2021年10月の記事一覧
10/29 鹿嶋神社を発見!(プチ史跡巡り1)
前に掲載した「道と史跡」ほどまとまった内容は難しいですが、不定期に身近に見つけた小さな史跡を紹介していきたいと思います。
県庁から国道17号を西に渡った高砂4丁目の公民館の隣にこんな小さな神社があります。小さいながらも石畳の立派な参道があり、灯篭にも明かりが入っているなどよく手入れされています。地元の方々の崇敬が厚いことがうかがわれます。
ここに神社があることは前から知っていたのですが、いつもは通り過ぎていました。先日、ふと足を止めてみたところ、この神社が鹿嶋神社であることに気づきました。
それの何が問題なのか、と思われるかもしれませんが、浦和の県庁の付近から別所沼公園の東側にかけての高台は、以前は「鹿島台」と呼ばれていました。よその学校の話で恐縮ですが、県立浦和高校の校歌に「校舎の礎動きなき 我が武蔵野の鹿島台…」とあります。浦和高校(旧制浦和中学)は今は北浦和にありますが、明治の創立時には県庁の北側、知事公館の所にあったので「鹿島台」と歌っているわけです。
以前から、「鹿島台というからには、地名の由来となった鹿嶋神社がどこかにあるのだろう」と思っていましたが、こんな所にあったとは!
鹿嶋神社の大本は、鹿島アントラーズの本拠地の鹿嶋市にある鹿嶋神社です。そこを大本として全国に無数の鹿嶋神社が存在します。この場合、浦和の鹿島台にあるから鹿嶋神社ということはまず考えられず、鹿嶋神社があるから、鹿島台となったと考えるべきでしょう。
鳥居の横の石碑を見ると「鹿嶋臺 鹿嶋神社遷座記念」と彫ってあります。昔は別の場所に鹿嶋神社があり、何らかの理由で移転してきたことになります。今は小さくてかわいい社ですが、昔はもっと大きな神社だったのかもしれません。もっとも、神社の社は神様用で神様が宿れればいいのですから、人間が入れないサイズでも構わないのですが…。
現在は地名から消えてしまっていますが、第2次世界大戦前の浦和には、「鹿島台○○町」のような町名があり、かなり広い範囲が鹿島台でした。鹿島台は別所沼を見下ろす崖上にあり景色が良いことから、大正から昭和の初めにかけて、画家がたくさん引っ越してきて、「浦和画家」という言葉が生まれたそうです。確かに今でも、鹿島台の西側の崖は見事です。(下の写真)
鹿島台から別所沼に降りる坂道です。勝手に足が動いて立ち止まれないほどの急坂です。道の向こうに別所沼の水面が見えます。
10/26 今日は球技大会です
学校のWEBページなのだから学校のことも書かないと、というわけで、今日は球技大会です。
種目はバレーボール、ドッヂボール、サッカーの3種目です。昨日が1日目、今日が2日目です。今日は朝方、雨が降ったのでサッカーの実施が危ぶまれたのですが、天候が回復したので、気持ちのよい青空の下の大会になりました。
久しぶりの全校行事で、生徒たちの応援の声が響いてきます。やはり学校はこうでなくては…。
10/20 教養が尊重された時代
前回の続きです。
前回、高校生の頃の私が「小林秀雄の文章はくだらない」と言ったという話を書きました。(今から思えば、実に生意気で嫌なガキですね…。)
さて、前回は小林秀雄について、かなり批判的な感じになってしまいましたが、その一方で小林秀雄が評論の分野で並ぶもののない大家として君臨できた時代というのは、いい時代だったのだなと思います。
小林秀雄の手法というのは大体以下のように分析できます。
①圧倒的な教養・博識(あるいはリサーチ)に基づく蘊蓄で、読者の出鼻をくじく。
②ゲーテやトルストイなど西欧の大家・偉人についても、まるで自分の友達か何かのように扱って読者をびっくりさせる。
③古典からの引用等を何の説明もなく、読者の前に放り出して「当然これくらいわかるよね」というプレッシャーをかける。
④比喩を交えてぼやかしながら自分の考えを断定的に述べる。説明は中途半端に投げ出して、読者にそこから先の解釈を強要する。
このような文章スタイルは、現代ではおそらく通用しないでしょう。現代は「知識だけあっても、思考力がなければ」とか「知力よりも人間力」のような考えが主流で、「教養」や「博識」が評価されない時代だからです。トリビアな知識を誇るクイズ王のような人を持ち上げるテレビ番組などもありますが、それらは珍獣と同じような扱いで、決してみんなが目指すべきモデルとして扱われているわけではありません。小林秀雄のような「知識をひけらかして、何を言っているかよくわからない文章」は、社会一般に多くの読者を獲得するのは難しいと思います。
