2021年11月の記事一覧
11/29 使いたくない言葉
先日、NHKのハートフォーラム「ヤングケアラー~SOSを見逃さないために」の公開収録を見てきました。
シンポジウムでは、未成年の子どもたちが、孤立無援で家族の介護やケアの過重な負担に苦しむヤングケアラーの深刻な実態について、議論が行われました。学校は児童生徒が一日にうちの長い時間を過ごす場所ですから、学校の教員はヤングケアラーを発見しやすいポジションにいます。今後、ヤングケアラーを支えるサークルの一員としての学校の役割は重くなっていくと思います。
そういったわけで、シンポジウムの内容については私もおおむね同意できるのですが、アナウンサーやパネリストの細かな言葉遣いで気になったことがありました。
それは「地域を巻き込んだ支援が必要」のように「巻き込んだ」という言葉が多用されていたことです。
今回のシンポジウムに限らず、最近は「○○を巻き込んだムーブメント」「○○を巻き込む工夫」といったように「巻き込む」という言葉が流行っていて、ちょっと「意識高い系」の表現という感じです。
しかし、「巻き込む」という言葉は本来、「巻きこみ事故」とか「災害に巻き込まれる」とかのように否定的なニュアンスを帯びた言葉です。「巻き込まれる」とは、意図しない偶発的な事態で被害をうけること、「巻き込む」とは本来無関係な人にうっかりして累を及ぼしてしまうことです。最近の用法は、「巻き込む」という否定的な言葉をあえて肯定的な文脈で使うことで目新しさを出そうとしたのだろう、ということはわかります。しかし私としてはどうも居心地が悪いものを感じます。また、さらに勘ぐれば「意識の高い私たちが意識の低い一般人を動かしてやる」という高慢な意識が隠れているような気がします。
別に「巻き込む」と言わなくても「協力して」とか「連携して」とかの表現もできるのだから、少なくともNHKのアナウンサーはそっちを使ってくれないかなという気がします。
同じような言葉に「こだわり」というのもあります。近年は「匠こだわりの豚骨スープ」のようにいい意味でつかわれることが増えましたが、ほんらいの「こだわる」は、物事に執着を持ち、いつまでも不満をくすぶらせているような状態を表す言葉で決していいニュアンスの言葉ではありません。もし「一生懸命研究し工夫した」ということを伝えたいのであれば、「自慢の」とか「入魂の」とか言えばいいと思います。
言葉の意味は時代とともに変わるのだから、こだわるな(これは本来の用法の例ですね)、といわれるかもしれませんが、私としては「巻き込む」とか「こだわる」とか、美しくない言葉はなるべく使いたくないと思います。
本町通りの市跡(プチ史跡巡り3)
与野高校の近くの本町通りには、古い宿場(正確には継立場)の面影が残ってます。
昔ながらの商家はさすがにもう数軒しか残っていませんが、宿場町特有の間口が狭く奥行きが深い地割は歴然としています。
下の写真は本町通りの古民家を利用したお蕎麦屋さんですが、お店が大きな木が植わっている分だけ下がって立っていることわかります。その奥の御宅ももうお店はやっていませんが、やはり、乗用車一台分以上下がった位置に家が建てられてます。
本町通りの圓乗院の北側から赤山街道との交差点までの区間には、こんな感じで道路から5~6mほど下がって建てられている御宅が多く残っています。例の明治迅速図で見てみると、この区間だけ道幅が広く描かれており、明治時代には全ての家が家の前に広場を持っていたことが分かります。
このスペースは、現代ならかなり大きな自動車が止められるくらいの幅なのですが、明治時代の商店に駐車場を用意する必要があるはずはありません。ではこの空間は何なのかというと、実はこれは昔、ここに市が立っていた名残です。江戸時代の与野では月に6回も市が立ち(六斎市)、道の両側のこのスペースに穀物や野菜などの農産物や肥料、小間物が並べられ、近郷から人々が集まって賑わいを見せたとのことです。
与野の市は室町時代の「市場祭文」という古文書にすでに記されており、大正時代まで続いていたといいますから、与野高校周辺の歴史の古さが分かります。(今回の記事の後半は、旧与野市編纂の「与野の歴史」及び「与野の歴史散歩」によります。)
11/19 与野高校マラソン大会
昨日(11/18)は与野高校マラソン大会でした。
昨年はコロナウィルス感染防止のため開催できませんでしたから、2年ぶりの大会となりました。
