校長室ブログ

2021年4月の記事一覧

4/30 与野「塚巡り」の3(道と史跡6)

 「塚巡り」で一体、何回引っ張るんだと自分で自分に突っ込みを入れているところですが、まだ書き足りないことがたくさんあるので続きです。

 取り合えず、塚の紹介そのものは、次の「御嶽塚」で終わりです。

 与野公園の北側、公園と与野高校に挟まれた一角に「御嶽神社」があります。写真中央に参道が伸びていますが、石燈籠の向こうから階段になり、その上に社があります。この社が立っているのが「御嶽塚」です。

 「御嶽神社」という神社も各地にたくさんあり「みたけ」と読ませるところと「おんたけ」と読ませるところがあります。「みたけ」の場合は、蔵王権現(金峰山)を「おんたけ」の場合は、木曾の御嶽山(おんたけさん)を祭っているようです。ここの神社は「おんたけ」の方ですが、塚を登る階段の両側に黒くて穴だらけの溶岩がおいてあるなど、火山信仰・山岳信仰の雰囲気が満点です。

 さて、それにしてもなぜ、与野高校の周りにはこんなに塚が多いのでしょうか。下の地図が第1回からのルートです。

 ①が浅間神社富士塚、②が大国社塚、③が与野公園(富士塚、塚の痕跡、天祖神社)、④が御嶽塚です。直径400mくらいのきわめて狭い範囲に塚が密集していることがわかります。

 説明の「その一」としては、与野は江戸時代に山岳信仰が大変盛んだったから、というものです。上の地図の中の赤い③印の上に一山神社と書いてありますが、これは江戸時代に山岳信仰を広め、各地に大勢の信者を持っていた一山行者を祭った神社です(この人についてはまたの機会に書きます)。この山岳信仰のために、多くの塚が作られたと考えられます。

 しかし、それにしても狭い地域に多すぎではないか? 特に与野公園と御嶽神社で、隣り合うように4つも塚があるのは異様ではないか? という感じがします。

 そこで考えられる説明の「その二」は「これは古墳群なのでは」というものです。長くなってしまいましたので、この説については、また次回とします。(いやー、引っ張りますね。)

 

4/28 与野「塚巡り」の2(道と史跡5)

 続きです。ちょっと急いで次は「大国社塚」へ行きましょう。

 17号バイパスでドンキホーテの反対側、ちょっと東京よりのところに、「足の神様 大国社」という看板が見えます。そこにちょっとした森がありその中に小さな神社が立っています。この神社も前回の浅間塚に比べると低いですが、小高い塚の上に立てられています。

 

 この神社は今は大国社(だいこくしゃ)と呼ばれ、足の痛みや病気に霊験あらたかとされ、沢山の草鞋が奉納されていますが、江戸時代には蔵王権現だったそうで、前回の浅間神社同様に山の神様を祭る神社でした。今は「蔵王」というと宮城と山形の境にある山を思い浮かべる人が多いと思いますが、元は奈良県の金峯山のことです。なぜ大国社が足の神様か、という話も面白いのですが、またの機会にします。

 どんどん行って、次は与野公園内の富士塚です。この塚は高さといい形といい富士塚の見本のようなきれいな塚です。

 この写真の裏側の池に面したところ、江戸時代に澤田屋平左衛門という人が、富士登山58回達成を記念して建てた石碑があります。年に2~3回登った年もないと58回は達成できないのではと思います。びっくりです。

 この塚の上から、与野高校の側を眺めていたら、ライトアップ用のマストが立っている円形広場も、元は塚だったのではないかということに気が付きました。

 

 横からとった写真ですが、小高い塚の頂上部が削り取られ、裾野が残っているように見えると思います。(左側の方がよくわかります)

 与野公園には、もう一つ天祖神社が立っている塚(下の写真)もあります。樹木に紛れていますが、橋の向こう側がかなり切り立った斜面になっており、この上に天祖神社の社が立っています。

