2022年11月の記事一覧
11/16 プチ史跡巡り(15)上尾の胡桃下稲荷
久しぶりにタイトルにふさわしい史跡巡りです。
今回訪ねたのは上尾駅東口の少し北側にある笠間(胡桃下)稲荷です。ビルの谷間の小さな社で、「プチ史跡巡り(10)」では紹介した北浦和の豊川稲荷とちょっと似ています。この神社自体は明治時代に茨城の笠間稲荷から勧請して建てられたという来歴がはっきりしており、特に不思議なところはありませんが、本社の笠間稲荷には、別名の「胡桃下(くるみがした)稲荷」も含めて私はちょっと不思議なものを感じています。
稲荷神社の祭神は一般的にはウカノミタマという食物・穀物の神様であるとされます。この神様は古事記・日本書紀に出てくる豊穣をつかさどる神として尊崇を集め、すべての稲荷の総本社とされる京都の伏見稲荷などは平安時代に正一位の神格を与えられ、明治時代には官幣大社となるなど国家の厚い保護を受けてきました。
一方、今回取り上げた笠間稲荷です。現在の笠間稲荷は関東を中心にたくさんの末社を持ち、伏見、豊川に次ぐ三大稲荷とまで呼ばれています。しかし、この神社は江戸時代に笠間藩主の牧野家が朝廷に願い出て、伏見稲荷と同じ正一位の神位を得るまではあまりぱっとしなかったようです。また、明治時代になってからも社格は伏見稲荷とは比べ物にならない村社でした。この差はなぜなのでしょうか?
私は笠間稲荷の神様がもともとはウカノミタマではない、古事記・日本書紀とは関係ない神様だったからではないか、と想像しています。そう考える理由ですが、由来によれば笠間稲荷は「伏見稲荷から勧請したものではない」とされています。勧請というのは本社からお札やご神体を分けてもらって同じ神様を祭る神社をつくることです。日本の稲荷神の総本社とされる伏見稲荷からの勧請ではない、ということは元々は別の神様だった可能性があるということです。また伏見稲荷と同じ神様だったら、江戸時代に神位を願い出るまでもなく正一位だったはずなのに、改めて願い出たということは、江戸時代にも笠間と伏見は別の神様であるという意識があったのではないでしょうか。
では笠間稲荷の正体は何なのでしょうか。私は,、地元で古くから崇拝されてきた豊穣伸・農業神だったのではないか、と想像しています。笠間稲荷の別名は「胡桃下(くるみがした)稲荷」ですが、なぜそう呼ばれるかというと、昔そこに胡桃の大木があったからだとも、鬱蒼たる胡桃の森があったからともいわれているそうです。胡桃や栗は縄文時代には人々の重要な食糧でした。稲などの栽培が広がる以前から、人為的に栗や胡桃の木を植えて実を収穫するということが行われていたようです。もしかすると笠間稲荷は、縄文時代から地元の人々によって連綿と祭られてきたクルミの神様なのかもしれません…。
こういった記紀の系譜につながらないローカルな神様というのは昔はたくさんいたようです。たとえば同じ上尾の氷川鍬神社は今は氷川神社の系統になっていますが、元々は江戸時代中期に上尾の宿場に突然現れた「おくわさま」を祭る神社でした。江戸時代末からの神道思想の盛り上がりや明治時代からの国家宗教化のなかで、これらのローカル神はほとんどが似た性格の記紀の神様に統合されました。しかし、いまだに各地の伝承の中には、古い神々の残影が残っているようです。
以上の考えは、一次文献とか学術論文とかにあたらずに、ネットの記事や神社名から想像しただけです。学術的な価値はないことを念のため申し添えておきます。
11/11 マラソン大会 & プチ史跡巡り(14)
昨日(11/10)に埼玉スタジアム2002にて、マラソン大会を実施しました。マラソンといっても男子11.5km、女子8kmの持久走大会です。
コロナウィルスのために一部生徒が参加できなかったのは残念でしたが、 得意な人も不得意な人も一生懸命走っていました。(写真は全校一斉の準備体操)
気持ちの良い秋空の下で、久々に開放的な気分を味わいました。生徒の皆さんもそれぞれの達成感や自信を持ち帰ることが出来たのではないでしょうか。
さて、次は久々の「プチ史跡巡り」です。あまりにもひさしぶりなので番号を忘れてしまいましたが、多分「14」でいいと思います。で今回の史跡は、下の写真です。
「これのどこが史跡なんだ!?」と思われた方もいると思いますが、この道路は浦和の中山道から西へ伸びる「六間道路」という道です。なぜ、この道を史跡として取り上げたのか、ということは、この後、おいおい述べていきます。