会場は埼玉スタジアム2002周辺です。壮大なスタジアムの施設を借りて大会が出来るのは、大変にありがたいことです。着替やトイレも便利だし、何より生徒のモチベーションが上がります。
暑からず、寒からず、風も穏やかな絶好のコンディションの下、男子は12.5km、女子は8kmを走り切りました。順位を狙っていた人から完走を目標にしていた人まで様々だと思いますが、生徒の皆さんはそれぞれの目標を達成できたでしょうか。
11/16 大国社再訪(プチ史跡巡り2)
プチ史跡巡りの第2回は、与野高校近隣に戻って「大国社(だいこくしゃ)」を再訪してみました。
前に「与野塚巡り」でも紹介しましたが、大国社は、本校周辺に密集している塚の一つの上に立っている小さな神社です。国道17号バイパスの側からみると大きな目立つ看板が立っているので、「見覚えがある」という方も多いかもしれません。看板にもあるように、大国社は足の痛みや病気に霊験あらたかと言われ、遠方からも参拝者を集めている「知る人ぞ知る神社」です。社を覆うお堂の格子には、足のけがや病気の回復を願って奉納された草鞋(わらじ)が沢山ぶら下がっています。
この神社の謎の第一は、なぜ「足の神様なのか」ということです。
鳥居の横の神社の由来を書いた看板には、足の神様となった「理由は定かではない」と書いてありますが、いくつか推測できることはあります。
まず大国社が「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を主神としていることです。大国主命は国中を歩きまわって、ため池を作ったり川の治水をしたりしたといわれる国造りの神様です。また因幡の白兎の神話にもあるように、いつも袋を背負って旅をしている神様です。そこから足が丈夫=足の病気に霊験のある神様になったのではないでしょうか。
またもう一つは、この神社は江戸時代には蔵王権現のお堂だったことです(これも先述の看板に書いてあります)。蔵王権現は元々の仏教にはいない日本独自の仏様(ってこれも不思議ですが)です。仏像に作られるときは、右足を高く上げ左足一本で立つ姿で表現されます。この姿はいかにも足が元気そうに見えるので、そこから足の神様になったことが考えられます。(下の写真はウィキペディアから借りています)
第二の謎は「なぜ」、「いつ」蔵王権現から大国社になったのか、ということです。
「なぜ」については、説明ができます。明治以前の日本では、仏教の仏様たちが日本の人々を救うために日本に出現したのが、日本の神々であるという「本地垂迹」の考えが広く行われていました。ここのお堂も、本来なら仏様の筈の蔵王権現を祀る神社(権現堂)だったわけです。
ところが明治時代になると政府が廃仏毀釈(仏教を弾圧して日本の宗教を神道に統一しようとする政策)を行い、「神と仏はきっちり分けろ」という命令がでました。この時に、それまで仏教と神道を区別していなかったところは、神社になるか寺になるか決断を迫られました。与野の大国社では、おそらくこの時に神社として残る道を選び、蔵王権現の垂迹した姿の一つである大国主命を祭神としたものと思われます。このあたりの事情は先の看板にも遠回しに「明治4、5年ころ大国社になったと推測される」旨が書いてあります。
これで「いつ」も解決したではないか、と言いたいところですが、私的にはそうもいきません。
大国社に一対の御神燈がありますが、お堂に向かって左側の方の側面には「天保八年丁酉正月吉日(天保8年=西暦1837年)」と奉納の日付、別の面には「願主 篠原 大黒屋長次郎」と奉納者が刻んであります。
現在、大国社(だいこくしゃ)と呼ばれている神社に、大黒屋(だいこくや)が灯篭を奉納したのは偶然の一致とは思えません。大黒屋という屋号は仏教の大黒天にちなんだものでしょう。そして、大国主命(おおくにぬしのみこと)は「大国=だいこく」と読めることから、一般に大黒天と同一のものと考えられています。
これらのことからすると、この社が社名を「大国社」と改めたのは廃仏毀釈の時だが、江戸時代からこのお社は「権現」であると同時に「大国(大黒)様」であったと考えられます。
あと、もう一つ「願主」の「大黒屋長次郎」ですが、これもちょっと引っかかる名前です。
幕末の土佐藩出身の志士に「近藤長次郎」という人がいましたが、この人は商家の出身で屋号が「大黒屋」でした。この人自体は天保9年生まれなので、灯篭に刻まれた人のわけはありませんが、気になります。
また大正時代の歌舞伎の演目に「大黒屋長次郎」というものがあったようです。よくはわかりませんが、荒木又右エ門の鍵屋の辻の敵討ちに関連した話らしいです。私は歌舞伎は全く知らないので間違っていたら大恥ですが、今は忘れられてしまった演目なのでしょうか。
