校長室ブログ

2022年5月の記事一覧

5/26 一学期も後半戦&プチ史跡巡り10

 与野高校では昨日で中間考査が終わり、今日から1学期の後半戦です。

 生徒の皆さん、中間テストの調子はどうでしたか? 特に1年生の皆さんはどうですか? 思ったような点数が取れそうもない、とショックを受けている人もいるかもしれません。 皆さんも高校生である以上、点数や成績は気になると思いますが、気にしすぎることはありません。

 もちろん高校の各教科の内容は、どれも将来のためにマスターしておきたいごく基本的な知識ばかりですから、できるに越したことはないのですが、満点を狙う必要はありません。数学を例にとってみれば、三角関数やら微分・積分やらの計算は、現実の社会ではコンピュータにやらせているはずです。人間が手で計算する必要はなく、その点では皆さんも全員が高い計算能力を持つ必要はありません。しかし、「微分・積分とはどういうものか」という考え方や手順を理解していなくては、コンピュータを働かせることが出来ません。高校で勉強することには全てそういう意味がありますから、皆さんは思うように点数が取れない苦手科目でも理解しようとする意欲は持ち続けてください。その意欲さえあれば、おそらく赤点にはならないでしょう。

 さて話は変わって、先日北浦和の駅の近くで開かれた会議に出てきました。そのついでに会場近くの2つの神社を駆け足で(本当に走って)見てきました。

 1社目は「八雲神社」です。以前にも書いたように「八雲神社」は京都の八坂神社(祇園さん)の系統で、疫病退散に御利益のある神様として全国に無数の末社があります。北浦和周辺にもいくつかの八雲神社があり、元町に比較的大きな社があるようですが、この日、訪れたのは北浦和1丁目の「八雲神社」です。

 北浦和1丁目 八雲神社

 住宅地の真ん中にある小さな神社ですが、きれいに手入れされています。私は地元の方の信仰心に支えられたこういう感じの神社が大好きです。

 次は、もう少し離れたところにある「豊川稲荷」です。名前からして愛知県にある「豊川稲荷」の末社なのでしょうが、愛知の「豊川稲荷」は千手観音を本尊とし併せて吒枳尼天(だきにてん)も祀るお寺です。なぜ稲荷なのにお寺なのかというと、明治の神仏分離の時に神社ではなくお寺になる道を選んだからです。吒枳尼天(だきにてん)は仏教の他の「○○天」と同様に、仏教に敵対する悪鬼羅刹だったものが、仏教に帰依して守護神となったインドの神様です。そして、これが垂迹し日本に顕現したものが稲荷神とされます。お稲荷さんは五穀豊穣から転じて商売繁盛にも験があるとされるので、繁華街の一角によく祀られています。

 豊川稲荷 一番街

 今回訪ねた「豊川稲荷」も、現在は隣の家に「大衆酒場」という看板が残っているだけですが、周囲の様子は、かつては飲食店の並んだ横丁だったことを偲ばせます。「大衆酒場」の看板と小さな稲荷社の組み合わせが昭和の雰囲気を醸し出しており、丸ごと文化遺産に指定したい感じです。

 それにしても、ここは駅からちょっと距離がありますし、昔から近くに大きな会社や工場はなかったと思うのですが、かつては繁盛していたのでしょうか。横丁の入り口の電柱に「浦高通り一番街」という表示が残っていますが、いくら昔は今より大らかで先生方にも豪快な人が多かったといっても、まさか浦和高校の先生方だけで横丁一区画を支えるほど飲食していたわけではないでしょう。ちょっと不思議です。

 今回、回ったのは、いずれも家内安全や商売繁盛などを願った近隣の人びとによって作られた小さな社です。このように神様を勧請してくれば(あるいはお祀りする気持ちさえあれば)、どこにでも神社が出来るという自由さ、大らかさが神社の魅力だと思います。

 

 

5/18 プチ史跡巡り9 本太氷川神社と中山道の謎

 先日、さいたま市立浦和高校まで行ったので、途中、本太氷川神社を見てきました。

 中山道から1km弱東のさいたま市立本太小学校の北側にあり、石畳の参道やうっそうとした境内林などなかなか趣のある神社です。本太という地名の由来ですが、本太氷川神社の扁額には「元府址(もとふと)」と書いてあり、かつてここに「府(何らかの役所)」があったからだという説があります。(地形に由来するという別の説もあります。)

 

 しかし、古代の武蔵国府は国分寺市にあったことが明らかですし、足立郡衙の候補地は、大久保領家遺跡(埼玉大学の近く)や氷川神社東遺跡(大宮公園一帯)が有力視されています。説の通りここに「府」があったとすると、何の役所だったのでしょうか。本太氷川神社にはそのような謎がありますが、そこで思い出したのが、かねてより私が不思議に思っている中山道の謎です。

