2022年3月の記事一覧
3/24 春本番、与野・圓乗院(プチ史跡巡り7)
このところ寒い日が続いています。そのせいか、今年は桜の開花が少し遅いようですが、与野高校の桜は日当たりの良い側から咲き始めました。
今週ついに「まん延防止」が解除されたので、今、2年生が念願の修学旅行に行っています。春の訪れとともにコロナウイルス関係の諸々が終息してほしいものです。さて、写真の下からは久しぶりに「プチ史跡巡り」です。
春と言えば、与野高校のすぐ南側にある古刹圓乗院のしだれ桜の名木「千代桜」も、そろそろつぼみが開き始めているようです。圓乗院には、広大な境内に赤く塗られた立派な多宝塔や先述の桜の木などがあり、境内に入ると一瞬自分が与野にいることを忘れ、京都あたりにでも行ったような感じがします。(一見の価値がある御寺ですが、圓乗院さんは観光客に騒がしくされることを好まない真面目なお寺ですから、見学は控えめにしてください。)
圓乗院は、山号寺号を安養山西念寺といい、鎌倉時代の建久年間 (1190-1199)に畠山重忠によって創建されたと伝えられています。畠山重忠は、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」にも登場(中川大志さんが演じています)する有名な武将です。ただし、この時は今の桜区道場(プラザウエストの近く)に立てられ、慶長年間(1596-1615、関ヶ原の合戦のころ)に、現在の位置に移転したそうです。ちなみに圓乗院が元々あった道場には同じ山号を持つ安養山金剛寺というお寺も残っています。
これだけでも圓乗院は創建以来800年、移転してからでも400年の歴史がある由緒正しいお寺だということになりますが、「新編武蔵風土記稿」という古い本には、このお寺の起源について興味深い話が載っているそうです。
それは、もともと道場には大きなお寺(大伽藍)が立っていたが、このお寺は保元の乱(1156年?)の際に焼けてしまった。建久年間に畠山重忠が、焼け跡から仏像を発掘し、それを祀る道場(仏道修行の場所)を立てたのが、今の安養山金剛寺で、道場という地名の由来である、という話です。これによれば、今の圓乗院につながるお寺の系譜はさらに平安時代以前にさかのぼることになり、道場にはその時代から、「大伽藍」と表現されるほどの大きな寺があったことになります。
なぜ、この場所にそんな大きなお寺があったのか、ということを私なりに推理すると、それは古代の水運によるものだったのではないか、と思います。
昔の河川の流路などが分かる「治水地形分類図更新版」という地図によれば、桜区道場の安養山金剛寺のある場所は、昔の鴨川の流路と入間川にはさまれた自然堤防の上になります。鴨川は今は桶川市内に源流を持つ小さい川ですが、昔は今の指扇駅の西側で入間川(荒川)から別れた大河でした。道場に「大伽藍」があったのは、この鴨川の水運を利用した物流があったからではないでしょうか。また金剛寺の場所から1km弱北方には、羽根倉街道も通っており、まさに交通の要地です。
同じような立地で思い出すのが、桶川の川田谷にある泉福寺というお寺です。山号は東叡山、院号は勅願院といい、平安時代に天皇の命により、円仁(遣唐使の船で中国まで留学した名僧で天台宗の三代目座主)が開いたという、驚くべき由緒を持ったお寺です。このお寺は今でも仁王門などがあり、境内も広くてなかなか立派ですが、平安時代には天台宗の関東根本道場(中心)として無数の堂塔伽藍がある大寺院だったとのことです。
このお寺も荒川を望む自然堤防の上にありますが、無数の堂塔に住んでいた多数の僧侶を支えた物資は川の水運を利用していたのではないでしょうか。先ほどの仁王門なども全て川に面して建っており、このお寺の正面が荒川を向いていたことを思わせます。
古代には、現在われわれが都市を築いている関東の平野部は、河川が洪水を繰り返し芦原が生い茂る手の付けようがない荒地でした。人々の住む集落は丘陵と平野の境目や河川の自然堤防上に築かれ、交通には草木をかき分けながら進まねばならない陸上よりも、網の目のようになった川や沼の水上の方がはるかに便利でした。