刻んである「篠原」が地名なのか、大黒屋の苗字なのか(江戸時代も公式に名乗れないだけで、庶民も苗字を持っていました)、その辺からもう少し調べられないかと思っています。それにしても、歴史は調べていくと次々と芋づる式に謎が出てきて面白いですね。
11/12 義の人
今日の朝、南アフリカのデクラーク元大統領が亡くなった、というニュースがありました。デクラークは、南アフリカ共和国の最後の白人の大統領だった人です。
まず最初に感じたのは、年齢が85歳だったということについて「意外と若かったのだな」というものでしたが、その次に感じたのは「すごい人だったよね」ということでした。
デクラークは1989年に南アフリカ共和国の大統領になりました。当時の南アフリカには「アパルトヘイト」という白人が有色人種を差別し支配する制度がありました。ほんの30年前まで国の制度として人種差別を行っている国があったとは、生徒の皆さんには信じられないかもしれません。当時も、さすがにこの制度は時代遅れのものとして国際社会から批判され、南アフリカは孤立していました。デクラークは大統領になると、1990年に黒人解放運動の指導者として27年間も刑務所に入れられていたマンデラを釈放、1991年には有色人種の権利を制限していた法律や制度を全廃し、アパルトヘイト終結を宣言しました。その後1994年にマンデラが大統領になると、副大統領としてマンデラを補佐しました。
デクラークは、アパルトヘイト廃止の功績で1993年にマンデラとともにノーベル平和賞を受賞しています。27年もの刑務所生活に耐え差別撤廃のために戦ったマンデラも偉大ですが、差別されている者がそれに抵抗するのは、シンプルでわかりやすい生き方です。私は、自分自身も白人でありながら白人による支配を否定した、デクラークの方がより大変だったと思います。いくら大統領とは言え、白人しか参政権を持っておらず(当然、自分の支持者もみんな白人)、有色人種を支配することで白人支配階級の生活が成り立っている国で、白人の支配権を手放すことを決定するのは、ほとんど不可能なことのように思えます。「裏切者」として激しい批判も浴びたことでしょう。
デクラークは経歴などからすると、おそらく根っからの「反差別主義者」ではなかったと思われます。しかし、先述の通り、当時の南アフリカは国際社会から批判され、スポーツや文化の交流も拒否されるなどの孤立状態にありました。デクラークは、国の将来を考えれば時代遅れの差別をいつまでも続けることはできないと考え、アパルトヘイトを廃止したのだと思います。この健全な現実主義がすごく立派です。そしてアパルトヘイト廃止という困難な決断を断固として実現した意志の力は、まさに偉大です。こういう人を「義人」というのだろうと思います。
今、南アフリカでは、白人排斥を叫ぶ過激な黒人政党が勢力を増して治安が悪化しているそうです。デクラークやマンデラの努力が無に帰すような事態にならないように祈ります。
11/10 「何の役に立つのかわからない」
今、埼玉が誇るノーベル賞受賞者の梶田隆章博士(東松山市生まれ、川越高校卒、埼玉大学卒)がネット等で叩かれています。
その発端は、梶田博士が現在取り組んでいる「大型低温重力波望遠鏡KAGRA計画」の成功がおぼつかないことや、KAGRA計画の予算獲得のために誇大な論文を発表した疑惑がある等が、某週刊誌で問題とされたことのようです。
もし誇大な論文というのが本当にあったのなら、それは良いことではないと思います。ただ、もし事実だったとしても、実績や期待される成果を必死にアピールしないと研究予算がつかない中で、なんとかしようという焦りからだとすれば、梶田博士や関係者に同情の余地はあります。
KAGRA計画についても、事故や故障で当初期待された精度が出せず、重力波の検出という目的達成が困難と思われることから、予算の無駄遣いだったと批判されているようです。しかし、KAGRA計画はそもそも科学的な実験なのですから失敗を重ねながら進んでいくのが当たり前です。というより失敗したという結果そのものが成果です。道路や水道の工事ではないのですから、予算を投じれば必ず出来上がるというものではありません。
それに対し「税金が無駄になったのは許せない」とか、あまつさえ「何の役に立つのかわからないことに金を使うな」とか批判する人がいるのは理解に苦しみます。