 長くなったので、ここでまた切ります。あまり一度にたくさんだと、飽きるでしょうから続きは休みを挟んだ4月30日に掲載します。

 

 

 

4/28 与野「塚巡り」の1(道と史跡4)

 いよいよGWですが、コロナウイルス感染拡大防止ということで、あまり遠出もできません。しかし、家にこもってばかりだと逆に不健康になってしまいそうです。十分な防止策を取ったうえで近隣の散歩などをしてみてはどうでしょうか。

 というわけで、今回は与野高校周辺に点在する「塚」をめぐるプチ旅行にご案内します。

 最初は「浅間神社富士塚」から。与野高校から数百メートルの17号バイパス沿いにドンキホーテがあります。その裏の八王子神社という神社の境内に小山がありますが、それが「浅間神社富士塚」です。

 下の写真の二つのお堂の間に、赤い鳥居があってそこに石段があるのが見えると思います。ここを登っていくと小山の頂上に小さな石の祠がありますが、それが浅間神社です。

 浅間神社という神社はあちこちにあり、富士山そのものを神(浅間大神・コノハナサクヤヒメノミコト)して信仰するものです。「浅間」は今は「せんげん」と読むところが多いようですが、古くは「あさま」と呼んでいたといわれます。「アサ」「アソ」というのは非常に古い日本語で火山(熊本の阿蘇山や長野の浅間山など)を表したとされ、富士山はアサマの頂点に立つものでした。

 平和で豊かだった江戸時代には神社・仏閣参りを名目とした旅行が庶民にも流行しました。その一つが富士参りで各地に富士登山を目的としたサークル「富士講」が存在しました。とはいえ、実際に富士登山をするのは費用も手間も大変だったので、グループでお金を積み立て、毎年順番にメンバーを選んで実際の富士山へ行き、そのほかのメンバーは、近所に作ったミニチュアの富士山にお参りするの一般的でした。

 このミニチュアの富士山が「富士塚」で、関東地方を中心にたくさん作られました。この浅間神社富士塚もその一つです。植物に覆われて塚の形は少し崩れていますが、高さはかなりある立派な富士塚です。

 思ったより長くなってしまったので、記事を分割することにします。「塚巡りの1」はここまでです。

 

 

4/23 野球部の健闘

 本日、与野高校野球部が、春季大会(県大会)で立教新座高校と対戦しました。結果は1-6で負けてしまいましたが、いい試合でした。

 与野高校は、1回裏に2点をリードされましたが、そのあとは2回から6回までは立教新座の攻撃をしのぎ続け、双方0点が続く締まった試合となりました。そのあと7回・8回では追加点を許してしまいましたが、随所に好守が光りました。

 攻撃でも、4回に角山君が一塁線に絶妙なバントを決めたり(下の写真)、7回に反撃し一矢を報いるなど、見せ場がありました。夏につながるいい内容の試合だったのではないでしょうか。

 

 

 コロナ禍ということで、今日は野球応援につきものの鳴り物も歌も踊りも無しでした。好プレイの時に拍手だけで応援するという、テニスかゴルフのような感じでしたが、野球そのものをじっくり観戦するという点ではそれもありかなと思いました。

4/19 櫛引町の板碑(道と史跡3)

 学校の方は、新型コロナウイルスの蔓延防止重点措置が実施されることになったので、対策に努めているところですが、そのような時こそ、心のゆとりも必要、ということで、今日は「道と史跡」シリーズの(いつの間にかシリーズ化してしまいました)の3回目です。

 昨日の日曜日、ジョギングを兼ねて前から見たいと思っていた櫛引町の「板碑」を見てきました。

 前にも書いたように、与野高校の近くの本町通りは鎌倉街道の羽倉道のルートです。この道をずっと北上して行くと自衛隊大宮駐屯地(さいたま市北区櫛引町1丁目)の近くに、小さな観音堂があり、そこに今日のお題の櫛引町の板碑があります。(セイムスのすぐ裏です)