圓乗院は、元はそんな古代水運の要所に立てられ、そのあと大規模な河川改修と平地の開拓がはじまった近世になって、陸上交通の幹線である羽根倉街道の宿場の与野に移転したことになります。実に興味深い(って私だけ?)ですね。
また、今回の話の本筋からは離れますが、圓乗院の前身にあたる大伽藍が保元の乱で焼け落ちた、というのも気になる話です。この保元の乱は、日本史の教科書に載っている後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱と同じものなのでしょうか。京都における保元の乱はほんの1週間くらいの出来事でしたが、関東にもそれが波及して戦いが行われたのでしょうか? 当時の情報伝達や政治経済のネットワークがどうなっていたのか、これも興味深いところです。
3/18 あっという間の…
激動の令和3年度が終わろうとしています。本当にあっという間でした。
別に「激動」したかったわけではないのですが、コロナウィルスをはじめとする諸般の事情から何かと激動がちな1年間でした。(「激動がち」ってそんな日本語はないだろう、と自分で自分に突っ込みを入れておきますが。)
先生方には様々な行事の中止や予定の変更に対応していただきましたし、生徒の皆さんも、夕方突然学校からメールで明日からの分散登校やオンラインの指示が来るといった出鱈目な状況によく耐えて頑張ってくれました。
さすがのコロナウィルスも、もうそろそろ終息でしょう。来年度は平常への復帰と学校生活の立て直しが課題になってくると思います。というか、思いたいものです。
3/11 卒業式の奇跡
今日は卒業式でした。(式辞はこちら令和3年度第67回卒業式式辞.pdf )
本校の卒業式では、式歌として「旅立ちの日に」を歌います。
ご存じの方も多いと思いますが、「旅立ちの日に」は、今から30年くらい前に秩父市立影森中学校で生まれ、今では埼玉県内だけでなく全国の学校の卒業式で歌われるようになりました。
30年前は、ドラマ「金八先生」などでも取り上げられていたように、校内暴力に苦しむ中学校・高校が多い時代でした。そのような状況に心を痛めていた影森中の校長先生が、一晩で歌詞を書き上げ、音楽の先生が一日で作曲し、卒業式のサプライズとして披露したという奇跡の様な一曲です。
作詞者の校長先生の世代を反映したのか、歌詞はちょっと1970年代のフォークソング風で、メロディーもちょっとアマチュアっぽくて、はっきり言ってベタな感じですが、逆にそれだけに影森中の先生方の生徒を思う気持ちがストレートに伝わってきて、私はいつもこの曲を聴くと、頭の芯がしびれるような気がします。
さて、本日の与野高校の卒業式でもこの曲を合唱する予定だったのですが、コロナ禍のため歌唱はできないので、伴奏に合わせて各自が心の中で歌う、ということになりました。
ピアノ伴奏がはじまり最初の数小節のあと、気のせいでしょうか、かすかにしめやかに歌声が流れてくるような…。マスクを外している人は一人もおらず、だれも歌唱していないのに…。卒業生みんなの心のエネルギーが空気を振動させたのかもしれません。
卒業式の日にはそれくらいの奇跡が起きても不思議ではないと思います。(写真は、卒業祝いのうさぎ饅頭)
3/9 三年生を送る会
今日は三年生を送る会でした。
明後日11日の卒業式を控え、1・2年生が3年生を心を込めて送り出す会…だったのですが、コロナウィルス感染拡大防止のため、会場の体育館に入れるのは3年生と1・2年生の出演者だけとなりました。
それでも、力のこもった演技や演奏で、3年生の皆さんにしっかり想いは伝わったのではないでしょうか。
最初に新型コロナウィルスの発生が報じられたのは、2019年の12月でしたから、コロナウィルスをめぐる騒動ももう3年目に入りました。
私のような中高年にとっては、2年や3年はあっという間に過ぎてしまいますが、成長過程にある高校生にとっては、非常に長く貴重な年月です。今度卒業を迎える3年生の皆さんに、昨年、一昨年と様々な学校行事を体験させてあげられなかったことは、いかにも残念ですが、卒業後は本校で学んだことを生かして、様々なことにチャレンジしてください。
風はまだまだ冷たいですが、日の光は日々力強さを増してきました。華道部の皆さんが活けてくれた花も春っぽい感じです。春の訪れとともに、コロナの騒動が去ってくれるとよいのですが。