11/16 プチ史跡巡り(15)上尾の胡桃下稲荷
久しぶりにタイトルにふさわしい史跡巡りです。
今回訪ねたのは上尾駅東口の少し北側にある笠間(胡桃下)稲荷です。ビルの谷間の小さな社で、「プチ史跡巡り(10)」では紹介した北浦和の豊川稲荷とちょっと似ています。この神社自体は明治時代に茨城の笠間稲荷から勧請して建てられたという来歴がはっきりしており、特に不思議なところはありませんが、本社の笠間稲荷には、別名の「胡桃下(くるみがした)稲荷」も含めて私はちょっと不思議なものを感じています。
稲荷神社の祭神は一般的にはウカノミタマという食物・穀物の神様であるとされます。この神様は古事記・日本書紀に出てくる豊穣をつかさどる神として尊崇を集め、すべての稲荷の総本社とされる京都の伏見稲荷などは平安時代に正一位の神格を与えられ、明治時代には官幣大社となるなど国家の厚い保護を受けてきました。
一方、今回取り上げた笠間稲荷です。現在の笠間稲荷は関東を中心にたくさんの末社を持ち、伏見、豊川に次ぐ三大稲荷とまで呼ばれています。しかし、この神社は江戸時代に笠間藩主の牧野家が朝廷に願い出て、伏見稲荷と同じ正一位の神位を得るまではあまりぱっとしなかったようです。また、明治時代になってからも社格は伏見稲荷とは比べ物にならない村社でした。この差はなぜなのでしょうか?
私は笠間稲荷の神様がもともとはウカノミタマではない、古事記・日本書紀とは関係ない神様だったからではないか、と想像しています。そう考える理由ですが、由来によれば笠間稲荷は「伏見稲荷から勧請したものではない」とされています。勧請というのは本社からお札やご神体を分けてもらって同じ神様を祭る神社をつくることです。日本の稲荷神の総本社とされる伏見稲荷からの勧請ではない、ということは元々は別の神様だった可能性があるということです。また伏見稲荷と同じ神様だったら、江戸時代に神位を願い出るまでもなく正一位だったはずなのに、改めて願い出たということは、江戸時代にも笠間と伏見は別の神様であるという意識があったのではないでしょうか。
では笠間稲荷の正体は何なのでしょうか。私は,、地元で古くから崇拝されてきた豊穣伸・農業神だったのではないか、と想像しています。笠間稲荷の別名は「胡桃下(くるみがした)稲荷」ですが、なぜそう呼ばれるかというと、昔そこに胡桃の大木があったからだとも、鬱蒼たる胡桃の森があったからともいわれているそうです。胡桃や栗は縄文時代には人々の重要な食糧でした。稲などの栽培が広がる以前から、人為的に栗や胡桃の木を植えて実を収穫するということが行われていたようです。もしかすると笠間稲荷は、縄文時代から地元の人々によって連綿と祭られてきたクルミの神様なのかもしれません…。
こういった記紀の系譜につながらないローカルな神様というのは昔はたくさんいたようです。たとえば同じ上尾の氷川鍬神社は今は氷川神社の系統になっていますが、元々は江戸時代中期に上尾の宿場に突然現れた「おくわさま」を祭る神社でした。江戸時代末からの神道思想の盛り上がりや明治時代からの国家宗教化のなかで、これらのローカル神はほとんどが似た性格の記紀の神様に統合されました。しかし、いまだに各地の伝承の中には、古い神々の残影が残っているようです。
以上の考えは、一次文献とか学術論文とかにあたらずに、ネットの記事や神社名から想像しただけです。学術的な価値はないことを念のため申し添えておきます。