校長室ブログ

2023年10月の記事一覧

10/26 球技大会 & 日常雑感

 中間考査も終わり、今日は球技大会です。

 今週前半の静まり返っていた中間試験とは打って変わって、今日は学校中が活気に満ちています。生徒の元気や成長を身近に見られるところが、教員の仕事の魅力でしょう。

雑感(1)

とりたててWebに書くほどのことか! と怒られてしまいそうですが、今朝は不思議な夢を見ました。どんな夢かというと、朝起きて着替えて出勤の準備をしている夢です。途中でこれは夢だ、と気づいて目覚めましたが、何しろ夢の中ではきちんと起床しているので、そのままうっかり寝過ごしてしまう可能性もありました。そういった意味では危険な夢ですね。以前に夏目漱石の「夢十夜」の話を書きましたが、夢というのは本当に不思議です。

雑感(2)

与野高校では、毎朝「朝読書」という時間を設けています。それに合わせて、ということでもありませんが、この3年間、生徒向けに私のおすすめの本を紹介するメールマガジンを発信しています。今週はイギリス冒険小説の大家ジャック・ヒギンズの「鷲は飛び立った」を紹介したのですが、その関係で同作に登場するワルター・シェレンベルクという実在のドイツ軍人について調べたところ、柄にもなくちょっと考えさせられてしまいました。

シェレンベルクは諜報活動に非常な才能があり、30代前半でナチス親衛隊少将、親衛隊情報部の局長にまでなったエリートです。ヒギンズの小説では、この人はすごくかっこよく描かれ、親衛隊幹部でありながら陰でユダヤ人らの弱者を助けるヒーローとなっています。

しかし、現実にはそんなにかっこいい人ではなかったようです。ウィキペディアやその他の本の情報によれば、この人が親衛隊に入ったのは、積極的にナチスの主張に賛成していたからではなく、単にその方が大学の奨学金を得やすかったからのようです。また特に反ユダヤ主義というわけでもなく、ユダヤ人虐殺にも積極的には関与しなかったようです。要するにこの人は生活のために親衛隊に入り、たまたま能力が高かったため黙々と仕事をしているうちに、出世してしまったというわけです。

ドイツ敗北後の戦争裁判でもこのことが認められたのか、この人は死刑などの重罪を免れています。しかし、私は、この人がドイツの敗北まで黙々と仕事を続けていた、というところが怖いな、と思います。この人が熱烈な反ユダヤ主義者であれば、親衛隊幹部になった動機がわかりやすいのですが、この人の行動にはそういう色や熱が感じられません。ユダヤ人虐殺に積極的に関与しなかったのも、たまたまこの人が虐殺部隊の指揮官にならなかったからで、もしその任務を与えられていたら、ものすごく能率的に職務を遂行したのではないか、と思います。

能力が高く非常にスマートですが、個人としての信念や情熱ではなく状況に流されるように生きていて、それ次第で善・悪どっちにでも転んでしまう。シェレンベルクの生き方にはそういう怖さがあります。しかし、私自身も今までの人生で主体的に自分の生き方を選んだり、善悪を判断したりしてきたか、というと今ひとつ自信がありません。なにかとても怖いなと思いました。

 

10/13 プチ史跡巡り(26) 上野駅

 この春からあまり歩き回っていないので地元ネタが少ないのですが、今回取り上げる上野駅は埼玉県民にとってはなじみ深く、地元といっても過言ではない場所でしょう。

 私は鉄道ファンではないのですが、子供のころから建築物をみるのは好きだったので、駅や橋梁など鉄道にまつわる建築物にも関心があります。(大雑把な知識で書いているので、致命的な間違いでない限り突っ込まないください。) というわけで上野駅も私が大好きな建物というか、施設の一つです。

 

  皆さんもご存じのように上野駅には低いホームと高いホームがあり、低いホームはそこで行き止まりになっています。今は東海道線直通の列車が増えましたが、上野駅はかつて上越線・信越線(高崎線)、東北線(宇都宮線)、常磐線など東京の北からやってくる路線のターミナル(終点駅)でした。昭和30年代の東北地方からの集団就職の若者など、北から東京にくる人々はみなここに着きました。石川啄木の「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」という短歌は明治時代末期のものですが、これも舞台は上野駅じゃないかな? と思います。私はそんな歴史を感じさせる上野駅の低いホームの終点がずらりと並んだ光景が大好きです。