「何の役に立つのかわからない」という意見はもっともなようですが、この意見に流されていたら、人類は未だに石ころと棒切れだけを持って、猛獣に追いかけられていたに違いありません。それぞれの時代で何の役に立つのかわからないことにチャレンジする人がいたおかげで、今日の文明が築かれてきたはずです。
KAGRAの建設費用は190億円だそうです。国民一人当たり190円とすると、チロルチョコ10個分以下です。(ここから先は私も公務員なので書きません。)
教育の分野でも、「産業や経済に役に立つことを教えろ」「何の役に立つ分からない学問は不要」というような風潮がありますが、そんな貧しい思想では、今後の日本がますますしょぼくれてしまいそうで気がかりです。
11/9 与野高読書週間です。
今週、来週の2週間は、「与野高読書週間」です。
与野高校では毎朝短い時間ではありますが、日課の中に朝読書の時間を設けています。目先のことを考えるならば、本など読まずに、受験勉強をした方が良いのかもしれません。
しかし読書の習慣を持つことは、人生において大きな財産になると思います。
池波正太郎と言えば昭和から平成の初めにかけての時代小説の大家ですが、池波正太郎の学歴は小学校卒です。小学校を出た後は、自分でお金を稼ぎながら読書や観劇に熱中し、脚本家の菊田一夫に弟子入りし脚本家から小説家になりました。新聞を読んだり小説を読んだりすることで、だれにも負けない立派な教養を身に付けることが出来るという見本です。
不肖、私も読書は好きな方で毎日何かしら本は読んでいます。今読んでいるのは、トム・マグナブという人の「遥かなるセントラルパーク」です。ロスアンゼルスからニューヨークまで約5000kmという超長距離レースに挑むランナーたちを描いた小説です(実話に基づいているというからびっくりです)。まだ読み終わっていないのですが、すごく面白い本です。
私は4月の着任以来、朝読書などのガイドになればと思って、生徒に向けたブックレビューを配信しています。読書週間中はペースを上げて配信します。何人の人がブックレビューを読んでくれているのか知りませんが、1000人以上生徒がいるのだから、10人~20人くらいは読んで参考にしてくれると嬉しいのですが。
11/4 ロードレースの季節…なんですが…。
秋から冬へはマラソンや駅伝などロードレースの季節です。本校でも11/18(木)の校内マラソン大会に向けて、練習や準備が盛んにおこなわれています。
昨日(11/3)もテレビで東日本実業団駅伝の放送がありました。 私のイチ推しの青木涼真選手がHONDAチームで走るので、テレビの前に座り込んで応援していました。
青木涼真選手は県立春日部高校から法政大学に進み、2年生(2018年)の時に箱根駅伝の5区で9人抜きで区間賞という驚異的な活躍をしました。9人抜きは、2代目山の神と言われた東洋大の柏原や3代目山の神の青山学院大神野を上回る活躍で「4代目山の神」と言われるべきところだったのですが、なぜかマスコミからはほとんど注目されませんでした。去年のニューイヤー駅伝でも、HONDAは序盤で崩れて4区終了時点で16位と沈んでいたのですが、5区の青木が14人抜きで2位まで順位を上げ、最終成績の5位に大きく貢献しました。この時も、超人的な活躍にも関わらす、同期入社の伊藤達彦選手(この人もいい選手ですが)の方が注目されていました。
こんなかわいそうな青木選手ですが、東京オリンピックに3000m障害で出場したことで、ようやく知名度が上がってきた気がします。お正月のニューイヤー駅伝でもきっと活躍してくれるでしょう。
つい夢中になって青木推しをしてしまいましたが、マラソン関係で最近ちょっと気になっていることがあります。それは、マラソンの歴史を作ってきた大きな大会がどんどんなくなっていることです。「びわ湖毎日マラソン」がなくなり、今年の大会を最後に「福岡国際マラソン」もなくなります。
廃止理由の最大のものは「一般ランナーが出ない大会はもうからない」ということのようです。しかし、これらの大会があり、日本にいながら世界の一流選手と競えることで、日本のマラソンの競技レベルは保たれてきたと思います。アフリカ勢優位が続く中、ようやくアフリカ勢に戦いを挑む日本選手が出てきたところなのに、国際マラソン大会の廃止は、若手選手の競技環境を悪化させるものだと思います。
いくら日本経済が低調と言っても、マラソン大会の運営費くらい出せる企業はあるのではないでしょうか。私が社長なら、会社をつぶしてでもスポンサーとしての栄誉の方が欲しいと思うのですが…。