2024年1月の記事一覧
1/24 頑張れ受験生 & プチ史跡巡り(35)庚申塔探し(1)
1月も下旬になりそろそろ大学の一般受験も始まります。三年生で一般受験まで頑張るという人たちは、実力を発揮できるよう、体調を万全にして挑んでください。
皆さんの中には受験にプレッシャーを感じている人もいるかもしれません。しかし私自身が受験生だった時のことを思い出すと、毎日が楽しくてしかたがありませんでした。私は勝負事が好きなので、自分のこの先数年間という大きなものを賭ける受験は最高にワクワクするゲームでした。みなさんもぜひ満足の行く戦いをしてきてください。
さて、性懲りもなく「プチ史跡」ですが、今後はちょっと私の生活圏内にある庚申塔や馬頭観音などの石造物を回ってみようかな、と思います。そんなにガシガシやるつもりもなく、あくまでも見かけたら記録するという感じで行きたいと思います。
その第一弾です。これは私のジョギングコースにある上尾市栄町の庚申塔です。
この庚申塔は、上尾市のWEBページにも「馬喰新田の寛政12年銘庚申塔」として記録されています。旧中山道をさいたま市側から北上して上尾市に入ってすぐの左側(西側)にあります。非常に状態がよく正面の金剛像の表情まではっきり残っています。右側面には「寛政十二年十二月吉日(1800年)」の年紀など、左側面には、秋葉、平方、川越への里程などが刻んであったようですが、両側面とも塔の下の方は私にはよく読めませんでした。(上尾市のページには読み取り結果が載っています)
次に、上の庚申塔と中山道を挟んだ反対側(東側)の路地を少し入ったところにある庚申塔です。これも非常に立派で状態も割と良いものですが、これは上尾市の登録からは漏れています。
こちらは正面には像ではなく「庚申塔」という文字が刻まれています。ウィキペディアによれば、こういう文字の刻まれたものは像の刻まれたものより新しく、江戸時代の後期に多いそうです。
右側面には「右 いわつき」の道案内と、建立された年紀がありますが、白カビによる腐食が進みよく読めません。しかし、「七」という字と「申」という字ははっきり読めるのでそこから推測してみます。
江戸時代には、改元(元号を変えること)が頻繁に行われたので、七年まである元号はあまりありません。次にその「七年」が「申年」と合致する年を探します。そうするとこれは「文政七年 甲申 霜月吉日(1824年)」だと思われます。そう思ってみてみると七の上の方に残っている左払い、右払いは「政」の字の一部のような気がしてきます。
左側面には「左はらいち」の案内と「武州足立郡吉野原村鈴木講中」「世話人 大左衛門 甚右〇〇」と彫ってあります。「鈴木」というのは、近くの小字名で今も東武バスのバス停の名前に残っています。またこの地域には「鈴木」さんという家も沢山あります。(私は関係ないよそ者の鈴木ですが…)
この文政七年の庚申塔は、今見ると、文字が刻んである正面は西側に立っている倉庫の壁の方を向き、道路の側からは裏側しか見えません。以前から「場所を移されるか何かで向きが変わってしまったのだろうか?」と思っていたのですが、今回、いつもの「明治迅速測図」を調べてみて、疑問が解けました。
小さくてちょっと見にくいですが、上の地図で赤く②と数字を入れたところが、この庚申塔の位置です。ちょうど道が二股に分かれたところにあり、これなら確かに左側の道を行けば、原市へ、右の道を行けば岩槻方面へ行きます。正面が西側を向いているのも中山道から東に曲がって入ってくるとこの庚申塔の正面が見えるようになっていたわけです。つまりこの庚申塔は向きも位置も変わっていないのに、区画整理で右側の道がつぶされ、その場所に倉庫が立ってしまったのですね。
ついでに上記の「寛政12年」の庚申塔の位置も見てみます。この庚申塔の位置は地図上の①です。庚申塔の前を通り西北西に斜めに伸びている道は、現在では高崎線の線路で切断されていますが、たどっていくと以前紹介した西宮下の天神の方へ抜けます。そこを南に曲がれば中釘の秋葉神社方面へ、西へ行けば平方~川越です。左側面に里程が書いてあるのは、道案内の機能も果たしていたわけです。
さらにこの二つの庚申塔をみると、ウィペディアに載っている「像→文字」の変化は、上尾のあたりでは19世紀初めに起きたこともわかります。
ちょっと長くなりましたが、いろいろと勉強になりました。
1/19 能登地震義援金 & おまけ「厄除けの鐘馗様」
今週17日夕方、与野高校生徒会本部のみなさんが、自分たちで集めた能登半島地震義援金を埼玉新聞・社会福祉事業団に寄託し、その様子が今朝の埼玉新聞で報道されました。「被災した方々に一刻も早い支援を」と、始業式当日から募集を立ち上げ、ほんの数日間で予想を上回る29万1458円を集めることができました。