「六間道路」は昭和9(1934)年に完了した耕地整理事業によりできた道であると、様々な本やWEBページに書いてあります。現在は「新六間道路」といわれることが多いのですが、この道の起点の中山道の交差点には「六間道路入り口」と書いてあります。(このあたりの経緯は「咲いた万歩」さんという方の「浦和の六間道路ができるまで」というブログによくまとまっていますので、興味のある方はご覧ください。)
名前の由来は、そのものずばり道幅が六間(約11m)あったからです。現代の私たちからは対面交通1車線ずつのごく普通の道路に見えますが、当時の人々にはとてつもなく立派な道路に見えたようです。先年亡くなった私の父親は、大正14(1925)年生まれで根っからの浦和育ちでした。父から以前、この道路が完成した時には、みんなで弁当をもって見物に出かけたという話を聞いたことがあります。また子供心に「こんなに幅の広い道路を作ってどうするのだろう?」と思ったとも言っていました。
日本では古代の律令国家は中国に習い幅広な官道を建設しましたが、以後は道路整備を政策的に行うことはあまりなかったようです。江戸時代になると徳川幕府は街道の整備を行いましたが、旅行は徒歩やかごを利用し、物資の輸送も牛馬に背負わせて車両を利用することが少なかったので、幅の広い道路を建築する必要がありませんでした。そんなわけで、日本では道路整備が遅れ、昭和の初めでもたかだか11m幅の道路でみんながびっくりするという有様でした。
戦前の日本は軍事力の整備に傾注した結果、零戦や戦艦大和のような世界水準を超える兵器を開発することに成功しましたが、国力を下支えするインフラ整備は遅れたままでした。その貧弱なインフラのまま、アメリカやイギリスを相手に第2次世界大戦へ突入したのですから、その無謀さは形容のしようもありません。
浦和に残る「六間道路」とその由来は、今後同じ間違いをしないよう我々を戒める他山の石として史跡の価値があると思います。しかし、最近の出来事を見ていると、今日でも日本人は、金の使いどころを間違える愚かさと無縁でない気がします。
11/9 昨日の月蝕は見ましたか?
みなさん、昨日の夕方からの皆既月食はご覧になったでしょうか。
私は欠けていく途中はちょっと見ました(下はその時に撮った写真です。)が、その後はうっかりしてしまい、月が完全に隠れるところは見ませんでした。
テレビなどでは「442年ぶりの月蝕、次は300年以上後!」とか言っていたので、「そんな珍しい現象を見逃したなんてもったいない」と思う方もいるかもしれません。しかし私的には昨日の月蝕は、寒い思いをしても得られるもの多くないだろうと思っていましたので、「見逃したら見逃したで、まあいいか」という感じでした。
月蝕は、太陽と月が地球を間に挟んでちょうど反対側にあり、太陽ー地球ー月となった状態です。そうなると太陽の光でできた地球の影が月に落ちるので、月が暗くなるわけです。実は月に1回、満月の日には必ずこの配置になっているのですが、地球から見た太陽と月の軌道は上下にずれているので普段は月蝕は起きません。とはいっても、2、3年に1回くらいは起きるので、そんなに珍しくない現象です。
では昨日は何が特別だったのかというと月蝕と惑星蝕が同時に起きたことです。惑星蝕とは、月が月より遠方にある惑星と重なって隠してしまうことですが、月蝕と惑星蝕が同時に起きるというのは、さすがにめったにはなく、それが442年ぶりだったわけです。しかし昨日の惑星蝕は相手が天王星でした。天王星は太陽から遠くて暗く、肉眼で見るのはまず無理です。昨日の惑星蝕も、真っ暗な山の中で天体望遠鏡でも使わなければ観測できなかったと思います。(つまり、昨日の月蝕は普通に見たらただの月蝕にしか見えません)
マスコミでは、このあたりの事はあまり言わずに「442年ぶり!」とだけ言って大騒ぎをしていました。そのため「月蝕そのものが数百年ぶり」と勘違いしてしまった人も多かったのではないでしょうか?
中学校や高校で教わる理科の知識があれば、今回のようなマスコミのから騒ぎにも乗せられずにすむのですが、残念ながら、日本では「学校で習う知識は役に立たない」とか「知識よりも創造性」とか「頭でっかちより豊かな心」とかいう紋切り型の反教養・反知性主義がはびこっているので、今回の月蝕のみならず、非科学的なインチキ話に引っかかる人が多いようです。しかし、正しい知識がなければ世界も自然も正しく見ることが出来ず、きちんと感動することもできません。有り余る感情や感動も正しい知識に基づくものでなければ、ただの勘違いかもしれません。
我々学校関係者は教育に携わる者として、率先して反教養・反知性主義の根絶と科学的な考え方の普及に努めなくてはならないと思います。