校長室ブログ

6/1 もう6月ですか。& 氷川神社探訪(道と史跡9)

 はや6月になりました。

 学校の方は体育祭の準備が本格化していますが、今年度はコロナウイルスの状況に鑑み、保護者の方への公開も行ないませんので、ご理解願います。体育祭当日の様子は、このブログや他のコーナーでもお伝えしていきます。

 さて、昨日の昼休みに上町の氷川神社まで行ってきました。本校から本町通を1kmほど北上したイオンモール与野のすぐ南側の道の屈曲部にあります。昼休みの時間内に足を延ばせるのは、ここら辺が限界でしょうか。

 

 本家本元の大宮の氷川神社ほどではありませんが、なかなか立派な神社です。ここの本殿は300年ほど前の宝永年間に作られたもので、小ぶりですがかっこいい建物です(写真は撮り忘れました (-_-;) )。

 境内にはたくさんの摂社(一緒に祀られている小さい神社)や地元の方が献納した灯篭などがたくさんありますが、その中でも目を引くのが、この庚申塔です。享保4(1719)年とあるのでちょうど300年くらい前のものです。

 

 なぜか境内に立っていますが、庚申塔は道端に道標を兼ねて立てられることが多いのでどこかから移築されてきたものと思われます。両側面を見ると「これより左川越道」「これより右大宮道、奥州道」と道案内が書かれています。

 この「右・左」をさいたま市HPなどでは、この氷川神社の所の分岐であるとしています。だとするとこの庚申塔は鳥居前あたりにあったことになります。ですが、私はこの庚申塔は、本町通を北へ1kmほど行った「並木南町」バス停の近くの分岐に置かれていたものではないかと思います(私の考えすぎで、さいたま市HPの記述には確かな根拠があるのかもしれませんが…)。

 理由ですが、まず例の「明治期陸軍迅速測図」でみると、神社の所から右に分かれる道も確かに大宮方面へは行きますが、非常に細く描かれていて街道筋のようではありません。次にこの道だと「大宮道」はともかく「奥州道」への接続があまりきれいに描けません。一方、「並木南町」の分岐点から伸びる道は、はっきり太く描かれているだけでなく、以前紹介した「櫛引の板碑」の場所へつながる旧羽倉道の想定ルートであり、上尾近辺から菖蒲・幸手方面へ抜ける道がたどれます。

 あとこの庚申塔でちょっと謎なのは、「川越道」の面は流麗な行書っぽい書体なのに、反対の「大宮道・奥州道」の面は律儀な楷書体で彫ってあることです。どちらかの面は後から彫り足されたりしたのかもしれません。

 学問的に正しいのかはともかく、こんなことを考えながら歩くと、退屈しません(ブラタモリみたいですね)。

 氷川神社の近くには「出世稲荷」や、「与野聖人」と呼ばれた大学者の西澤曠野先生の墓所などもあります。生徒の皆さんは出世稲荷にお参りしておくとよいかもしれません。