 さてそもそも板碑って何? と思った方もいると思います。

 下の写真の右の方に将棋の駒のように先がとがった薄い石の板がたくさんありますが、これが板碑です。現在でもご先祖の供養のためにお墓に木の板で作った塔婆を立てますが、板碑もそれと同じようなもので、鎌倉時代から室町時代にかけて作られました。

 

 板碑は街道などの人通りの多い場所に作られたので、これがたくさん残っているということは、この場所が昔のメインストリート、鎌倉街道の沿道であったことの証拠と言えます。

 この道をさらに北上してJR日進駅の方へ行くと、左側に日進神社があります。そんなに大きな神社ではありませんが、石の鳥居や石畳の参道はなかなか立派です。この神社の西側は鴨川に向かう急な斜面になっていますが、昔からきれいな水が湧き出し近隣の水源となっていた場所だそうです。

 昔の街道だったルートには、現在でもお寺や神社、石仏などが多く残っており、また周囲と比べて標高の高い尾根筋を通っていることが多いのも特徴です。そういった目で地図を見て昔の道を探るのも楽しいものです(って私だけでですか?)。

 

4/15 野球部県大会へ等々

 昨日(4/14)春季高校野球地区予選で与野高校野球部が志木高校を破り、県大会の出場権を獲得しました。

(試合の様子は野球部のページをご覧ください)今朝は、ネットでその記事を検索していたら、電車を乗り過ごして中浦和まで行ってしまいました。

 地区予選は無観客試合でしたが、県大会からは試合が見られるそうなので、可能な限り応援に行こうと思います。

 さて、最近の本校ですが、今週火曜日から学食の営業が始まりました。

 早速行って日替わりランチ(白身魚フライのタルタルソース)を食べてきました。副菜に昆布の煮物などが付いていて、なかなかヘルシー&美味でした。

 今はコンビニ弁当などに押されて採算がきびしいため、学食のある県立高校はどんどん減っています。しかし学食は、温かいごはんがお手頃価格で食べられるのが魅力です。生徒の皆さん(無理にとは言いませんが)、利用できる時は利用して学食を盛り上げてください(今時ですから、なるべく黙食で、相向かいに座らないなどの注意はしてください)。あとパン屋さんもよろしくお願いします。

 道&史跡巡りシリーズの取材も暇を見てぼちぼちやっています。なかなか与野高校近くも面白いところだとわかってきました。

 

 

 

 

 

4/9 近年、道に興味がありまして(2)

 昨日の入学式が東京新聞の記事になりました。

 今日からしばらくは1年生のオリエンテーション的な行事が続きますが、密を避けるためこの時期恒例の対面式は行いません。第4波だ、蔓延防止だなどという声も聞こえてきますが、一日も早く平常復帰してほしいと思います。

 さて、4月7日の続きです。下の写真は、本町通りを数百メートルほど南下したところにある分岐点です。

赤い線で示したように右方向に延びているのが、昔の鎌倉街道の羽倉道のルートです。

道の先を覗くと、下の写真のようにいかにも「街道」という感じの道が伸びています。

この道をたどっていくと、埼玉大学の正門の前に出て、そこからもう少し西へ行くと、羽倉橋で入間川(荒川)を渡っていくことになります。

分岐点に古いお堂があるのが、すごく昔の街道っぽくていい感じです。

このお堂は、庚申社のようですが、中をのぞかせてもらうと「猿田彦の命」の幟旗がしまってありました。

庚申信仰は本来は中国の道教からきているはずですが、「申(サル)」の字が「猿田彦(サルタヒコ)」のサルと通じるので、庚申社では猿田彦を祭っていることが多いそうです。

 

 