「善行は人知れずしてこそ」とも思いましたが、せっかく生徒の皆さんが頑張った成果ですので紹介させていただきました。
義援金の紹介だけだとちょっと物足りないので、おまけです。今回のおまけは、前回上尾の庚申塔の撮影に行ったついでに見てきた新井屋呉服店さんの鐘馗様です。
鐘馗(鍾馗とも書く)様は、元は中国の道教の神様です。唐の玄宗皇帝が病気になった時、夢枕に立って快癒させたとかの伝説があり、病気をはじめとした厄除けに験のある神様とされています。
上尾宿は幕末から明治にかけて3回も大火事がありました。そのため上尾では屋根の上に鐘馗様をまつって、厄(火事)除けを祈願することが流行したそうです。新井屋呉服店さんの鐘馗はその名残です。この鐘馗様は新井屋さんが上尾宿の脇本陣だった細井家から受け継いだもので、明治初期に作られたものらしいとのことです。保存状態がよくそんなに古くは見えないのですが、もう150年以上前のものということになります。上尾ではこの他にも、伊勢屋というお菓子屋さんが「鐘馗羊羹」を売っていて店頭にも鐘馗様の像が置いてあります。
屋根の上に鐘馗を祭るのは元々京都など上方の風習だったようです。上尾では清酒文楽の「北西酒造」さんが近江商人の流れを汲んでいるという話ですが、中山道で京都とつながっていた上尾には、江戸時代に上方からやってきた商人が多かったのではないかと思います。
いきなり大地震で始まった令和6年ですが、鐘馗様のお力で今後は天災などの少ない一年になりますように…。
1/15 プチ史跡巡り(34)上尾宿の庚申塔
この週末の大学共通試験は、関東地方では雨や雪(ちょっと降りましたが)の影響もなく、大きな交通機関の乱れもなかったようです。余計なフラグを立てないように先週はごく軽く触れるだけにしていたので、まず無事でよかったです。
さて、前回、上尾宿の北側に当たる上町の庚申塔を紹介したので、今回はその続きで南側の愛宕町(旧下町)の庚申塔を紹介します。
この庚申塔は、上尾駅から中山道を1kmくらい南下した愛宕神社の境内にあります。鳥居と参道、塔を覆う祠を備えていて、前回の上町の庚申塔よりかなり待遇がいい感じです。この庚申塔も青面金剛と三猿が彫られたよくあるタイプのもので、側面に「享保7年三月壬寅二月吉日」と建立の年月が刻んであります。享保7年はおおむね1722年なので、前回の上町の庚申塔より20年くらい古いことになります。なお、前回、よく読めないとした上町の庚申塔の年紀ですが、その後、検討してみました。多少斜めに流れた異体字っぽい彫り方になっていますが、「延享二年乙丑三月吉日」(1745年)でほぼ間違いないと思います。
さてここの庚申塔ですが、鳥居やしめ縄や紙垂(しで)を備えたところは神社のようで、石に彫られているのは仏教由来の青面金剛、そして本来の動機である「庚申待ち・庚申講」は、中国の民間信仰の道教に由来します。
道教では、庚申の日の夜、寝ている間に人体から三尸(さんし)という虫が抜け出し、その人の行状を天帝(神)に報告するとされています。自分の悪行を天帝に告げられると困るので、庚申の夜は三尸が抜け出さないよう集まって徹夜で祈りをささげます。これが「庚申待ち」、これを一緒にやる仲間が庚申講です。この庚申待ちに仏教やら神道やらが滅茶苦茶に混ざり合ったのが日本の庚申信仰で、庚申信仰で三尸を押さえつけるとされるのが、青面金剛という日本独自の仏(正確には夜叉神)です。現代の我々はこんな混沌とした状況でいいのか、と思いますが、本来の日本の宗教的土壌は、何でも崇敬すべきものはすべて受け入れてしまうものなので、別に問題ありません。
明治維新の後の神仏分離・廃仏毀釈では、この庚申信仰も野蛮な迷信として弾圧されました。この時、地域によっては庚申堂を古事記に出てくる猿田彦命(庚申の申(さる)と猿田彦(さるたひこ)のサルつながりから)を祭るものとすることで存続しました。この愛宕神社境内の庚申塔が鳥居をそなえているのもこのパターンだったのかもしれません(見るからに仏が彫られているのでかなり苦しい感じですが)。ちなみに与野高校近くの庚申堂は、このパターンの典型例と言えます。
明治の神仏分離・廃仏毀釈は、明治維新の名目的なイデオロギーが尊王だったことや、神道を体系的に整ったものに純化させ、欧米の一神教(キリスト教)に対抗できるようにと考えたことが理由だろうと思います。しかし、その結果、多くの地域独自の神々や習俗が消えたり、変質したりしました。今となっては、なんでも受容する日本の豊かな宗教的伝統を、貧しく偏狭なものに変えようとした大変残念な施策だったと思います。
1/12 3学期始まっています。& プチ史跡巡り(33)
ちょっと更新をさぼっていたので、今日は寸暇を惜しんで投稿します。
今週の火曜日から3学期が始まっています。