 謎の一つ目は「中山道と一体何だったのか」というものです。

 今回訪問した本太氷川神社もその一つですが、大宮の氷川神社や上記の氷川神社東遺跡、浦和の調神社、蕨の蕨城跡など、中山道の近辺には多数の史跡が存在します。中山道が街道として整備されたのは徳川家康が江戸に入った後ですが、史跡・遺跡の分布を見ると古代・中世から有力な交通路だったことは、間違いないでしょう。しかし、一体、何という道だったのかが、わかりません。

 中山道の前身となった古代の東山道は上野(群馬)から下野(栃木)へ向かうのが本線で、埼玉県内を通っていた支線の武蔵路は、吉見から川越、所沢を通り国府(東京・国分寺市)へ向かう(今の関越自動車道に近い)ルートだったことが分かっています。もう少し時代が下がった中世の鎌倉街道は、東山道武蔵路をなぞるように県西部を通る「上つ道」、川口、岩槻、杉戸、幸手と県東部を抜けていく「中つ道」(今の東北自動車道に近いルート)と、所沢、志木から与野高校のすぐ東側を通り、上尾、幸手と抜けて「上つ道」と「中つ道」をつなぐ「羽倉道」などが県内を通っています。

 しかし今の中山道のルートはこれらには該当せず、古い時代に何と呼ばれていたのかが分かりません。一次資料である古文書や本格的な研究論文などを調べればいいのかもしれませんが、普通の郷土史の本やネットで引っかかるような範囲では、中山道の歴史は徳川幕府の五街道整備から登場し、それ以前については東山道武蔵路など直接関係のない話が書かれていて微妙にはぐらかされている感じです。先述の通り有力な交通路で沿道もかなり発達していたことは間違いないのですが。

 謎の二つ目は、「江戸時代以前の中山道はどこへ向かう道だったのか」ということです。江戸時代からの中山道は、浦和、蕨、戸田から荒川を渡って板橋、そこから上野や東京大学の赤門の前を通って起点の江戸・日本橋に着きます。

 江戸は徳川家康がやってくる前は、さびしい漁村に過ぎなかったとされています。しかし氷川神社のある大宮、調神社のある浦和、経済や交通の要衝として蕨城の置かれた蕨を通る道の終点がさびれた漁村のわけはありません。中山道がどこか別の場所に向かっていたのか、それとも江戸がさびれた漁村ではなく向かう価値のある場所だったのかのどちらかでしょう。

 今の東京都内では品川や浅草は古代・中世から港町として栄えていたことが分かっています。江戸(狭い意味での)も徳川家康以前に太田道灌が城を作っていたくらいですから、言われているような漁村ではなく、それなりに繁盛していた町だったのではないかと思います。

 徳川氏以前の江戸については、江戸を開発した徳川家康の偉大さを強調するため、不当にさびれた田舎ぶりが強調されている可能性があります。またなぜか昔から日本史業界では関西系の勢力が強く、西日本の先進性と東日本の後進性が強調されてきた感があるので、その影響もあるように思います。

 我々埼玉県南部の住民には日頃見慣れた中山道ですが、いろいろと考察すべき問題があります。

5/9 連休を振り返る

 連休が終わってしまいました。なんかあっという間でした。

 連休の間に与野ではあちこちでバラが咲きはじめました(写真左)。去年も書きましたが、与野は町中にバラが植えてあって本当にきれいです。

 さて連休中の私の行動を振り返ってみますと、お金もないので、自宅周辺を走るか、家で本を読むかで、大したことはしていません。

 それでもあえて書いてみますと、5月3日には上尾市民の憩いの場、丸山公園に行きました。自宅から往復約14kmと手ごろなランニングコースです。折からの行楽日和に多くの家族連れでにぎわっていました。

 私の目的は水生植物園だったのですが、何故か水が抜かれてただの草原になっていました(写真右上)。昔、我が家の子供が小さいころには、一面の菖蒲田で大変きれいだった記憶がありましたので、今年もきっときれいだろうと期待していたのですが…。もしかしてコロナウィルス対策で人が集まらないように、先回りして花をなくしてしまったのだとしたら、大変残念です(もちろん、ただの公園整備の一環かもしれませんが…)。

 仕方がないので、丸山公園の人気者、コツメカワウソ(写真中下)を見て帰ることにしました。しなやかな動きで走り回る様子に子供たちが歓声を上げていました。いや、なかなかかわいらしいものですね。

 その途中、丸山公園の近くで古い馬頭観音の石碑(写真中上)を見つけました。作られた年代は表面が剥落していて読み取れませんが、かなり古いもののようです。道標も兼ねていて、「北 あ(ぜよし?)、川田谷」「東 大(谷?)」、「西 か(わごえ?)」と彫ってあるようです。また願主「渋谷竹兵衛」とあるのも読み取れます。このご近所には今も何件か渋谷姓の御宅があるので、そのご先祖と思われます。こういうものを見て歩くのは楽しいですね。丹念に見て歩いて、一覧を作ってみてもいいかもしれません。

 5月4日には、与野高校吹奏楽部の定期演奏会に行きました。お客さんを入れて開催できるのは3年ぶりですよく練習した迷いのない元気のいい演奏でした。今年こそ、様々な教育活動が正常化できるといいのですが。