4/8 新入生の諸君、獲得せよ。

 今日は入学式でした。

 358名の新入生が新たに与野高生になりました。 

 午後からの雨が心配されていたところですが、入学式の間は天候が持ちました。入学式が終わったとたんに一天にわかに掻き曇り、激しい雷雨となったところを見ると、今年の新入生にはなかなか強運の持ち主が多いようです。

 本校のモットー「二兎を追い、獲得する」の言葉通り、新入生の皆さんがこれからの高校生活で何かを獲得できることを祈ります。

 

4/7 近年、道に興味がありまして…

 学校の方は今日まで春休みです。

 コロナ下ですが、生徒の皆さんは対策を取りつつ部活動に取り組んでいるようで、さまざまな部活の音が校長室にまで聞こえてきます。まだ、学校が本格的に始まっていないので、更新間隔があかないように、今回はちょっと個人的な趣味の話を書きます。

 実は、私はこの何年か「道」に興味があります。「道」というのは、剣道とか柔道とかの抽象的な道ではなくて、道路そのものです。道路好きといっても好きな分野は、さまざまですが、私の場合は、道路の昔の道筋に興味があります。

 その点で、与野高校の立地は大いに興味をそそられるところです。与野高校の正門から少し行ったところに「本町通り」という道がありますが、この道は鎌倉街道の羽倉道の一部です。

 前回、与野と桶川、平方にゆかりのある鈴木荘丹の話を書きましたが、荘丹もこの道を北上し、現在、いずみ高校の立っているあたりから西へ向かい、水判土の慈眼寺の前を通り、指扇駅をかすめて平方へ抜けるルートを通ったと思われます。平方から先は、地元で「桶川新道」と呼ばれている道(「新道」ですが古い道)を通って桶川へ行ったのでしょう。与野から平方へ抜けるルートは羽倉道の本線から離れますが、沿道に古い寺社や版碑などが残っており、非常に古い道筋であったと推測されます。

 地図上でこういった道筋をたどるだけでも結構楽しめます(別に楽しくないという人も多いと思いますが)し、自分の足で踏査するとなお面白いものです。与野高校をベースに今後、ちょこまかと近隣の史跡を回ってみたいと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

4/2 はじめまして

 はじめまして。埼玉県立与野高等学校第29代校長を拝命した 鈴木 健 と申します。今後、このコーナーでは不定期に学校の様子や、校長として感じたり思いついたりしたこと等を書き綴って行きたいと思います。

 私の前任校は上尾橘高校です。本校のある与野地区と上尾橘高校のある上尾市の平方地区には、実は歴史的なつながりがあります。

 江戸時代後期に、鈴木荘丹(1732-1815)という俳人・教育者がいました(同じ鈴木ですが、私のご先祖ではありません。多分…)。一般的にはあまり有名ではありませんが、松尾芭蕉の弟子の大島蓼太門下にこの人ありと言われ、自らも俳句や和漢の学問で多くの弟子を育てた人物です。

 この人は与野に住んでいましたが、桶川でも俳句や学問の塾のようなことをしていて、度々桶川へ出向いていました。途中の平方にもよく滞在しており、平方の名主永島家に滞在中に病気で亡くなりました。お墓は与野の妙行寺にありますが、平方の馬蹄寺にも句碑が残っています。

 そんなわけで、私が上尾橘高校から本校へ異動したのにも、なにか縁があったような気がしています。上尾橘高校と本校は学校の規模や雰囲気は違いますが、県立高校として生徒の可能性を伸ばし、人間性を育むという教育の根本は変わりません。歴史ある与野高校の校長として微力を尽くしたいと思います。

 ここまで読んで、もしかしてと思った方もいるかもしれませんが、私自身は、地歴・公民の教員です。歴史だけでなく統計分析も好きなので、このコーナーではその辺の話題もとりあげていきたいと思います。

 下の写真は、馬蹄寺の鐘楼です。なかなか立派なお寺です。