校長室ブログ

2024年3月の記事一覧

3/18 プチ史跡巡り 道の跡(39)

 学校の方は入学者選抜も卒業式も終わり、一段落というところです。

 さて今回も何の役に立つかわからない史跡巡りシリーズです。

 JR浦和駅の西口側、イトーヨーカ堂の前を県庁の方へ向かう「裏門通り」という道があります。ちょっといい感じの洋食屋さんなどがあり、週末はなかなかにぎわっています。

 さて、この通りを西へ進み、中山道を越えて玉蔵院前の通りと交差するところです。なぜか小さなレンタカーの営業所を取り囲むように路地があります。(写真上は裏門通り側から、写真下は玉蔵院前の通りの側からみたところ)

 

 

 ショートカットするためこの路地を通行している人は結構いますが、別になくても大して困らないはずで、なぜここに道があるのか、ちょっと不思議です。地図で見てみるとこんな感じです(赤い〇。この地図と明治迅速図は「歴史的農業環境閲覧システム」サイトから借りました)。

 

 で、昔はどうだったのか? ということでいつもの明治迅速図を見てみます。

 

 一応、黒い線が通っていますが、ほそい裏道のようです。その南側の裏門通りは今と同じところを通っていたことがわかります。家を表す四角形が並んでいるところを見ると、この時代から結構繁盛していたようです。現在の交差点から南側の玉蔵院前の通りはまだありません。

 いつもだったらここまでなのですが、浦和についてはさらに古い地図を見られるので、それを見てみます。さいたま市所蔵の「浦和宿絵図」(文化8年/1811年)です。(画像はいつもお世話になっている「咲いた万歩」さんのサイトから借りました)

 

 この地図をみると「おお!」という感じで疑問氷解です。江戸時代には玉蔵院の境内が今よりも広く、今の裏門通りにあたる道は境内をよける感じでカギ状に曲がっていたんですね。現在レンタカーの営業所がある場所は、玉蔵院の境内の角に当たります。この形跡が今も残っているわけです。

 土地の境界というのは、年月を経てもなかなか動かないもののようです。古代官道の跡が今も自治体の境界になっていたり、古代の条里制が今も水田の境界になっていたり、といった例が全国にあります。このレンタカー屋さんの周りの不思議な道路もだいぶプチっとしていますが、そのようなものの一つといえます。

 

 

3/8 卒業式

 本日は与野高校の第69回卒業証書授与式でした。

 未明からの降雪で雪の卒業式となりました。足元が悪く、冷え込みも厳しかったのですが、過ぎてしまえば印象に残る卒業式になるのではないか、と思います。

 本日の卒業生答辞で前生徒会長の三友さんが、私たちは一年生の校外ホームルーム(遠足)の時も雪だった。よくよく雪に縁のある学年だ、という話をしていましたが、そういえばそんなこともありました。今日はまだ3月で、早春の雪というのは珍しくありませんが、3年前の校外ホームルームは4月下旬でした。そんな時期に雪がふるのは流石に珍しいので、三友さんの言う通り、誰か「雪男」か「雪女」、「雪性別は未回答」な人がいるのかもしれません。

 それにしても三友さんは朝の天気を見て、急遽、答辞の内容を一部変更したのでしょうか? 素晴らしい機転です。さすが与野高生!

 校長式辞では、先ごろ日本の名目GDPがドイツに抜かれたニュースを取り上げ、今後の日本の復活は、皆さんにかかっている、という話をしました。第69回卒業式式辞.pdf

 別に世界4位でもいいじゃないか、という人もいるかもしれませんが、私は、今のままでは日本はどんどん転落して貧しい国になってしまいそうな危機感を持っています。若い人たちの奮起を期待したいと思い、そんな話をさせていただきました。

 

3/5 道しるべ ~プチ史跡(38)

 今年の高校入学者選抜も明日の追検査の結果発表を残すだけとなりました。

 先日、冷たい雨の中、自転車で走っていたらいい感じの石塔を見つけました。

 

 

国道17号の緑丘交差点を東に曲がり、少し進むと「ディスカウント トライアル」というお店のところに、変形6差路があります。そこを右に曲がって100mくらい行くと、住宅地の中に3坪くらいの石柵に囲まれた空き地があり、そこに小さな石塔が立っています。

表面には少し薄れていますが「牛頭天王」と彫ってあるのが読めます。右側面には「宝暦二申六月吉日」と建立の日付があり、左側面には「上〇〇」と願主が刻んであったようです。(上〇〇はたぶん「上尾村」でしょう)

牛頭天王は、このブログには何度も登場していますが、牛頭人身(ミノタウロスですね)で、京都の祇園社などに祭られている疫病の神様(祇園様)です。してみるとこの石塔と囲い地は小さいながらも祇園様のお社とその境内という事になります。すごくきれいに手入れされていていい感じです。

この祇園様の周辺も、区画整理や宅地開発などで昔の道筋が大きく変わってしまっていますが、お社が面している道路は明治迅速図にも載っていますし、近くの変形6差路も昔は5差路だったようですが、ちゃんと載っています。

 よく見ると、この祇園様自体も、お社のマーク(今の地図記号とは異なり、小さな社殿のような絵で表される)で載っているようです(上左の地図中の赤丸)。

 この祇園様は、原市から桶川へ抜ける街道に面していました(今は寸断されていますが)。原市は市場町としてにぎわった場所で、桶川も中山道の宿場や紅花の集荷される場所として栄えた町です。きっと多くの人がこの祇園様の前を通って行ったことでしょう。この石塔は違いますが、庚申塔などには旅人のための道しるべの役割を果たしているもの(プチ史跡第35回参照)が多くあります。また道しるべの機能はなくても、これらの石塔は自分たちの集落や道行く人々の安全を祈って建てられたものです。私は、昔の人のこういう素朴な信仰心に共感します。この祇園様が建てられたのは刻まれた年紀によれば宝暦2(1752)年ですから、270年もの間、この場所を守ってきたわけです。きっと地域の方に大事にされてきたのでしょう。思わずほっこりして、冷たい雨に冷え切った体が少し温まったような気がしました。

 そういえば、今度の金曜日は早いもので、本校の卒業式です。今度卒業する3年生の皆さんがそれぞれどんな宗教や神様を信じているかは知りませんが、3年生の皆さんの上に末永く、何らかの神様のご加護と導きがあるよう祈っています。