始業式では、1日に起きた能登半島地震で、ネット上で偽義援金募集や偽の救援要請などの迷惑行為が多発していることを取り上げ、こうした自分勝手なことをする人にならないようにしよう、という話をしました。令和5年度第3学期始業式.pdf
能登半島地震については、生徒会本部とボランティア同好会が今、義援金の募集をしています。本校の生徒の皆さんが困っている方々に共感する気持ちを持っているということは、校長としてうれしく思います(この書き方はちょっと偉そうですね。もっといい表現はないものでしょうか)。
また三年生のみなさんは、いよいよ共通試験です。本校のモットー「二兎を追い、獲得する」の通り、それぞれが自分にとって納得のいく成果を獲得してほしいと思います。
さて、こういったブログも文字だけでは寂しいので先日、とったプチ史跡の写真を掲載します。
上尾の中山道沿い、上町の文楽酒造のちょっと南側にある石碑です。一部剥落はありますが、青面金剛と三猿がほられた典型的な庚申塔です。
片側側面には「上尾上町講中」という文字がくっきり刻まれています。
反対側面には「延享〇年三月吉日」と建立の月日が刻まれています。刻字ははっきりしているのですが、「二」という字の上にいろいろ重なったような彫り方で、どう読むのかわかりません。まあ延享は1744年~48年の足掛け5年しかないので、その辺ですが…。
いつも頼りになる明治迅速図でみるとこの場所は上尾宿の街並みの北限で、この庚申塔は宿場境を守るものであることがわかります。上尾宿の南限は、地図で見ると、今は愛宕神社になっている辺りですが、ここの境内にも庚申塔があったように思います。今度写真を撮ってきます。
1/5 昨日は仕事初めでした
昨日4日は仕事初めでした。私も昨日から出勤して今年の仕事の準備などをしましたが、今年は三賀日も開けないうちから能登半島地震、羽田空港での航空機衝突など、大変な幕開けとなりました。
今回の地震が起きた北陸地方は、美しい自然と伝統文化の残る本当に良いところです。それが珠洲市では中心市街が壊滅、輪島市では火災等により広い範囲が消失するなど甚大な被害を受けたとのことです。死傷者の報告もいまなお増え続けています。被災された皆様のご無事を祈るとともに、被災地域、被災者のために私たちができることを考えていかなくては、と思います。
上の写真は上尾駅近くの氷川鍬神社境内にある富士塚です。高さは低めですが、黒色の溶岩をふんだんに使った立派なものです。
これらの山岳信仰の根本は、何と言っても火山噴火の猛威へのおそれでしょう。上の写真でも見られるように、各地の富士塚や浅間神社の境内には、火山周辺からわざわざ運んだと思われる溶岩がよく使われています。つまり山=溶岩という意識があるわけで、富士講や御嶽講などの山岳信仰の根本には、噴火の被害を鎮めたいとの祈りがあったことが伺えます。
現代は科学も進歩しましたが、地震や火山噴火などの天災の前には、我々のできることは古代人とあまり変わりません。昨年末に紹介した寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」という名言を残したと言われていますが、地震と火山の国、日本にすむ我々はこの言葉を忘れてはならないと思います。私達の住む関東地方でも、相模トラフや南海トラフの地震の危険性が高まってきていると言われます。今回の能登半島の地震は決して人ごとではありません。十分な心構えと備えをしたいものです。
1/1 明けましておめでとうございます
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
正月だけに鏡餅の写真ですが、実はこれミニチュアです。ちょっと工作をしようと百円ショップで買った樹脂粘土が固まると少し透き通った餅そっくりの質感になることに気付いたので、年末に作ってみました。1/6スケール(高さ5cmくらい)ですが、我ながらいい感じにできました。
年が明け3学期がはじまると、学校のほうは3年生の受験、入学者選抜、卒業式と怒涛のように行事続きですが、正月三賀日は箱根駅伝でも見て過ごします。
ところで初夢というのは昨晩見た夢のことではない(大みそかの夢だから)、ということでいいですよね。「中学生の自分が、宿題をさぼって焦りまくっている…」などという夢が初夢では、今年の運勢は最悪なのではと思ってしまいます。これはノーカウントにして今晩に賭けたいと思います。
(追記) 先ほど、近所の神社に初詣でに行ったところ、富士山がきれいだったので、写真をアップします。この写真を枕元に置いておめでたい夢をみるぞ!
(さらに追記)上の「追記」を書いたのが元日の昼頃でした。その後、夕方に能登半島地震が起きました。のんきなことばかり書いていて被災された方には申し訳ないのですが、上の本文や追記を書いた時点では、地震などまったく予想だにしていませんでした。