2023年12月の記事一覧
12/28 御用納め・寺田寅彦博士に関する追記
今日はいわゆる「御用納め」です。明日から1月3日まで、全国の官公庁が原則として休みになるわけですが、現在の日本国憲法の下で、主権在民、官公庁も国民のための公僕となったはずなのに、偉そうな「御用」という語が慣習的に残っているのは、ちょっとおもしろいですね。
さて平成のはじめ頃までは、御用納めの日には午前中に仕事の整理や執務室の掃除などをして、お昼からはお寿司の出前などをとって慰労会、というのが一般的でした。しかし、昨今は服務に関して見る目が厳しくなったこともあり、そんな光景は見られなくなりました。また正月も以前は商店もデパートも休みで、仮に2日に初売りをしても3日はまた休んだりしていました。今はコンビニだのファミレスだのは年中無休で便利になりましたが、そこで働く人は大変です。正月くらいみんなでのんびりしてもいいのにと思います。
さて前回の史跡巡りで寺田寅彦に触れましたが、そのことについてちょっと追記しておきます。
寺田寅彦(1878-1935)は日本を代表する物理学者であったとともに夏目漱石門下の文筆家としても知られていた人です。この人は一般向け・子供向けの科学エッセイをたくさん書いていて、昔は(今も?)国語の教科書によく取り上げられていました。今回、寺田寅彦の「火山の名について」を読み返して、改めてその偉さがわかりました。
「火山の名について」では、火山の名には世界的に類似が見られるということを述べていますが、寺田寅彦は、この問題を調べていく方法として、「唯一の科学的方法はこれらのあらゆる不確実な伝説や付会説をひとまず全部無視して、そうして現在の山名そのものを採り、全く機械的に統計にかけることである。」としています。例えば、アソ・アサマ系の火山名であれば、それが「母音+子音(綴音)」の音の配列をもつ火山名のうち、どの程度の比率になっているのかを計算して、偶然か否かを判断すればいいということを示唆しています。寺田寅彦は現在で言うところの原子物理学を専門にしていた人でしたが、この火山名の特徴を数式モデルにして、統計的に処理しようとするところは、物理学者の面目躍如といった感じです。
寺田寅彦はこの短いエッセイの中では、この問題の結論を急ぐことなく、十分な検討をするためにはもっとデータが必要であり、今後の研究が待たれると結んでいます。しかし、もし寺田が現在に生きていて、パソコンやインターネット、ビッグデータやChatGPTなどが利用でき、データマイニングなどの手法を知っていたら、この問題についても、もっと決定的な面白い結論を導いたのではないかと思います。
寺田寅彦は、専門の物理学でも世界レベルの研究者でしたが、国民、特に青少年に科学的な精神を広めようとして、たくさんの科学エッセイを書きました。しかし寺田が普及しようとした冷静で科学的な態度、特に問題を統計的に考えようとする態度は、現代の日本には、残念ながら全く根付いていません。つい先ごろのコロナ騒動においても、専門家と称する人たちには、「感染拡大は国民の気が緩んだから」などと、科学的説明を欠く言説が多く見られましたが、マスコミや国民から疑問や批判はほとんど起きませんでした。寺田が存命ならさぞ嘆いたことだろうと思います。
今年も色々書きましたが、みなさま、良いお年をお迎えください。
12/25 冬休み・プチ史跡巡り(32)本郷・東京大学
今朝はこの冬一番の冷え込みでさいたま市内も氷点下だったようです。与野本町駅前の花壇も霜柱がジャクジャク立っていました。
今週から冬休みに入りましたので、今日は校内が静かです。
さて史跡めぐり、前回の続きです。湯島から春日通りを歩いて本郷3丁目交差点を右折します。しばらく歩くと道の右側に小さなお社がありました。看板によるとこれは浅間神社だそうです。祠の中には小さな鏡が安置されていますが、浅間神社であれば、祠の横の石碑こそが御神体だろうと思います。
