校長室ブログ

4/30 与野「塚巡り」の4(道と史跡7)

 さすがに塚巡りは4回で終わりにします。前回、与野高校周辺に密集する塚は「古墳群かも」という説を書きました。この説ははっきり言って全然定説ではありませんが、私自身はそれなりに根拠はあると思っています。

 根拠のひとつ目は分布の様子です。下の地図は、明治10年代後半に陸軍が作成した「迅速測図」の一部です。(画像は埼玉大学の先生が運営する「今昔マップ」というサイトからいただいてきました。)

 この地図上で塚の分布をみてみます。

 まず、今の街並みとの関係をつかんでいただきたいのですが、地図の右の方の建物が立ち並んでいる通りが、今の本町通りです。地図の右下の方に、右から左へ「圓(円)乗院」と書いてあるのが見えます。

 円乗院の左上に鳥居の絵と「天神」とあるのが天祖神社ですが、周囲のケバケバで地面の盛り上がりを表しています。その左にも盛り上がりの描写が二つあり、この3つの盛り上がりを囲むように水を表す水色の線があるのがわかります。これは天祖神社の塚が主墳、横の二つが陪墳でそれを濠で囲んでいるのではと思わせる配置です。

 この3つの塚と道を隔てた北(上)にも鳥居があり「御嶽」と書いてあるのが御嶽塚、その左の地図のほぼ中央にある鳥居が大国社塚です。そして地図の左上角ぎりぎりに見える鳥居が浅間神社塚です。

 こういった密集は行田の「さきたま古墳群」でも見られますし、そのほか全国の古墳群でもよくあります。いかにも古墳群っぽい感じがします。

 二つ目として、これらの塚が、浅間神社、大黒社、天祖社、御岳神社などとして地域の尊崇を集めていた場所であることです。神社や寺が古墳の上や隣に立てられている例は、あちこちにあります。古墳に誰を祀っているのかは忘れ去られても、「何か祀らなくてはならない場所」であるという意識が継承されてきた可能性があります。

 三つ目は地形的な観点です。下の左側の地図で濃い水色の蛇行して描かれているのが、戦国時代ころまでの鴨川(旧入間川)の流路です。地図中の赤い四角で囲ったところが上の明治迅速図と大体同じ範囲で、右の地図はそこだけ拡大したものです。

 薄水色の部分は昔、水田や湖沼だったところですが、この図で見ると、濃い青の部分よりさらに古い時代に川が蛇行していた跡やそこに流れ込む小河川が削った谷のように見えます。

 拡大した右の図で見ると今の御嶽神社のところと、与野公園の3つの塚の間に細い入り江があり、大国社と間にも細い入り江が入り込んでいます。こういった河川や湖沼を見下ろす高台には、遺跡や古墳がよく見られます。実際に濃い水色の鴨川旧河道沿いの段丘上(左の地図で黄色く塗られているところ)には、側ケ谷戸古墳群、白鍬古墳群、大久保古墳群などが分布しています。このような地形面からも本校周辺に古墳群があっても不思議ではない気がします。

 そして、もしこれが古墳群なら、山岳信仰が盛んだから塚をたくさん作ったのではなく、古くから古墳がたくさんあったから、それを近世の山岳信仰の信者が富士塚や御嶽塚として再利用した、という説も成り立つわけです。

 勝手に推測ばかりしていても仕方がないので、この点について、これまでの調査や研究はどうなっていたのかを、少し当たってみました。さいたま市への合併の前に当時の与野市教育委員会が出版した「与野の歴史」(1988年)では「与野市域内に墳丘を持つ古墳は、現在のところ一基も発見されていません」と書いてあります。一方、埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)では、浅間神社富士塚、大国社塚、御嶽塚については「古墳」であるとされていますが、出土品は「なし」となっています。

 とはいえ、古墳と近世になってから作られた塚の区別は外側からでは困難です。「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」が出土物がないのに、なぜ3つの塚を古墳と判断したのかはよくわかりません。これをはっきりさせるためには、発掘調査や超音波等による地底探査などをしてみるしかありません。もし古墳であれば、副葬品や埴輪の破片等が出土したり、地下に埋葬施設(石室や石棺など)が見つかると思います。さすがに学校のシャベルを借りて勝手に掘るわけにはいきませんので、だれかきちんとした学術調査をしてほしいなと思います。

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