこれらの根拠や由来は何なのか、という事を考えなければなりません。「神道集」はともかく六所宮は古代律令制の国司の神拝に由来することが明らかです。

 国司の神拝とは国司が任地の国の神々を参拝して回る行事です。下の地図は武蔵の国で、国司が参拝する各神社の位置を落とし込んだものです。これをうまく回るにはどのようにしたらよいでしょうか。

 

 武蔵国府は今の府中市です。そこを出てまずは近くの①小野神社(多摩市)へ行き、そこから多摩川沿いにさかのぼって②二宮神社(あきる野市)、今の国道16号線や県道2号線(旧16号)に近いルートで③氷川神社(さいたま市大宮区)、中山道(*1)(国道17号)で熊谷の手前まで行き、荒川をさかのぼるルート(国道140号)で④秩父神社(秩父市)へ、そこから寄居のあたりまで戻って⑤金讃神社(神川町)に行き、東山道武蔵路(今の国道254号に近いルート)経由で国府に戻り、⑥杉山神社(横浜市緑区)へは改めて出かける…。別のルートも考えられなくはない(*2)ですが、これが、一番楽に合理的に参拝を行える順番です。

 この国司の神拝は律令制度が衰えると次第に真面目に行われなくなっていきます。いちいち各地を回るのは面倒なので、国府の近くに各神社のミニチュアをまとめた「総社」を作り、ここにお参りして全部回ったと見なすようになります。これが武蔵国では大國魂神社の六所宮と呼ばれる施設です。国司神拝のまねごとですから、その順番は当然現実のルートを反映したものになります。つまり、六所宮の「一宮」~「六宮」は参拝順を示すだけで、本来の神格とは関係ないと考えられるのです。
 一方、古代の神社の格式については「延喜式神名帳」というものが残っています。先の一宮~六宮までの神社は国司が参拝するだけあって、二宮神社を除いて、この神名帳に載っています(式内社)。中でも氷川神社と金讃神社は名神大社(災害や国難の時に国が祈りをささげる神社)として、別格の地位を持っています。社格的には、古代からこの二つの神社が武蔵国のナンバー1、ナンバー2だったわけです。
 さて中世になると国司制度は有名無実化し国府も廃絶します。そうなると六所宮における巡回順などは忘れられ、本来の神社の社格や神威に則った氷川神社を一宮、金讃神社を二宮とする考えが定着していったのでしょう。これが近世・近代における武蔵「一宮」で民衆の支持や信仰心による自然発生的なものと言えると思います。
 国司神拝の順番の「一宮」と、神格・社格による「一宮」が混在しているのが、「一宮論争」の元です。別に 国司神拝の「一宮」も律令などで定められたり廃止されたりしたわけではなく、神格・社格による「一宮」も正式に朝廷や幕府によって制度化されたものではありません。だから、特にどちらが正しいということはないのだと思います。

 この「一宮論争」において一方の当事者となっているのが小野神社です。小野神社はWEBページに「一之宮とは、中世に全国的に確立した、国内における神格の格付けで、国内第一の鎮守という意味です。」と書き、強く自らが一宮であると主張しています。これを読むと、中世に何らかの権威によって「一之宮」制度が作られたかのような印象を受けますが、これは先に見た通りの理由からあまり正確な記述とは言えないと思います。

 ところが、近年の御朱印ブームなどで神社好きになった人などがこの主張に乗り、それが埼玉をディスる(けなす)のが好きな人々に受けて、「小野神社=一宮」説が、いかにも歴史通、神社通の常識であるかのように喧伝されているのでしょう。

 小野神社が自らの権威を高めるべく小野神社=一宮を主張する気持ちはわかりますし、また一定の根拠もあり間違いではありません。しかし一方で氷川神社=一宮にも歴史的な経緯と十分な正当性があります。

 重ねて言いますが、このことについて私はどちらが正しいとは言いません。しかし前回書いた通り、京都から東京に移られた明治天皇が最初になさったのが氷川神社への行幸だったことからも、近世以降においては氷川神社が武蔵の国において一番の神威・神格を持つ神社と思われていたことは明らかです。

(*1)古代には中山道は官道ではありませんが、浦和の調神社や大宮氷川神社などの所在から、中山道のルートが主要な交通路として存在したと思われます。

(*2)たとえば二宮神社から飯能経由で正丸峠を越えて秩父神社へ行き、金讃神社へ回った後、氷川神社へ行き、そこから国府に戻る、というルートも考えられなくはないでしょう。しかし、大人数で行動する場合、なるべく平坦な道を行きたいでしょうから、この道はちょっと厳しいと思います。