看板にはこのお社の由来も書かれています。それによると、この近くにあった加賀・前田藩邸内にかつて富士塚があり浅間大神が祀られていたが、東京大学を作るときに取り壊されたので前田家の屋敷のあったこの場所に移り、さらに前田家が移転した際に管理が町内会に託された…。また、かつて富士塚があったので、この辺り一帯を「本富士」と呼んでいたとのことです(今は町名変更で、本富士警察署の名にしか残っていませんが)。
富士塚については、この「史跡巡り」でも何回か紹介していますが、てっぺんに上の写真のような「浅間大神」の石碑があるのが一般的です。神社や神様の名前としては「せんげん」とよみますが、この漢字は「あさま」とも読めます。「あさま」といったら長野県の浅間山ですが、それ以外にも日本には、阿蘇山(アソ)、有珠山(ウス)など、音韻の似た火山があります。この類似については古くは寺田寅彦博士も注目していて「火山の名について」(昭和6年)というエッセイを書いています。寺田博士は「アソ、アサマ、ウス」などはアイヌ語やもっと広くマレー語などアジア一帯と関連がある可能性を指摘しています。寺田博士以後にもこの問題を論じた人はたくさんいますが、日本の文化の最古層にまで遡りそうな問題です。
さてここから更に北上すると、見えてくるのが東京大学の赤門です。江戸時代にこの場所にあった加賀・前田藩邸の門で、第11代将軍徳川家斉の娘が前田家に嫁ぐ際、特に赤い色の門を作ることが許された、というものです。両番屋付きの堂々たる門ですが、耐震性に問題ありということで数年前から通行止めになっています。
東京大学は私の母校、ではない(残念ながら)のですが、この日はここで開かれる教育経済学の研究会に出席するためにやってきたので、遠慮なく構内に入ります。私だけかもしれませんが、母校でない大学に入る時はなんとなくアウェー感があって緊張します。小学生の頃に友達と隣の小学校の校区に踏み込むときに、「敵地潜入」みたいにピリピリしながら入っていったのと同じようなものでしょうか。
構内にはいると、東大の校章にもなっているイチョウの並木が真っ黄色に色づいて、青空に映えていました。少し盛りは過ぎた感じですが、絵を描きに来ている人や写真を取りに来ている人がたくさんいました。それにしても東大の構内は素晴らしいですね。以下はミニ東大写真集になります。
安田講堂です。学生運動が盛んだった1969年に、ここでこの建物を占拠した学生たち(全共闘)と警察機動隊の激しい戦いがありました。
三四郎池です。前田藩邸時代の庭園の一部だそうですが、今は周り中に樹木が生い茂り自然の沼のようです。四方から窪んだところにあるので周囲からは見えにくいとおもうのですが、どういう庭園プランだったのでしょうか。
メインストリートの文学部(?)側から見た通廊です。この校舎一棟だけだとそんなに奥行きはないのですが、複数の校舎の通廊の軸線が揃えられているのでずっとトンネルが続いているように見えます。東大には何回か行ったことがありますが、いつもこの建築美に感動します。
校舎の扉です。鋲が打たれた重厚な扉とその上部の透かし彫りの窓など、大学の校舎というよりは宗教建築のようです。昔はただの扉でも、これだけの熱意と手間をかけていたんですね。
東京大学は校舎や構内が素晴らしいだけでなく、設備や教授陣も一流です。私もこんな大学で勉強してみたかったですね。ちょっと、というか、かなり頑張りが足りませんでしたが、後悔先に立たずというやつです。
近年、与野高校から東京大学に進学した人は残念ながらいません(昔のことは調べてないのでわかりませんが)。しかし、みなさんが大学生活を送るのにこれほど素晴らしい環境はないでしょう。生徒のみなさん、だれかチャレンジしてみませんか。
もちろん日本のトップクラスの大学ですから、そう簡単には入学できないでしょう。しかし、まずは大学共通試験で問われるような基礎知識をしっかりと見に付け、さらにそれらを組み合わせて問題を解決する思考力を磨けば、まったく手が届かないというものではありません。挑戦する価値は十分にあると思います。