 そこから出たところが中央改札で、その先には広々としたコンコースが広がっています(写真上)。今の上野駅の駅舎は関東大震災後の昭和初期に建てられ、その後何回も改修はされていますが基本構造はそのままです。ウィキペディアの「上野駅」の項目にこのコンコースの1930年代の写真が載っていますが、当時の面影がよく残っていることがわかります。このコンコースの大屋根は、力学的に設計された構造のはずなのに、どこか繊細で優雅です。とても明るく伸びやかな空間で、上記の集団就職の若者たちも、この空間に迎えられ、そこに将来の希望を感じたのではないか、と思います。

 中央改札を抜けて地下鉄銀座線の入り口の方へ行く途中には、上の写真のような階段があります。私は近年この階段を上がっていったことがないのですが、昔はこの上に喫茶店やレストランがあったような気がします。(違っていたらごめんなさい。今度確かめてきます。)現在のような実用一点張りの建築と違ってちょっとアールデコ風の優雅さを漂わせた階段で、こういうところも実にいい感じです。

 長くなったので今回はこの辺にします。

10/13 秋本番・PTA講演会

 昨日あたりから、町を歩いているとあちこちでキンモクセイの匂いを感じるようになりました。ひんやりした空気の中にあの甘い香りを感じると秋本番という気がします。

 学校では昨日PTA主催講演会が行われ、女優・モデルとして活躍している田中杏樹さんのお話を聞きました。(女優さんならではのオーラのある方で、お写真を掲載すればページの華やかさアップは間違いないのですが、写真は撮っていません。悪しからず)

 田中さんは、山形県警の警察官から女優に転じたという異色の経歴の方で、ドラマ「教場」にも出演されています。昨日は、警察官の時は警察官として一生懸命に勤務をしたこと、その上で勇気をもって芸能界へ飛び込まれたこと、警察官として学んだことが今のお仕事にも生きていることなどのお話をしていただきました。その時々を真面目に生きることが夢に近づくために必要なのかな、と思いました。

 

 

10/2 プチ史跡巡り(25) 佐世保の電波塔

 めっきり秋めいてきました。今朝などは半そでシャツだけだと肌寒さを感じるほどでした。急な気温変化で風邪などひかないよう、お気を付けください。

 下の写真は、先週の修学旅行でハウステンボスに行った際、展望塔(ドムトールン)の上からとった写真です。

 写真の中央付近に森の中から突き出した3本の塔が見えると思いますが、これが旧帝国海軍の電波塔「針生送信所」です。いつも頼りになるウィキペディアさんによると、作られたのは大正11(1922)年で平成9(1997)年まで海上自衛隊、海上保安庁によって運用されていました。現在では国の重要文化財に指定されています。鉄筋コンクリート製で高さは135mと137m、基部の直径は12mという巨大な建築物です。太平洋戦争の時には「ニイタカヤマノボレ1208」の開戦の暗号を送信したという説もあるそう(異説あり)です。この塔は内部が空洞になっていて、その写真がウィキペディアに載っています。実用的な施設のはずなのに、昔の建物はどことなく華奢で優美な感じがするのか不思議です。今回は行けませんでしたが、内部見学はできるそうなのでいつか行ってみたいと思います。

 なぜこんな巨大な塔を建てたのか、ということですが、建設当時は今のように電波を中継する通信衛星はなく、電波を電離層で反射させ遠くまで届かせる短波通信も未発達でした。長距離通信を行うためには、障害物に邪魔されにくい長波をなるべく高い位置から発信することが重要だったようです。

 この史跡を見ても思うのですが、昔の日本は良くも悪くも頑張っていました。

 第二次世界大戦以前の日本は急速に工業化を図っていましたが、欧米先進国に比べ基本的な国力・経済力ははるかに劣り、せいぜい中進国といったところだったはずです。産業は農業が中心で、凶作の時は農村で女の子の身売りが横行するような貧困状態、舗装された道路はほとんどなく自動車の国産化もおぼつかない国が、西太平洋全体を勢力下に入れる大艦隊を作り、アメリカやイギリスに対抗していたのですからすごい話です。そのアンバランスに軍事力に傾注した歴史が東京大空襲や沖縄戦、広島、長崎といった悲惨な結末に行き着いたことを思うと、もっと別の道はなかったのかと悔やまれます。

 しかし、その一方で、現在の覇気も野心もすっかり失って衰退の道を転げ落ちていく日本の様子を見ると、世界を相手に戦いに打って出た昔の日本人の気力だけは見習いたい気がします。