しかし、小林秀雄が活躍した第二次世界大戦前から1970年代くらいまでの読者は、小林秀雄の教養・博識に素直に感心し、それにあこがれたのだと思います。大学生などでは自分も小林秀雄のような教養を身に着けたい、同等の知識を身に着ければ、小林秀雄の言っていることが理解できるに違いないと考えて頑張っていた人が沢山いました。私が高校生や大学生だった1980年代にもまだ小林秀雄は神様のようなもので、私の周囲にも「自分(だけ)は小林秀雄の評論を理解している」と称する連中が何人かいたほどです。
昔の方が良かったとは言いませんが、しかしその一方で、現代における教養や知識に対する軽視は行き過ぎていると感じます。半端な創造性より、確実な知識の方が圧倒的に有用であり、生きていく上での強力な武器です。現代ではそれが軽視され過ぎています。
以前、評論家の呉智英さんが何かの本に次のような話を書いていたと思います。
ある所に、貧しいが大変賢い少年がいました。少年は働くために学校をやめることになり、それを惜しんだ先生は「学校をやめても頑張るように」と励ましました。数十年後、先生のもとに大人になった元少年が訪ねてきました。「私は一人で勉強を続け、どんな2次方程式でも解ける公式を発見しました」。先生は愕然とし元少年にかける言葉を持ちませんでした。
私は小林秀雄ではないので、きちんと解説します。元少年が発見した「どんな2次方程式でも解ける公式」とは、高校で習う解の公式のことです。元少年は、誰にも教わることなくこれを独力で導き出したのですから、素晴らしい数学の才能です。しかしこんな公式ははるか昔に見つかっており、学校で教われば1時間で理解できてしまいます。元少年の傾けた長年の努力と才能は完全な徒労です。先生は、この悲惨な事実を前に元少年に何と言ったらいいかわからなくなってしまったわけです。
これは極端なたとえ話としても、若い人たちは創造性云々を言う前に、基礎知識をしっかり身に着けるべきだと思います。基礎知識を身に着けるための勉強に時間や力を傾けたとしても、創造性は減ったりしません(その人が本当にそれを持っているのであれば)。むしろ十分な知識という素材を創造性で組み合わせることで、素晴らしい結果を出せるはずです。今後の日本が力強く発展していくためには、「教養」の価値を見直すことが必要ではないでしょうか。
10/18 秋深し、灯火親しむ頃です
秋が深まってきました。
今日の朝は冷え込みが厳しく、電車の座席にヒーターが入っていました。最近は空気がさえわたり、与野本町駅から見る夕焼けもひときわ鮮やかです。
最近、小林秀雄の「モオツァルト・無常ということ」(新潮文庫)を読み返しています。先日来、先生方の授業の見学をしているのですが、その時にふと、高校生の時の授業の思い出がよみがえったからです。
私が高校生の時に、国語の教科書に小林秀雄の「蘇我馬子の墓」(上掲「モオツァルト・無常ということ」に所収)の後ろ半分が載っていました。この文章の感想として、「大したことを言っていないのに、論旨を二転三転させたり、必要もない比喩を使ったり、読者を戸惑わせ煙に巻くことを狙ったつまらない文章だ」と述べたところ、国語の先生に「それは君に小林秀雄の思想を理解する力がないからだ」と言われたことがあります。「では、先生は理解されているのですか」と言いそうになりましたが、さすがに失礼なのでそのセリフは飲み込みました。
そんなことを思い出したので、今、「蘇我馬子の墓」を読み返したら何か新しい発見があるだろうかと思い、読み直してみたわけです。その結果、高校生の頃の理解は基本的に間違っていない、という確信を深めました。ただ、その一方で、この文章の何とも言えない歯切れの悪さの理由が分かった気がしました。それは新潮文庫には「『芸術新潮』昭和25年2月号」と、この文章の初出の年月日が書いてあったからです。
昭和25(1950)年といえば、昭和20(1945)年の敗戦からまだまもなく、日本は連合国軍の占領下にあった時代です。民主主義やアメリカ的な価値観が流れ込み、それまでの日本の伝統的な価値観が何もかも悪しきものとして否定されることに、小林秀雄はこの文章の中でささやかに抵抗していたのではないか、と思います。