12/22 終業式・プチ史跡巡り(31)上野~湯島へ
本日は第2学期の終業式でした。終業式では明日から冬休みなので、初詣に行くのであれば、何かを神様にねだるのではなく、誓願を立てようという話をしました。(概要は令和5年度第2学期終業式.pdf)
さて、前回のプチ史跡の続きです。前回は上野駅から不忍池へ回りました。
今回は不忍池の南西角の水上音楽堂を通り過ぎた後、左折し、その後またすぐに右折し春日通りに入ります。
しばらく西へ進むと左側に湯島天神が見えてきます。
天神といえば、菅公・学問の神様なので、これから受験する3年生を見守ってくれるよう祈りつつ、先へ進みます。東大のある向ヶ丘を巻くように緩やかにカーブしている春日通を歩いていくと右手側に何やら女性の像が。
どなたの像かと思えば、台座に春日局と書いてあります。この奥に山門の見えているお寺が麟祥院で、ここに春日局の墓所があるそうです。春日局といえば、徳川3代将軍家光公の乳母として従二位の位階に上り、時に政局にも影響を及ぼしたといわれる女性です。今年の大河ドラマ「どうする家康」でも、つい先ごろナレーションが春日局視点だったことが明らかになっていました。
この通りの名「春日通り」はこの方の墓所があるからだったのですね。うかつにも知りませんでした。勉強になりました。
春日通りをさらに進み、本富士警察署を通り過ぎた反対側に何やら趣のある建物がありました。
私はこの建物の存在を知らなかったのですが、優美なアーチをいただく玄関の上に「東京會堂」と右から左に向かって書いてあるところや、ゴシック様式を模したアーチ型や壁面の浮彫など、ただものではない感じです。調べてみたところ、ここは日本基督教団の本郷中央教会で、この建物は昭和4年に建てられ国の登録有形文化財であることがわかりました。内部もぜひ見てみたいのですが、教会というのは信仰の場です。私のような異教徒がずかずか入っていくのは憚られます。(以前にも書きましたが、私はキリスト教の神やイエスを否定しませんが、唯一のものとも認めていませんので…。)
ここまでご覧になった皆様には、そろそろこの散策のゴールが見えてきたのではないか、と思いますが、長くなってきたので、また次回に続きます。
12/20 もうすぐクリスマス
前回の上野周辺史跡めぐりの続きも書こうと思うのですが、これは本来学校のWEBページですから、学校内とその周辺のことも書かないとというわけで、まずは校内から…。
昨日、華道部の皆さんがとてもきれいなクリスマス向けのフラワーアレンジメントを持ってきてくれました。
鮮やかな緑と赤、雪を思わせるカスミソウの白で、殺風景な校長室がすっかりクリスマスっぽくなりました。
クリスマスカラーというと赤と緑ですが、これはやっぱりヒイラギ(クリスマスケーキの飾りのトゲトゲした葉っぱと赤い実のあれです)からきているのでしょう。クリスマスはもともと太陽の復活と生命の再生を祈るドルイド教の冬至祭だったといわれますから、冬でもつやつやとした実と葉をつけるヒイラギを生命力の象徴とみていたのでしょう。
次に学校周辺の最近の出来事といえば、本校の近くの旧埼玉県信用金庫与野支店の建物の解体作業が始まりました。
頑丈そうなコンクリート建築で、窓の格子のあたりに昭和レトロな感じが漂います。調べたわけではないのですが、昭和40年代くらいの建物でしょう。あまり大きな建物ではないのですが、重厚ないいデザインです。この支店に限らず、昔は銀行というと石造りやそれを模した建物が多く、銀行という商売に安定や信頼、堅実といったイメージが求められていたことがうかがえます。
今は、埼玉県信用金庫与野支店は埼京線の与野本町駅前に移転していますが、建物も軽快でモダンなものに変わりました。今は銀行にも安定や堅実より、フットワーク軽く利益を上げることが求められる時代となったということでしょうか?
