2024年2月の記事一覧
2/20 春近し
明日は公立高校の学力検査なので、手短に。
梅が咲き始めました。街角や公園などあちこちで、梅の花の良い匂いを感じます。梅の次は桜です。本格的な春はもうすぐそこです。
明日の公立高校の学力検査に挑む中学生の皆さん、高校生でまだ国公立大の入試などに挑む皆さん。あと一息です。最後までベストを尽くしてください。試験の結果は必ずしも思い通りにならないかもしれません。しかし全力を尽くして得た結果は、自分自身の成果として胸を張っていいものです。納得のいく戦いをしてください。
2/15 春一番 & プチ史跡巡り(37)道路跡を探す
今日は「春一番」とかで生暖かい南風が吹きつけています。先ほど、防災訓練でグラウンドに出る際に「寒いかな」と思って、ウインドブレーカを持って行ったのですが、着る必要がありませんでした。季節はどんどん春に向かっているのですね。
防災訓練ではさいたま市消防局の起震車に来てもらっての地震体験もありましたが、震度7ともなると、立ち上がって何かするのは不可能になる、というのがよくわかりました(写真下)。いざというときに慌てない心構えをしておきたいと思います。
さて、今日のプチ史跡は本当にプチです。プチ史跡(35)で、かつては道の分岐点に立っていた庚申塔が、片側の道がなくなってしまったため、今は変な方向を向いているように見えるという話を書きました。それ以来、昔から残っている道の跡を探すのにちょっとはまっています。
上の写真は、上尾運動公園の国道17号東側部分(かつての水上公園の側)の森の中の道です。
この道のある上尾市とさいたま市の境界付近は、昔はあまり水に恵まれず少々の畑作地のほかはマツやナラの林などが広がる地域だったようです。その後、この辺りには「吉野原工業団地」などができ、大幅な区画整理が行われたので、道路網も大幅に書き換えられてしまいました。その中で、この道は数少ない昔のままの道なのです。
上の地図は、「歴史的農業環境閲覧システム」の比較地図から借りたものです。地図上の赤い縦線が写真の道です。左側の明治迅速図を見ると、現在は交通の大動脈となっている国道17号は影も形もありません。しかし写真の田舎道は今と同じ位置にしっかりあります。長くつながってはいないので街道という感じではありませんが、南側の集落と北側を通る上尾原市新道(青い線)を結ぶルートになっています。当時の上尾原市新道は地方の重要ルートだったので、それに接続するこの道もかなり人通りがあったのではないか? 思われます。
そういう目でみると、変哲のないただの田舎道も、なかなか楽しいものに見えてきます。(って私だけですか?)
2/9 入試業務が始まりました。& 「マルハラ」?
今週の7日から県公立高校の入学者選抜の願書受付がおこなわれています。中学生の皆さんの進路を決める大事な選抜ですので、ミスがないように気を引き締めていかなくてはなりません。とはいえ、肩に力を入れすぎていると視野がせまくなってしまうので、いい意味での平常心を持っていきたいと思います。
平常心を保つためにもブログ更新をというわけで、お題は「マルハラ」です。
「。」
先日、ネットの産経新聞の記事を見ていたら、最近は「マルハラ」というものがあるそうです。それは何かというと、LINEなどのアプリでやり取りをする際、年配の人たちは、それらのメッセージにも正規の文法に従って句読点(、や。)を使いますが、若い人たちは、それ(特に「。」)に威圧感や恐怖を感じるので嫌だ、というものです。記事によれば若い人たちは「。」によって文の終わりを宣言されると、会話が打ち切られ、その後のコミュニケーションが続けられない気がして嫌なのだそうです。
その説明を読んでも、私にはどうも意味不明なのですが、無理に推し量ってみれば、若い人たちには文の流れを制御して論理を整える「、」「。」の機能は不要で、それよりはだらだらと「繋がって」いるという気分の方が大事ということなのでしょうか。
仮にそうだとして、これが若い人たちが友情に厚い証であれば、それはまあいいことなのかもしれません。しかし、これが自分の知らないところで何を言われるのかわからないから、人との会話を途切れさせられない、という不安感の表れであるとすれば、若い人たちの心の健康は大丈夫なのだろうか、と思います。
またその記事では、「マルハラ」を防ぐために若い人とのやり取りでは、文末を「。」で結ばず、「!」をつけたり、顔文字(スタンプのこと?)で結ぶのが良い、という識者のアドバイスも載っていました。
しかし、そもそもこの「マルハラ」とやらは防ぐ必要があるのでしょうか? なんでそこまで若者の(おかしな)感性に迎合しなければいけないのか、皆目理解できません。むしろ若者に日本語の文法を守るよう指導すべきだと思うのですが。
2/2 もうすぐ立春 & プチ史跡めぐり(36)庚申塔探し(2)
暦の上では明後日は立春ですが、今日は朝から寒いですね。「春は名のみの風の寒さや…」とか思わず歌いたくなります。月曜日は雪の予報も出ているようです。今から授業措置などはしませんが、生徒の皆さんはこの学校Webページやメール配信での情報に気を付けていてください。
さて、今回のプチ史跡も「庚申塔探し」、私のジョギングコースシリーズ(?)です。
国道17号と県道51号の交わる「上尾運動公園前」交差点の北東角にマクドナルドがあります。そのすぐ裏の東町公民館のところにも庚申塔があります。
ちょっと摩耗は進んでいますが、青面金剛の背景に彫られた唐草文様など、なかなか繊細な感じです。正面左側に年紀が彫ってあります。一部不明瞭ですが、「宝永七年庚寅九月艮辰日 敬白」と書いてあるようです。しかし「艮」は子と卯の中間(北東)なので十干十二支の組み合わせにはなく、「艮辰」という日はないと思うのですが…。正面右側の刻字はもっと読みづらく、かろうじて「奉〇〇庚申像一躰各ノ施主諸願成就処〇」のように見えます。
宝永七年は1710年ですが、宝永年間は、宝永4年に推定マグニチュード8以上の宝永地震が起き、それに引き続いて富士山が大噴火、さらに浅間山や阿蘇山も噴火を繰り返すなど大変な時代でした。人々の神仏を頼ろうとする気持ちも一段と高まったのではないかと思います。
この庚申塔の隣にはもう一つ同じくらいの石塔があります。
庚申塔ではなさそうですが、何なのか私にはわかりません。文字がたくさん刻んであるのですが、繊細な彫なので摩滅が進み上部に梵字のサークルのような模様があり、その下に「南無阿弥陀仏」と書いてあります。左側には「〇月廿一日」と日付が刻んであるようですが、年を示す部分はないようです。下の方にはたくさん人名のようなものが刻んであります。その中に「向原(?)」とよめるような部分があります。
この石塔の場所は、鎌倉街道(羽根倉道)と伝えられる道に面していて、昔は勢至堂があったとされる場所です。ここからは15世紀の月待供養塔も出土しています。昔の上尾市報に掲載されたその月待供養塔とは、この石塔は形が違うようなので、別物でしょうが、「廿一日」のように見える刻字からするとこれも「二十一夜待ち」の石塔だったりするのでしょうか。私は日本史も宗教史も全くの素人なのでわかりませんが、石碑、石塔の類もなかなか面白いですね。