同じ文庫本に太平洋戦争中の昭和18年に発表された「実朝」という文章が収録されています。この中で小林秀雄は、源実朝の「山は裂け海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」という歌を挙げ、「ここに在るわが国語の美しい持続というものに驚嘆するならば、伝統とは現に眼の前に見える形あるものであり、遥かに想い見る何かではないことを信じよう」と、力強く日本の伝統の価値を主張しています。
ところが、敗戦後の「蘇我馬子の墓」では、大和三山の美しさについて述べた後、「『万葉』の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分たちの感覚や思想を調整したであろう(中略)伝統主義も反伝統主義も、歴史という観念が作り上げる、根のない空想に過ぎまい」として、民主主義になろうが何になろうが、時代に流されない美や道徳の基準はあるということを、遠慮がちに述べています。
民主化の名のもとに伝統的価値観が完全否定された時代には、これだけのことを言うのにも勇気が必要だったのかもしれません。この文庫に入っている小林の他の文章では、知識をひけらかして読者をはぐらかすテイストは同じですが、結論は割とはっきり述べているように思えます。高校生のころは、こういった歴史的背景にまでは考えが及びませんでした。
やはり、読書には新しい発見がありますね。灯火親しむ秋、読書にいそしみたいと思います。
10/13 授業見学しています
私事ですが、先週末にワクチンの2回目の接種を受けてきました。翌日、副反応で39度を超える熱が出て次の日まで寝込んでしまいました。病気予防のためのワクチン接種で病気になるのも何だかなぁ…と思いましたが、ワクチンに期待通りの効果があれば、接種率が上がれば上がるほどコロナの流行は終息に近づくはずです。一日も早い平常復帰のためにはやむを得ないところかもしれません。
さて本題です。今月に入ってから、授業見学を行っています。様々な教科の先生方の授業を見せてもらっているのですが、本校の生徒の皆さんの授業へ取り組む姿勢は本当にまじめです。また先生方にも丁寧でわかりやすい授業に努めていただいています。
※授業風景や授業の様子は下記のリンクからご覧いただけます。
〇学校紹介スライド授業編
https://www.youtube.com/watch?v=GYfGt2tIuLA
〇与野高生がナレーターをつとめる 学校紹介動画
http://www.net-shien.com/shinken/pv/yono/
私自身はもう何年も自分では授業をしていませんが、将来的に再任用などで教える機会もあろうかと、それぞれの先生方の工夫や指導技術を学ばせてもらっているところです。教材や教具も進歩しています。特にパソコンやタブレットにつなげるプロジェクターが各教室に配備されたのは、すごい進歩です。以前であれば、視聴覚室など特別教室に場所を移動しなければ見せられなかった映像や動画を各教室で簡単に見せられるのだから、授業の幅が広がるはずです。
こういった技術の進歩やそれそれの先生の工夫や技術を一つに束ねて、生徒の皆さんの学力向上に確実につなげていければ、と考えています。
10/8 天候が不順なんでしょうか?
昨日の夜の地震にはびっくりしました。本日の朝方も交通機関の乱れが残っていたので、本校では1時間遅れの対応をしました。
さて、地震も心配ですが、今年もなんか天候が不順な気がします。
与野本町の駅前に何本かキンモクセイの木がありますが、9月の中旬に花が咲いて、いい匂いがしていたと思ったのですが、先週末から今週にかけて、また花が鈴なりになっていました。
9月中旬に咲き始めた後、下旬が雨続きだったので花が開かず、今月に入って気温が回復してきたので、また咲き始めたのでしょうか? 私の記憶では、9月の中旬にすっかり花が散って「もうキンモクセイの時期は終わりか」と思ったのですが。また咲いているのはどうも不思議な気がします。それともキンモクセイはもともと2回咲くものなのでしょうか? みなさんのお住まいの地域ではどうですか?