時代とともに街並みが変化していくのは仕方がないのですが、かつて羽根倉街道の宿駅として発達した与野の本来の中心部から銀行がなくなるのはちょっと寂しい気がします。
12/18 プチ史跡めぐり(30) 上野駅(2)と不忍池
早いもので、今週いっぱいで2学期も終わります。今年も残すところあと2週間となりました。そんな師走のあわただしさの中、昨日、所用で上野方面に行きました。風はちょっと冷たいものの抜けるような青空でしたので、ついでに散策してきました。
上野駅については以前(プチ史跡26)も書きましたが、まずその続きから。
中央改札を抜けたコンコースのアーチです。内側にきれいな浮彫の装飾があります。上野駅のこの辺りも何回も改装をされたはずですが、今時、こういった部分にお金をかけたり、またこんな細工のできる職人もいないと思いますので、おそらく大正時代の建築当初のものでしょう。
コンコースの出口の天窓の格子もいい感じです。
上野駅の正面出口の外観です。日本の特撮番組の金字塔、「ウルトラQ(1966)」第14話「東京氷河期」の冒頭で、桜井浩子さんの演じる新聞記者・由利子が、出稼ぎに出たまま行方不明の父親を捜しに来た少年と出会うのが、この場所です。改装により若干の変化はありますが、ほぼ60年前と同じです。「ウルトラQ」が放送されていた当時、私は3歳くらいだったはずですが、ケムール人とかカネゴンとか、やたら怖かった記憶があります。
広小路から不忍池の南側に回りました。遠くに弁天堂(写真中央やや右側)が見えています。徳川家康が江戸に入ったとき、江戸と江戸城を守護するために東叡山・寛永寺を作りました。寛永寺は京都の東北にあって京都を守護する寺、比叡山・延暦寺に対応させたものですが、それと同様に琵琶湖の竹生島の弁天堂を模して造られたのが、この不忍池の弁天堂です。
昨日はたくさんの人が池の周りを散策し、池の向こうの音楽堂では何やらアイドルさんのイベントも行われ、なかなかの賑わいでしたが、この上野の山から広小路、不忍池の一帯は、江戸時代から庶民の手軽な行楽地として繁盛した場所でした。明治時代には不忍池を周回する競馬も行われていたそうです。
また、森鷗外の小説「雁」にも不忍池は登場します。小説の最後の方で大学生の主人公たちが、池の雁(水鳥)に石を投げつけて殺し下宿に持ち帰って食べようとする場面があります。友人の一人が蓮の泥田を掻きわけて雁を取ってくる描写があったような気がするので、この写真を撮ったあたりが想定されていたのかもしれません。森鷗外や夏目漱石の作品で「学校」や「大学」といったらほぼ東大のことですし、「大学生」というのもみな東大生です。明治時代の東大生はずいぶんワイルドだったのだな、と思います。
長くなってきたので、ここで切りますが、次回もこの続きを予定しています。
12/11 プチ史跡?(29)燃料式カイロ
昨日は大宮氷川神社の大湯祭(十日市)でした。明日は浦和の調神社の十二日市です。もっとも生徒の皆さんは期末試験でお祭りどころではないかもしれませんが…。
子供のころ親に十日市に連れて行ってもらったことがありますが、夜の縁日は霜柱が真っ白く立ち、ジャンパーを着こんでいても背骨までしみとおるような寒さだったのを思い出します。それに比べれば近年はやはり暖かくなりました。
で、寒いといえばこれ(写真)、
「これ」と言われても、これが何かわからない方もいるかもしれませんが、「燃料式懐炉(カイロ)」です。
今年は、燃料式カイロの代名詞「ハクキンカイロ」が、ハクキンカイロ(株)の創業者、的場仁市によって大正12(1923)年に発明・発売されてから、ちょうど100年にあたります。
少量の燃料でゆっくりと持続的に熱を出し続ける燃料式カイロは、非常に画期的な製品でした。当時、満州(今の中国東北地方)に駐留していた日本軍の兵隊はこれを凍傷の予防や銃の凍結防止に愛用しました。また寒冷地では軍用自動車や飛行機のエンジンを始動するための予熱機材としても使われました。また第二次世界大戦中に様々な物資がなくなっていく中でも、国民の健康維持に欠かせないものとして優先的に生産されました。
