2022年1月の記事一覧
1/24 こんなところに与野発見(プチ史跡巡り6)
この週末の土曜日、天気も良かったので上尾市平方の八枝神社に行きました。目的は疫病退散の札を頂戴することです。
現在、オミクロン株とやらがすごい勢いで拡大し、県内の学校でも学級閉鎖や臨時休校をするところが出るなど、本校にもその脅威がひたひたと迫ってきています。
平方の八枝神社は疫病退散に御利益があると言われる京都祇園の八坂神社(祇園さん)の流れをくむ神社ですから、ぜひ本校をコロナから守っていただこうとお札をいただいた(公費支出はできないので私費で)というわけです。
さて、その八枝神社には、立派な一対の狛犬があるのですが、ふとその台座を見ると「與野町平心講」と彫ってあります。(與は与の旧漢字)「こんなところにも与野とのつながりが!」とちょっと驚きました。
なぜ、ここに与野の人たちの奉献した狛犬があるのでしょう。
今でこそ平方地区は上尾市のはずれの川っぷち(失礼)ですが、江戸時代には、荒川の水運と川越街道の交差する河岸場(川港)として大変栄えていました。八枝神社も、近隣はもとより今の東京都内にまで信者のいる祇園信仰の拠点でした。この祇園信仰の信者の団体が「平心講」です。
このブログの第1回で、江戸時代に与野に住んでいた俳人・学者の鈴木荘丹が、桶川と与野を往復する途中に平方で亡くなったという話を書きました。江戸時代には与野ー平方ー桶川というルートは地方の主要な交通路で、与野と平方には強い結びつきがあったと思われます。その関係で八枝神社の平心講が与野にもあったのでしょう。それにしても大きさと言い、細工の見事さと言い、昔の与野の繁盛ぶりがしのばれます。
平方から与野へ来て、そこから羽倉街道をさらに進むと、志木から所沢、東京へ入り清瀬、日野と抜けて甲州街道に合流します。このルート上の清瀬市上清戸には現在でも平心講があり、八枝神社から御神体を借り受けて祭りを行っているそうです。八枝神社は見かけはそんなに大きな神社ではありませんが、実は非常に大きな信仰圏をもった神社なのです。
次に、そもそもなぜ八枝神社などの祇園系神社が疫病退散に御利益があるのかと言う話です。これについては5月14日のブログ「身辺雑記」でも少し触れました。八坂神社などの「祇園さん」は元々、仏教とともにインドからやってきた神様、牛頭天王と馬頭天王を祀っていた神社です。これまでに何度も出てきた本地垂迹説では、牛頭天王の日本での姿はスサノオノミコトとされます。で、スサノオノミコトについてこんな神話があります。
昔、スサノオノミコトが「武塔神(むとうのかみ)」と名乗って諸国を旅した時のことです。ある村に巨旦将来(こたんしょうらい)と蘇民将来(そみんしょうらい)という兄弟がいましたが、武塔神がやってきて宿を借りようとした時に、金持ちの巨旦将来は断り、貧しい蘇民将来は精一杯もてなしました。怒った武塔神は、疫病を流行らせて巨旦将来の一族を全滅させましたが、蘇民将来の家族だけは武塔神が病気をよける方法を教えてくれたので助かりました。
なんでスサノオはいちいち名前を変えるのかとか、ちょっとやりすぎだろうとか、突っ込みどころはたくさんありますが、そんなわけで牛頭天王(=スサノオ=武塔神)を祀る祇園系の神社は、疫病退散に御利益があるとされています。あと上の話から、「蘇民将来子孫也」とお札に書いて貼っておくと病気がよけて通るという信仰もあります。
その後、明治時代の廃仏毀釈の影響で、京都の八坂神社は祭神を牛頭天王・馬頭天王から、垂迹神であるスサノオノミコトに変えました。上尾の八枝神社も主神をスサノオノミコトに変え、牛頭天王は「八狛大神」ということにしていますが、疫病退散の神様であることに変わりはありません。コロナウイルスが退散するように毎日、八狛大神にお祈り(個人的宗教行為として勤務時間外に)することにします。