2022年4月の記事一覧
4/28 明日から連休
明日から大型連休です。
今日は久しぶりに気持ちよく晴れたので、お昼に与野公園まで行ったところ、もうバラの花が咲きはじめていました。与野公園のバラ園の見ごろは5月中頃から6月だと思いますが、真冬を除けばどの季節にも咲くバラがあり、一年中散策が楽しめます。本来1年で最も陽気のいい季節ですから、連休中ずっと好天ならいいなと思います。
さて、そこで去年の今頃私は何をしていたのか、と思ったらこのブログで超大作「与野塚巡り」を書いていました。その後、特に研究もしていないので、昨年提起した「与野高校の周りに密集する塚は古墳かも」説の進展はありませんが、今日も与野公園の塚の痕跡とおぼしき砂場(下の写真)を見ていたら、ますます古墳群ぽく思えてきました。
与野公園の砂場は写真の通り、いかにも墳丘の頂部を平らに削ったような形をしています。これがもし古墳で、これだけ頂部を削ったのなら、工事の際に石室や石棺などが現れたのではないかと思うのですが、どこかにそういった記録はないのでしょうか。
行田のさきたま古墳群や千葉県風土記の丘の龍角寺古墳群でもそうですが、古墳群では狭い範囲にものすごい密度で古墳が作られることが珍しくありません。埼玉県教育委員会の「埼玉県古墳詳細分布調査報告書」(1994年)で古墳とされている富士浅間塚、大国社、御嶽社の3つの墳丘に、与野公園内の富士塚、天祖社の墳丘、この砂場の塚の痕跡(?)を加えると、小規模ながらいかにも古墳群らしい景観となります。すごく気になります。
4/14 最近の気候でふと考えました。
今日は朝から小雨が降り気温も低めですが、おとといや昨日は暑かったですね。4月に入ったころは花冷えでまだコートが必要な感じでしたが、たった10日ほどの間に上着を着ているのがつらいほどの陽気になりました。
華道部のみなさんが差し入れてくれる生け花も、今週は早々とひまわりでした(これはおそらく温室で育てたものだと思いますが)
ほんの半月の間にコートから一気に半袖になってしまうような状況に対し、私と同年代の人は「温暖化が進み、季節が冬と夏しかなくなってしまったようだ」と感じ、「何とかせねば」と考えると思います。
私は温暖化の事実は否定しません。またそれを少しでも食い止めるために炭酸ガス排出量を削減しようという現在の温暖化対策も、やってみる価値はあると思います。しかし、これらによって気候が私が子供だった1970年代に戻るとも思いません。なぜなら現在われわれが経験している気候の変化が、二酸化炭素という一つの原因で説明でき、それさえ何とかすればよいという単純なものだとは到底思えないからです。
現在、様々な科学的な証拠から過去10万年くらいの気候については変化の様子がおおよそわかっています。それによればこの10万年のうちには、現在より気温が高かった時期もぐっと冷え込んだ時期もあり、しかも寒暖の変化が極めて短い期間に起きたケースもあった事が分かっています。現在の我々が「普通の」気候と考えているものは、ついこの数世紀間の比較的安定した時期のものであり、過去10万年の中では、むしろ例外的なものです。
地球の気候がそのように変化に富んだものだとすれば、現状維持のために温暖化防止に取り組むよりは、温暖化を避けられない変化として受け止め、それへの適応に努める方が有効なのではないか、と思います。世界各地の気温と降水量が変化すれば、農業に適した場所も変化するでしょうし、生物相も変化するでしょう。それに合わせてどうやって能率的に食料を生産し、世界中に不公平なく供給していくかを考えるべきだと思います。
と、まあ最近の寒暖の変化で考えてしまったわけです。その際にふと思ったのですが、今の高校生は知識として地球温暖化の問題は知っていても、そのことを実感してはいないのではないでしょうか。なぜならば、彼らにとっては、生まれてからずっと今の様な気候だったからです。彼らの世代に任せれば、自分たちの環境に合わせた新しい生存の方法を考え出してくれるかもしれません。
4/5 プチ史跡巡り8 第六天神社
今、学校は春休みで、新学期に向けた準備をしているところです。
今回のプチ史跡巡りは、ちょっと足を延ばして浦和の岸町にある第六天神社です。昨日、出張で浦和第一女子高校に出かけたので、そのついでに寄ってきました。浦和一女の近くで有名なのは調神社ですが、第六天神社は、調神社の北側の住宅地の中にひっそりと立つ小さな社です。
境内の看板に書かれた縁起によれば、祭神は面足命(オモタルノミコト)と吾屋惶根命(アヤカシネノミコト)とされていますが、第六天とは、本来は仏教の他化自在天(第六天魔王)のことを言い、この神社も昔はそれを祀っていたと思われます。
第六天魔王というと、ゲームや戦国時代が好きな人は、織田信長を思いだすかもしれません。仏教では世界は欲界・色界・無色界の三界に分かれ、各界の中もさらに細かく分かれた重層的な構造をしているとされます。第六天は欲界の最上層で、そこの王である他化自在天(第六天魔王)は仏教に敵対し。仏教の修行者の邪魔をする悪魔です。だから、比叡山や本願寺などの仏教勢力と激しく対立していた織田信長は自分を第六天魔王になぞらえていたといわれます。そんな悪魔がなぜ神として祀られるのかというと、他化自在天も他の多くの仏教の守護神と同じように、悪行を重ねた末に、釈迦に帰依し仏教の守護者に変化したといわれているからです。
ウィキペディアによれば、第六天神社という名前の神社は、江戸時代には武蔵の国を中心に関東に数百社もあったとのことですが、現在は36社しかないそうです。これは以前にも書いたように、明治時代に廃仏毀釈・神仏分離(仏教を弾圧し神道を国教化する動き)が行われたときに、仏教や道教由来の神をまつる社は廃されたり、日本の神々に祭神を変更したりしたからです。岸町の第六天神社も、他化自在天の垂迹(日本における化身)とされるオモタルノミコトを祭神として存続を図ったのでしょう。
境内の看板によれば、岸町の第六天社は古くから地元の守護神として親しまれていたそうです。また現在の社殿は昭和45(1970)年に地元の人々が整備したもので、その時に毎年のお祭りも復活させたと書いてあります。直接的には書いてありませんが、これは明治の廃仏毀釈で荒廃した第六天神社への信仰が、地元の人々に受け継がれ昭和の後半になってから復活したということでしょう。
昭和45(1970)年を大昔と感じる人もいるかもしれませんが、1970年と言えば、ぞの前の年にアポロ11号で人類が初めて月に行き、大阪では科学技術の進歩を誇る万国博覧会が開かれていた時代です。そんな科学万能の時代に、地元の信仰を復活させた岸町の皆さんの心意気に感心します。