こうして戦争の時代の中で普及したカイロですが、戦後はもっぱら平和な民生用品として製造・販売されてきました。近年はより手軽な使い捨てカイロに押され、あまり見かけなくなっていましたが、この数年は、キャンプブームの中、漫画「ゆるキャン△」の登場人物が使ったこともあって人気が復活しつつあるそうです。
今回は、もはや「史跡」でも何でもなくなってしまいましたが、このようにありふれたカイロにも日本の近現代史が刻まれているわけです。
現在、燃料式のカイロは本家のハクキンカイロ(株)以外にも、いくつかの会社から発売されています。上の写真は、私が今持っているものですが、一番左がハクキンカイロ、右側の3つは別会社の製品です。興味のない方は「いい加減にしろよ」と思うかもしれません。しかしこれらを使い比べてみると、同じハクキンカイロ社製の火口を取り付けていても、本体の大きさや形状で温かさや持続時間が微妙に違います。
そして、世の中には何か物があればそれを好む人がいるもので、カイロにも「カイロ趣味」というものが存在し、カイロマニア(私ではありません。最近の製品を4つしか持っていない私など、全然お呼びではありません)が存在します。この人たちの間では、すでに絶版となっているものや、歴史的な価値のあるものなどは珍重され、場合によっては高値で取引されるようです。もしみなさんのご自宅の物置やタンスの引き出しから、戦前のハクキンカイロ(現在のものより丸みが強く、クジャクの模様が細かい)や、ナショナル社製の電池着火式の「黄金カイロ」などがでてきたら、レアものですから捨てたりしないでください。カイロの道(?)もなかなか奥が深そうです。
12/5 もう師走+プチ史跡(28)見沼区某所のお社
早いもので12月になりました。二学期も押し詰まり、本校でも今週の金曜日から期末試験です。
急に寒くなってきてもう冬本番ですね。近年の日本(埼玉県近辺)の気候は、3月末〜4月中旬だけ春、4月下旬〜10月の半年が夏、11月だけ秋、12月〜3月中旬が冬という感じだと思います。先日、我が家の庭先で赤トンボがぽつんと1匹、日向ぼっこをしていました。夏が長すぎるせいでうっかり出遅れてしまったのかもしれません。ちゃんと仲間と出会えると良いのですが…。
さて、本日のプチ史跡は、見沼区某所にある小さなお社です。
なぜこのお社を紹介したのか、というと「私が子供のときによく遊んだ場所だから」という大変個人的な理由です。このお社ですが、特に額もかかっておらず説明の看板などもないので、由来も分からず、どんな神様を祀っているのかも正確には知りません。しかし、私が子供の頃(50年前)にはすでに、古い社だなと思っていたので、少なくとも80年を超えるくらいの歴史はありそうです。我が家では「お稲荷さん」と呼んでいましたし、ご近所でもそれで通じていたと思います。
今とは違い子供が遊んでいても目くじらを立てる人はいなかったので、近所の子は境内の木に登ったりお堂の下でアリジゴクを取ったりして遊んでいました。また、私の両親は、私が言うことを聞かないときなどに「お前はお稲荷さんで拾ってきた子だから、聞き分けがないと返しに行くぞ」と言って脅しつけることもありました。現代だったら「精神的虐待」とかで児童相談所が来てしまいそうですが、昔はこういう叱り方をする親がいました。また、私自身も「拾われっ子だというのなら、いつか本当の親(金持ちで優しい)が迎えに来るかも…」みたいに考えたりしていました。今から思うとまるで民話とか説話のようですね。
前々回の「プチ史跡(27)」で小さなお堂や祠などには個人所有のものが少なくないという話を書きましたが、このお社も近くの旧家の方が所有されているものでしょう。私はこの数年、この場所には行っていないので、はたしてまだこのお社があるかどうかわかりません(写真は数年前のものです)が、おそらくまだ健在だと思います。この先もこの地域の「お稲荷さん」としてあり続けてほしいと思います。